第37話 祈りの罠
方針は決まった。取り返しに行く。
残ったのは、いちばん難しい問いだった。どうやって取り返すか、だ。
まともに攻め入れば、あの仮面は村人を盾にする。姫を差し出せば、望み通りになるだけ。攻めても渡してもいけない相手の懐へ、それでも入り込まなければならない。
軍議で答えを求められたとき、ルカは即答できなかった。代わりに、三日欲しいと願い出た。手掛かりは、ある。谷で視た逆さの式。そして、イリアの腕に打ち込んだ、あの浄めの楔。編み手の技の切れ端が、まだ手の中に残っている。
支度の期限は、三日と切られた。
その三日を、ルカは工房にこもって過ごした。
工房といっても、物置を片付けただけの小部屋だ。卓の上に木枠を置き、麻糸を張る。谷で視た結び目を、指が覚えているうちに、ひとつずつ形に起こしていった。祈祷の式は本来、目に見えない。見えないものを考えるとき、ルカは昔から、こうして糸で編んでみるのが癖だった。王都の書庫の隅で、独りでやっていた癖だ。それが今、人を取り返すための仕事になっている。
裏返った結び。外へ向く目。差し出す端。
編んでは解き、解いては編み、二日目の夜。指の下で、ふいに絵が繋がった。
(あれ……? もしかして)
綱は、引くだけの道具ではないはずだ。引けば、応えが返る。糸の張りで魚の重さが伝わるように、綱の向こうの手応えを、引き手は読んでいるのだ。だからあの仮面は、イリアを一度引き、重さを確かめ、それで満足して手を放した。
なら。
その手応えを、偽物にすり替えられたら。
(なんとかなるんじゃないか?)
そんな確信を、持ち始めていた。
*
三日目の朝、ルカは執務室で、木枠を卓に置いた。麻糸の模型を囲んで、イリアとヴァルターとガングが顔を寄せる。
「敵の綱の先に、偽物の重さをぶら下げるんだ。……釣りの要領だよ」
姫様の鎖の上に、薄い膜の式をもう一枚重ねた。綱が引かれたら、膜が代わりに応える。従いました、向かっています、という手応えだけを、向こうの手元へ返し続けるのだ。編み手の体系は、谷で視た。同じ体系で応えを織れば、糸の向こうからは、本物と区別がつかない。
「つまり私は、餌のふりをした釣り針というわけですね」
「……嫌なら、別の手を」
「いいえ。上等です」
イリアは即答した。それから木枠の糸を、指先でそっと弾く。
「三年、引かれるだけだった綱みたいですから。今度はこちらが、この綱で釣り上げてやります」
強気に微笑み、そう言い切る。
それでこそ、姫様だ。
「だが、問題はいくつかある」
ヴァルターが模型を睨んで、順に問いを置いていく。
「膜はいつまで保つ?」
「半日かな。保って一日です」
ルカが答えた。
更に問いは重なった。
「見破られたら?」
「その場で終わりです。その前に、相手の懐に入ります」
「誰が式を保つ?」
「僕が、姫様の隣で」
最後の答えのところで、団長は短く頷いた。
「ならば本隊の芯は、姫と祈祷師の二人。我らはその周りを固める殻だ。……成程、絵は見えた」
「別動隊はうちで預かるぜ。眠ってる連中を運ぶ隊だろう。担架と背負子、荷馬の算段はもう始めてらあ」
ガングの手回しの早さに、思わず頬が緩んだ。作戦の名前を決めよう、と誰かが言って、結局そのまま、ルカの言った言葉が残った。
釣り、である。姫騎士を針にした、王国でいちばん罰当たりな釣りだった。
その日の砦は、朝から晩まで鳴りやまなかった。
鍛冶場では槍先が打ち直され、厩では蹄鉄が検められる。中庭には担架が並び、ヨナスが荷の目録を手に、兵站の列を差配していた。三日分の糧食、水、薬草、毛布。眠ったままの村人を百人近く運ぶのだ。老従者の帳面は、どの頁も細かい字で真っ黒だった。
村からも、人が来た。
先頭にいたのは、あの猟師だった。北の山道を、誰より知っている男。
「山道はおれが引き受けた。ノルドにゃ、従兄弟がいるんだ」
「……危ない道になるよ」
「知ってらあ。あの村の静けさを最初に見ちまったのは、俺だぜ。尻尾巻いて寝てられるかよ」
猟師の後ろには、荷車が続いていた。村の蔵から出された麦袋、豆、干し肉。婆様までもが竈の前に陣取って、腕まくりで握り飯の山を築いている。麦と豆の、拳ほどもある握り飯だ。湯気の向こうで、婆様は集まった女衆に号令を掛けていた。兵隊は腹が減ると弱いんだ、詰めるだけ詰めな、と。
その足元を、小さな影が駆け回っていた。
「俺も行く! 百回素振りできるもん!」
「はいはい、あんたは留守番の隊長だよ」
少年は婆様に首根っこを掴まれて、じたばたと宙を掻いた。それでも婆様が「留守番ってのはな、砦を預かるってことだよ」と続けると、ぴたりと止まって、それから神妙な顔で頷いた。単純で、まっすぐで、眩しかった。
あの冬を、ふと思い出す。
祈祷師なんて役に立つのか、と遠巻きに囁かれていた頃のことだ。あの頃と同じ村の、同じ人たちが、今はルカの言葉ひとつで立ち上がり、隣村の人たちを取り返すために蔵を開けている。祈りは数で測れるものではないはずだ。でも、こうして形にはなる。
午後の調練場からは、号令が聞こえてきた。
ヴァルターが、兵たちに稽古をつけている。
出立を明朝に控えた、最後の調練だった。並んだ盾の列を、団長は端から歩いて検めていく。構えの角度を直し、足の幅を蹴って直し、それから列の前に立って、よく通る声で言った。
「盾は隣の者のために構えよ。自分の盾は、隣が持っている」
兵たちの盾が、半歩ずつ寄った。
一枚では隙間だらけの盾が、隣を庇う角度に傾いた途端、壁になる。三人一組の受けと流し、崩れた列の立て直し、退き足の足並み。団長の指導は容赦がなく、その分だけ実があった。はじめは硬かった兵たちの顔が、汗が乗るにつれてほどけて、しまいには自分から打ち込みを願い出る者まで出てくる。
柵に寄りかかっていたガングが、舌打ちをした。
「……ちっ。腕だけは、本物だな」
「腕だけ、じゃないと思うけどね」
「うるせえ。……分かってらあ」
古参兵は槍を担ぎ直すと、自分も列に加わりに行った。王都の型と辺境の型が、打ち合っては混ざっていく。その音を聞きながら、ルカは団長の言葉を胸の中で転がしていた。
自分の盾は、隣が持っている。
どこかで聞いた形の話だ、と思った。ひとりで背負わない。誓ったのは、ルカだけではない。あの誓いを、戦の言葉に直すと、ああなるのかもしれなかった。
*
その夜、ルカは眠れなかった。
寝台で何度か寝返りを打ち、諦めて、上着を羽織って城壁へ上がった。
夜気は澄んでいた。初夏の入り口の、まだ薄く冷たさの残る風。空には月が高く、北の山並みは銀色の線になって、闇の中に静かに横たわっていた。あの稜線の向こうに、音のない村がある。眠ったままの人たちと白い仮面がいる、あの谷も。
明日は、あそこへ行く。
分かっていて決めたことなのに、胸の奥はまだ、ざわめきをやめてくれなかった。
石段に、足音がした。
振り向かなくても分かる。三年この砦を守ってきた人の、静かで正確な足取り。王女殿下その人である。
イリアは隣まで来ると、当然のようにそこへ並んで、同じ北の山を眺めた。稽古着でも指揮官の装いでもない、白い夜着に肩掛けだけの姿で。いつも結い上げている白銀の髪が、今夜は背に下りていた。月の光を吸って、髪そのものが淡く発光しているようだった。
「眠れませんか?」
「……うん。姫様も?」
「ふふっ。指揮官が前夜に眠れないなど、兵に知られたら大事です。内緒にしてくださいね」
冗談の形をした、正直な言葉だった。ルカは小さく笑って、それから、胸の中のざわめきを、そのまま言葉にしてみることにした。この人には、隠さないと決めている。
「僕、怖いよ。……作戦が破れるのも、誰かが欠けるのも。考え出すと、きりがない」
「私もです」
姫騎士は、あっさりとそう言った。
「私だって、怖いですよ。三年前からずっと、あの鎖が怖くてたまりません。あの谷でも、心臓が止まるかと思いました。……でも、不思議ですね。今は、あのときより怖くないんです」
「どうして?」
「あなたが編んだ式がこの腕にあるから、に決まってるじゃないですか」
イリアは左腕を軽く持ち上げた。ルカが三日かけて編み上げた、偽の応えの膜。彼女には視えないはずのそれを、大切な守り布のように。袖の上から、そっと押さえた。
「これまで縛られるだけだったのに、ここで初めて、こちらの糸が重なっているんです。……それがどれだけ心強いか、編んだ本人は分かっていないでしょうね」
返す言葉に詰まった。
膜は囮だ。守りの式ですらない。それでも、この人にとっては違うのだと言われて、三日分の夜なべが、急に報われた気がした。
沈黙が下りる。気詰まりではない沈黙だった。月が少し傾いて、遠くで夜番の兵の足音が、こつ、こつ、と壁を渡っていく。
先に口を開いたのは、イリアだった。
「帰ったら、丘へ行きましょう。今度こそ、皆で。ヨナスが樽を用意すると張り切っていましたから」
「ノルドの人たちも、誘おうよ。あの根菜の甘さは、大勢で騒いで食べる味だから」
「ふふっ、それは名案です。百人の宴ですね。どれだけのお料理が要るのでしょう?」
帰ったあとの話を、当たり前の顔でする。それが今夜いちばんの強がりで、いちばんの誓いだということを、二人とも分かっていた。笑い声が夜気に溶けて、消える。
やがて、イリアがこちらへ向き直った。
月明かりの下で、姫騎士はしばらく、言葉を探すように黙っていた。それから、すっと右手を差し出した。
「ルカ」
「……うん」
迷いは、なかった。
差し出された手に、自分の手を重ねる。剣だこのある、指の長い手だった。冷えているかと思ったのに、触れた掌は熱かった。
雪解けの朝を思い出す。あの朝も、この手を繋いだ。あのときは、流れだった。嬉しさと勢いに押されて、気づいたら繋いでいた手。噂になって、訂正文も書けなくて、二人して大慌てした。
でも、今夜は違う。
差し出すのも、取るのも、互いに選んだものだ。明日、いちばん危ない場所に並んで立つ者同士が、そのことを分かった上で、選んで繋いでいる。
イリアの指に、ゆっくりと力がこもった。
「必ず──全員で、帰りましょうね」
「うん。……約束する」
指切りは、しなかった。子どもの約束の形は、もう要らない。掌と掌で交わす約束が、ここにあるから。
それきり、二人とも喋らなかった。
月が山の端へ近づいて、東の空がわずかに白み始めるまで。北の稜線を並んで眺めるあいだ、繋いだ手は、どちらからも離れなかった。




