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第38話 北の祭壇

 夜が明けきる前に、隊は砦の門を出た。

 先頭を行くのは猟師である。街道は使わない。獣の通う細道を拾い、尾根の腹を巻くようにして、北へ北へと列を導いてくれた。荷馬の蹄には布を巻いた。担架は分けて担ぎ、鍋の類には藁を噛ませてある。物音を殺すための工夫を、ヨナスが出立前の晩に帳面から残らず掬い上げてくれたのだ。

 暮れ方、隊は音のない村へ入った。

 ノルドは以前と何も変わっていない。戸は開き、竈は冷え、鍬は畑に刺さったまま。誰も帰っていない。兵たちは家に上がらず、村外れの窪地に火も焚かずに伏せて夜を越した。

 東の空が藍を薄めはじめた頃、ルカはイリアの左腕へ膜を重ねた。

 まくり上げた腕は、朝の冷えで白い。その白さの下に、あの黒が幾筋も眠っていた。三日かけて編んだ薄い膜を、結び目のひとつずつへ丁寧に被せていった。

 偽の応えが、糸の向こうへ流れ出す。

 従っています、向かっています、と。三年ものあいだ引かれるだけだった綱に、初めてこちらから声が返った。


「……どうですか、姫様。痛みとか、変なところは」

「ありません。むしろ、あたたかいくらいです」


 イリアは袖を下ろし、腕を二度、軽く振ってみせた。


「妙ですね。嘘をついているのはこちらのはずなのに、身体はずいぶん楽です」

「嘘は苦手なんだけどね。僕」

「ふふっ。今日だけは、王国一の嘘つきでいてください」


 谷へは、正面から入らなかった。

 猟師が案内したのは、東の岩肌に貼りついた山羊道だった。人ひとりが肩を擦りながらようやく通れる幅しかない。半刻ほど登り、灌木の茂みを抜けると、岩の割れ目に出た。

 その真下に、あの袋小路がある。

 腹這いで覗き込み、ルカは息を詰めた。


「あれ?」

「誰もいませんね」


 姫騎士が、周囲を見回す。

 広場は空だった。

 村人たちの列がない。整然と並んでいたあの背中も、端に座っていた小さな影も、ひとつ残らず消えている。心臓が嫌な打ち方をした。

 でも、視えている。細い黒の糸は変わらずそこにあった。広場を横切り、祠の暗がりへ吸い込まれていく。前と同じ流れだ。ならば、人もその先にいる。

 猟師が肘で合図を送り、割れ目の縁をさらに奥へ這っていった。岩と岩の噛み合わせが緩んだ場所がある。長い年月の崩落が下の屋根を破り、その穴がそのまま、地の底を覗く窓になっていた。

 三十尺ばかり下に、それはあった。

 神殿の跡だ。山肌に半ば呑まれ、土砂に埋もれ、それでも柱の列だけが折れずに残っている。屋根は落ち、床には瓦礫が散り、その中央だけが掃き清められていた。


(祭壇、かな……?)


 黒い石を削り出した、腰の高さほどの台。上面に、浅い窪みが穿たれている。人ひとりが横たわれるほどの窪みだった。

 そして、それを囲んで。

 村人たちが、眠っていた。

 円を幾重にも重ねて、祭壇へ向かって膝を揃えている。谷の広場にいた頃より、列がずっと密になっていた。運ばれたのだ。使う場所へ、寄せられて。

 首筋から伸びた黒糸は、幾百も束ねられて祭壇へ流れ込んでいる。流れ込んだ先で糸は消えていた。

 いや、消えたのではない。焚かれているのだ。細い一本一本が台の縁で撚り合わされ、窪みの底へ落ちて、そこで尽きている。

 喉が鳴った。


「ルカ、あれは……?」

「人の命を、少しずつ吸ってるんだ」

「……薪、ということか」

「うん。ゆっくり、燃やされてる」


 ヴァルターの顎の傷が動いた。声はどこまでも平らだった。


「保って、どれくらいだ?」

「数日ですね……急ぎましょう」


 ルカの言葉に、団長は問い返さなかった。頷きひとつで隣の兵に手振りを送り、縄の束が音もなく岩の陰へ回されていく。列の後ろでガングが背負子を揺すり上げ、猟師が窪みの底へ目を凝らし、それから短く息を吐いた。従兄弟を、見つけたらしい。男は何も言わず、鉈の柄を握り直しただけだった。

 ルカは自分の胸に手を当てて、封じの膜を一枚、身に被せた。あの雪原で使ったのと同じ式だ。祈りの気配を薄める、地味な仕事。ここから先は、悟られないほうがいい。

 イリアは、正面から入った。

 白銀の髪を高く結い上げ、〈神剣グラディウス・レガリア〉を吊ったまま、袋小路を横切り、祠の石段を下りていく。護衛はいない。歩みは速くも遅くもなかった。引かれた者の足取りを、この人は三日かけて練習していた。

 ルカはその五歩後ろを、崩れた柱の陰づたいに進んだ。

 膜は、彼女の腕にある。式を保つには近くにいなければならない。近すぎれば気取られる。五歩くらいだ。それが、この三日間、木枠の前で計り続けた距離だった。

 柱の裏に身を伏せる。指先の糸には、まだ張りがある。偽の応えは、途切れていなかった。

 黒衣の一団が、壁際にずらりと並んでいた。祭壇の向こうから、白がひとつ、滑り出てくる。


「ああ。……よくぞ、ご自分の足で」


 紙の擦れるような囁きが、崩れた天井まで届いた。仮面は両手を広げ、迎えるように一礼する。眠る村人たちの円の外を、裾を引いて回り込んでくる足取りは、あの日と寸分違わなかった。


「ええ。……参りました。あなたに言われた通りに」


 イリアの声は硬い。ここでは、その硬さが正しかった。抗いながら引かれてきた者は、そう答えるはずだから。

 仮面が立ち止まり、首がわずかに傾いだ。

 背筋が冷えた。彼は糸の張りを確かめていた。ルカは息を殺し、指の下の織りを乱すまいと、ただ同じ形の応えを返し続けた。従っています、向かっています、と。編み手の体系で、編み手の言葉で。


「よい子です」


 仮面が、そう言った。

 届け物を検め終えたようだ。イリアの背が、こちらからでも分かるほど強張る。

 白い面が祭壇へ向き直り、掌を窪みへ差し伸べた。


「どうぞ。こちらへ」


 その背中を、ルカは待っていた。

 柱の陰で膝を立て、口の中だけで祝詞を通す。出立の朝、兵の一人ひとりに結んだ細い糸へ。名は全員覚えた。顔も、立つ位置も、頭に入れてある。


「聞き届けよ。名も知らぬ神々よ。

 ここに、帰ると誓うた者たちがいる。

 ……汝らにのみ、届け」


 次の刹那、白銀が抜かれた。

 神剣の光が、天井の下いっぱいに跳ねる。それが合図だった。

 岩の窓から縄が落ちた。ヴァルターを先頭に、聖騎士たちが柱と柱のあいだへ次々と降り立つ。反対側の斜面からはガングの別動隊が滑り降り、眠る円のいちばん外へ取りついた。


「担げ! 起こそうとするな、そのまま運べ!」


 仮面の首が弾かれたように上がった。看破は、確かに一拍遅れた。


「小賢しい編み物を……!」

「褒め言葉として、もらっておくよ!」


 柱の陰から飛び出して、ルカは叫び返した。

 神殿の底が、音で埋まった。

 黒衣の徒が抜いた刃は、まともな剣ではなかった。鉈、鑿、ただの棒。それでも構わず突っ込んでくる。


「な、なんなんだこいつら! 気色わりぃ!」


 ガングが徒を薙ぎ倒しながら、嘆いた。

 彼らは腕を斬られても止まらなかったのだ。膝を割られても這ってくる。痛みが歯止めにならない相手だと、兵たちが理解するまでに、少し掛かった。


「隊長、新手です!」


 兵士の一人が叫んだ。

 その言葉通り、瓦礫の陰から獣が出てきた。

 熊が二頭、狼が数えきれず、山猫の群れ。どれも首に黒い糸が食い込んで、そこから力を注がれている。牙は正しく獣のもので、動きだけが獣ではなかった。倒れた仲間を踏み越えることをためらわない。

 円の外側で、ガングの隊が壁を作った。


「運ぶ手を止めるなァ! 殴られるのは俺らの仕事だ!」


 担架が満ちていく。眠ったままの老人が、女が、子どもが、岩の窓の下へ運ばれ、縄で吊り上げられていっま。

 円のいちばん内側に、小さな背中が見えた。

 五つか、六つか。前に来たとき、列の端で行儀よく眠っていた女の子だ。あの日は指一本触れられずに置いてきた。若い兵が膝をつき、毛布ごとその子を抱き上げて、走り出す。腕の中で首がこくりと傾いで、それだけだった。

 ひとり。取り返した。


(僕は、戦えない。でも……!)


 戦えないなりに、やることがあった。

 乱戦の底を這うように動き、指先の糸を絶やさぬまま、祈りを送り続ける。名を呼び、顔を思い出す。ひとりずつ、順に。

 右手の兵の背へ、熊の爪が伸びた。届く、と思ったが、届かなかった。

 兵の背に淡い光が滲み、爪の軌道が指の幅ひとつ外へ逸れる。毛皮が空を裂き、兵は自分が助かったことに気づかないまま、次の敵へ槍を出した。

 二度目は、団長のすぐ左で起きた。

 黒衣の鑿が若い騎士の脇腹を狙い、切っ先が鎧の隙間へ吸い込まれかけて、掠れて滑った。

 三度目に、ヴァルターの踏み込みが半歩、遅れた。


「ルカ殿。今のは……貴殿の、祈りか」

「話は後で! 右、来ます!」


 団長の白刃が跳ね上がり、飛びかかった山猫の顎を打ち上げた。着地と同時に踏み込んで、返す刃で断つ。動きに乱れはない。それでいて、声だけがどこか遠かった。


「──そうか。森でも……これが、我らを」


 それきり、ヴァルターは黙った。

 黙って、戦い方を変えた。

 自分の背を庇う動きが、ひとつずつ消えていく。半身に構えて後ろを警戒していた男が、正面へ深く踏み込むようになった。斬り込む幅が広がり、隣の兵の前まで刃が届く。守る手数を捨てて、その分を隣へ回していた。


『盾は隣の者のために構えよ。自分の盾は、隣が持っている』


 調練場で聞いた言葉が、逆の側からも成り立った。あの人は今、自分の後ろを、こちらへ預けているのだ。

 喉の奥が熱くなった。三年、聖杯に何ひとつ認められなかった祈りが、この戦場でだけは、預けるに足るものとして扱われている。

 息を吸って、送り出す糸を増やした。

 獣の群れが三分の一まで減った頃、黒衣の一団が下がり始める。

 祭壇の前へ。守る位置へ。

 その中央で、仮面がゆっくりと片手を上げた。

 嫌な視え方がした。祭壇へ流れ込む糸の束が、束のまま、ひとつの方向へ撓む。撓んだ先は、イリアだった。


(まずい!)


 白い掌が、黒い石の縁に置かれた。


「……無粋を、お許しください」


 囁きが、乱戦の物音を素通りして耳へ届く。


「品書きに手を入れるのは、好みではないのですが」


 指の下で、膜が弾けた。

 偽の応えを織っていた糸が、片端から千切れて散る。手応えが、消えた。三日ぶんの夜なべが、ひと呼吸で灰にされてしまった。

 イリアの動きが、止まる。


「イリア様!?」


 白銀の刃が空中で静止し、そこから、ゆっくりと向きを変えはじめた。切っ先が下がる。自分の喉のほうへ。

 姫騎士の両手は、確かに柄を握っていた。握ったまま、意思と反対の方向へ引かれていく。腕の筋が浮き、爪先が石床を掻いた。


「か、はっ……身体、が……!」


 仮面は動かない。祭壇に手を置いたまま、片手を軽く胸に当てて、優雅とすら言える一礼をした。


「お返しいただきますよ。三年物の、私の綱です」

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