第39話 汝にのみ、届け!
切っ先が、震えていた。
白銀の刃はイリアの喉の下、指の幅ふたつのところで止まっている。そこから先へ、進まなかった。腕は引かれ続けているのに、刃だけが空中で足踏みをしている。
抗っているのだ。
この人は今、自分の腕と、真正面から力比べをしている。
剣だこのある手の甲に、筋が幾本も浮いていた。奥歯を噛み締めた頬が白い。肩が上下に揺れ、喉の奥から、押し殺した息が漏れる。
「く……ぅ……! 誰が、あなたの自由になど……!」
声は掠れていた。掠れていても、よく通る声だった。
「ほう。まだ抗いますか。三年掛けて編んだ綱に」
仮面は動かない。祭壇に片手を置いたまま、感心したふうに首を傾げただけだった。
「よく育ちました。……本当に、よく育った」
白い面が、窪みへ向く。黒い石を刳り抜いた、人ひとりが横たわれるほどの浅い窪み。掃き清められた底に、乾いた黒がうっすらと染みついている。あれは、初めて焚かれたときの跡だ。
この祭壇は、器だ。
人を寝かせるための、器。
「あと数歩なのです。……王家の血は、ここで注ぐのがいちばん美しい」
美しい、と男は言った。品書きを読み上げるみたいな抑揚で。
背筋を、冷たいものが駆け下りていく。
村人たちの命は、あくまで焚き付けだったのだ。細い薪をゆっくり燃やして、炉を温めてきた。その炉へ最後に注ぐものが、初めから決まっていた。それが、イリアだ。三年前に綱を結び、育て、辺境で待たせ、こうして自分の足で運ばせた。
ヴァルターの怒声が、石の柱を跳ねて届く。
「祈祷師殿! そこへ通せんぼだ、押し切るのに一息掛かる!」
団長は黒衣の壁に阻まれていた。祭壇の前へ、痛みを知らない身体が三重に折り重なっている。斬れば崩れてしまう。崩れても、次が同じ位置へ滑り込む。壁が減らないのではない。減るより、詰めるほうが速いのだ。
ガングの隊はまだ円の外にいる。担架を運ぶ手を止めれば、眠ったままの村人が乱戦へ流れ込んでしまう。こちらも止められない。止めさせてもいけない。
刃が、また指の幅ひとつ、喉へ寄った。
「姫様……!」
走った。
黒衣がふたり、こちらへ向き直る。丸腰の祈祷師など、ひと薙ぎだ。
その前へ、若い騎士が身体ごと割り込んだ。先刻、鑿の切っ先を脇腹で滑らせて助かった、あの騎士だった。盾を斜めに立て、鑿の一撃を受け流し、そのまま肩で押し込んでいく。隣の兵が続いた。さらにその隣が続いた。
二歩。
黒衣の壁に、二歩ぶんの隙間が開いた。
「行け、祈祷師ィ! そこは俺らの仕事だ!」
ガングの怒鳴り声が背中を押す。
「うん、任せたよ!」
ルカは駆け抜けた。盾と盾の作った細い廊下を、腰を落として、一息に。
そして、イリアの左腕の前に立った。
視えている。
喉元へ剣を引き上げているのは、腕に巻きついた黒の鎖だ。その鎖の、いちばん手前の結び目に、掌を近づける。
前は、緩めるだけで精一杯だった。編み手の技は精緻で、こちらの浄めは間に合わせの楔でしかなかった。
でも、それが今日は、やけに近い。
息が触れるほどの距離で、その結びを、初めてまともに視た。
結び目は、二重の輪になっていた。
輪と輪が互いを噛み、噛んだ端が撚り合わされて、解けないように留めてある。
その形は、よく知っていた。
知らないはずがない。祈祷庁の書庫で、擦り切れるほど写した図だ。誓いを結ぶときの、いちばん古い結び方。二人の言葉を撚り合わせ、どちらか一方では解けないようにする、そのための形。
誓約の結び。
(そうか……これ、呪いじゃなかったんだ)
喉が鳴った。
呪いでもなく、枷でもない。綱ですらなかった。
これは、誓いだ。
誓いの形をした、誓いの紛い物。
証拠なら、目の前にある。輪はふたつあるのに、片方の輪にしか、撚りの端が出ていなかった。もう片方は、外から巻きつけられただけだ。結んだ手は、ひとつしかない。
三年前の夜。イリアは、自分が誓わされたことすら知らないまま、名前を勝手に使われた。同意なく結ばれ、当人の署名だけが偽物のまま、三年、履行させられてきたのだ。
道理で、と思った。
これまでルカがこの鎖に届かせてきたのは、浄めの祈りだけだった。呪いだと思っていたからだ。汚れを祓う手つきで、外から擦り落とそうとしていた。だから緩みはしても、根に届かなかったのである。相手の家の造りを取り違えたまま、玄関の錠ばかりいじっていたようなものだ。
入口は、こっちにあった。
ならば。
(誓いなら……僕の領分だ!)
身体の芯が、熱くなった。
治癒でもなく、結界でもない。魔力増幅でもない。聖杯が四つの項目のどこにも落とし込めず、測定不能とだけ書いて捨てた祈り。誓いに応え、誓いを保証する、それだけの祈りだ。
偽の証文は、本物の証文で塗り替えられる。
ルカは両の掌を、結び目へ被せた。
「その鎖、誓いの紛い物だ。……なら、本物で塗り替える!」
「無駄なことを。祈りひとつで、三年の……」
仮面が言い終える前に、ルカは声を張り上げた。
「聞き届けよ。名も知らぬ神々よ。
ここに、一つの誓いあり。
結びしは、面を伏せたる他人の手。
騙りしは、当人あずかり知らぬその名。
縛めしは、三たびの冬。
輪はふたつ、撚りは片方。
交わされざるものを、誓いとは呼ばぬ。
我、祈祷師・ルカ=エルネストが、これを偽りと断ずる!」
黒の鎖が、ぎ、と軋んだ。
軋んだだけで、まだびくともしない。仮面の掌が祭壇の縁を押さえ、綱を引く手に力が加わった。イリアの腕が、また指の幅ひとつ持ち上がる。
構うものか。
声を、もう一段上げた。
「されば、真を告げる。
ここに、一振りの剣あり。
民のために抜かれ、凍える者に衣を掛け、名もなき命の一つとて、見捨てはしなかった剣が。
その担い手は、拾われし場所にあらず、選びたる場所に立つと言うた。
その担い手は、昨夜、我が手を取りて誓うた。必ず、全員で帰ると。
我は、その座に在り。この耳に聞き、この掌に受けた。
偽りは、いっぺんもなし。
我、祈祷師・ルカ=エルネストが、これを真と保証する!」
仮面が、初めて祭壇から手を離した。
白い面がこちらへ向き直る。切れ込みの奥に、測る気配があった。
構わない。まだ、いちばん大事なところが残っていた。
ルカは息を吸い込んだ。
思い出すのは、大聖堂の凪いだ水面だ。三年間、一度も波紋を立てられなかった、あの鏡。祈っても、祈っても、目盛りは針の先ほども動かなかった。誰にも数えてもらえなかった、あの祈り。
あの三年を、今日まで捨てずに持ってきた。
「三年の月日なら──こっちも、積んできた」
声が、腹の底から出た。
「ここに、一つの祈りあり。
量られず、数えられず、いずれの目盛りにも乗らざりし祈りが。
三たびの冬を、我、一日として欠かさざりき。
編まれし三年に、数えられざりし三年を以て、応う。
塗り替えよ、偽りの誓い。
立て、真なる誓い。
どこにも、届かぬこの祈り。
されば、今……汝にのみ、届け!」
掌の下が白く灼け、光の糸が幾筋も奔った。
外側から巻きつくのではない。二重の輪の、その内側へ。撚りの足りない片方の輪へ、光が潜り込んで埋めるように絡んでいく。偽の署名の上に、本物の署名が重なっていった。
鎖の軋みも、変わりゆく。
締める音から、押し返される音へ。
「馬鹿な……綱が、応えない……!?」
仮面の声が、初めて掠れた。
慇懃さが剥がれ、下から粗い息が覗く。白い掌が祭壇の縁を鷲掴みにし、爪が石を掻いた。それでも綱は返事をしない。引いても引いても、手応えだけが遠のいていくのだろう。
イリアの喉から、長い息が漏れた。
指が、動いた。
一本。柄の上を滑り、握り直す。
二本。三本。ひとつずつ、自分の意志で位置を取り戻していく。爪の白かった指先に、血の色が戻った。
切っ先が、喉から離れる。
ゆっくりと下がり、地を向き、石床の埃を切って、それから。
仮面へ、向いた。
「……返してもらいますね。私のものを、全て」
イリアが顔を上げた。
白銀の前髪が汗で額に張りついている。それでも、笑っていた。それは、とても王女殿下の笑顔とは思えぬもの。獲物を見つけた、鷹の笑い方だった。
「私の心と身体は、私と……この人のものです!」
言い切って、姫騎士は一歩、踏み出した。
膝は震えていない。三年、この綱に引かれ続けた足が、ようやく解放されたように、石床を蹴った。
黒衣の壁が慌てて詰め直そうとするが、そこへ、白刃が横合いから叩き込まれた。
「道を開ける! 姫、頼む!」
ヴァルターだった。
団長の踏み込みは、もう自分の背を庇っていない。深く、遠く、隣の兵の前まで刃を届かせていた。その背へ、若い騎士が回り込んで盾を立てた。押し込み、押し込んだ隙間へ、さらに次が滑り込ませる。
盾が、隣の者のために構えられていた。
三重の壁が、真ん中から裂けて。まっすぐな道が、祭壇まで通る。
イリアが柄を両手で握り締め、白銀を高く掲げた。刃が天へ届いた刹那、崩れた屋根の隙間から差した光を吸って、剣がひとりでに鳴りはじめる。
白銀の輪郭が、羽根の形にほどけていく。
「ルカ、行きます!」
「うん!」
「……ルカ。どうか、あなたのご加護を」
こちらに、まるで天使のような柔らかな笑顔を向けてくれた。
それに対して、ルカは親指をぐっと立ててみせる。
「もう掛かってるよ! 思いっきり、やっちゃえ!」
「……はい! 私だけの、祈祷師様!!」
姫騎士が笑った。
そして、白銀が振り下ろされる。
「くたばりなさい──〈王翼斬〉!」
翼が、閃いた。
光の斬撃が石床を舐めるように奔り、黒衣の壁の残りを薙ぎ払い、祭壇へ届く。
黒い石の台が、まっすぐ縦に割れた。
窪みが裂け、黒糸の束が根元から断たれる。焚かれていた火が、行き場を失って四方へ散った。
円を成した人々の首筋から、糸が一斉に抜けた。幾百もの細い黒が宙で力を失い、雪のようにほどけて消えていく。命の灯が、束ねられていた頃より明るかった。細くはある。それでも、もう吸われてはいなかった。
その延長線上に、白い仮面がある。
男は避けなかった。避ける動きすら見せず、光に呑まれ、黒衣ごと、袈裟に断たれる。
同時に。
ルカの視界で、イリアの腕の鎖が、内側から破裂した。
あの村で一本目が砕けた音の、魔物の群れの中で二本目が砕けた音の、まぎれもない続きだった。
黒が光の粒に変わって、ひとひらずつ散っていく。三本目が、消えた。
勝鬨が上がった。
兵たちが槍を突き上げ、ガングが誰かの背中を叩いている。獣たちは首の糸を失って、正気に返ったように後ずさり、瓦礫の隙間へ逃げ去っていった。黒衣の徒は、糸が切れると同時に、その場へ崩れて動かなくなっている。
ルカは膝から力が抜けて、その場にへたり込んだ。
だから、いちばん近くでそれを見れた。
両断された黒衣が、ゆっくりと崩れ落ちる様を。
布が、床に広がって──中には、何も入っていなかった。
血も、骨も、肉もない。ただ布だけが、切り口から萎んで、平たくなっていく。転がった白い仮面が、こつん、と石床に当たって、真ん中から割れた。
「……おい。なんだそりゃ。何も……ない?」
ガングが槍の石突きで布をつついている。
おそらく、器だったのだ。
あの慇懃な声も、預け物という言い方も、全部、誰かに着せられていたものなのだろう。
そのとき。
耳の奥に、笑い声が一節、届いた。
粘つく、低い、水底から響くような笑い。あの村で染みから漏れた声と、同じ声だった。谷の奥から、崩れた屋根の向こうから、ずっと遠くから。
『よく躾けられた祈りだ』
背骨が凍った。
周りの誰も、顔色を変えていない。兵たちは互いの無事を確かめ合い、ガングはまだ布をつついていた。届いたのは、ルカにだけだ。
声は、来たときと同じ静けさで、谷の奥へ引いていった。
「誰だ……誰なんだ、お前は!」
「ルカ?」
驚いて、イリアが振り返る。
汗と埃で汚れた頬に、心配の色が差していた。神剣を杖のようにして、それでも背筋を立てて立っている。
言うべきだ、と思った。同時に、今ではない、とも思える。取り返したばかりの手を、また黒で塗る必要はないだろう。砦へ帰って、湯を使って、腹を満たしてからでもいいはずだ。
ルカは首を振った。
「ううん、なんでもない。皆が起きた。帰ろう」
「……ですね。皆で、帰りましょう」
イリアは柔らかく微笑んで、村人の方を見やった。
円を成して眠っていた人々が、あちこちで身じろぎしはじめている。糸を断たれた首筋が、ひとつ、またひとつと持ち上がった。瞼が震え、指が石床を探り、寝ぼけた声が、崩れた神殿の底に散らばっていく。
ここはどこだ、と誰かが言った。
いつから寝ていた、と別の誰かが言っている。
担架の上で目を開けた老人が、自分を担いでいる兵の顔を見上げて、ぽかんと口を開けていた。
運び出される途中の担架の上で、小さな身体が寝返りを打った。
五つか、六つか。あの円のいちばん内側にいた、行儀のよすぎた女の子だった。担いでいた若い兵が慌てて足を止める。子どもは目を擦り、周りを見回し、それから、いちばん近くにいた兵の袖をきゅっと掴んだ。
「おかあさんは?」
兵が答えられずに固まっているので、ルカが膝をついた。列の後ろのほうに、同じ顔立ちの女が眠っていたのを覚えている。
「向こうで寝坊してる。……起こしに行こうか」
子どもは、こくりと頷いた。
顔を上げると、猟師が駆け出していくところだった。名を呼びながら、瓦礫を跳び越えて、円のいちばん奥へ。
起き上がりかけた男の肩を、両手で掴む。
肩を掴んだまま、猟師はしばらく、何も喋らなかった。




