第40話 帰還
その夜、ノルドの竈に火が戻った。
起きたばかりの人たちを、そのまま山道へ立たせるわけにはいかなかった。かといって、崩れた神殿の底で夜を明かすなど論外だ。隊は日暮れまでかかって全員を谷から運び出し、空だった村へ入れて、家々の竈に一つずつ火を入れていった。
薪の爆ぜる音が、戸の開いたままの家から漏れてくる。
婆様の握り飯は、麦と豆の、拳ほどもあるやつが百と幾つ。それを女衆が湯で戻し、粥に仕立てて配って回った。眠らされていた人の腹には、固いものは重い。ヨナスが帳面を片手に、椀の数と受け取った人の数を突き合わせていた。
誰も、多くは喋らなかった。
ノルドの人々は、記憶が抜けていたのだ。
畑にいたら呼ばれた気がした、という者。戸を閉めた覚えはある、という者。歩いた覚えだけがあって、どこを歩いたか思い出せない、という者。皆おおむねそこまでで、あとは白い。何日眠っていたかを告げると、揃って同じ顔をした。信じていないのではなく、どうやっても信じられていない様子だった。
猟師の従兄弟は、椀を持ったまま、しばらく囲炉裏の火を眺めていた。
「……俺、腹が減ってねえんだ」
「そりゃそうだ。ずっと寝てたんだからな」
「そうか。……そうだよな」
従兄弟は椀を持ち上げて、それから、ようやく啜った。猟師は横で、自分の椀に手をつけないまま、その様子を見ていた。
ルカは家々を回って、一人ずつ視ていった。
命の灯は、どれも細い。細いが、もう吸われてはいなかった。数日、寝て食べれば戻る。戻らないほど吸われた人が、ひとりもいなかった。
間に合ったのである。
その安堵感が、粥の湯気越しにじわりと遅れて胸へ落ちてきた。
翌朝、隊は下山した。
自分の足で歩ける者は歩き、歩けない者は担架と荷車に乗せて、百に近い人数がひと筋の列になって山道を下っていく。朝の光が松の梢を抜けて、列の背を斑に照らしていた。
「具合はどう?」
ルカはイリアの隣に並んで歩き、訊いた。
神剣は、鞘に納めたままだ。
「軽いんです」
ぽつりと、彼女は答えた。
「ずっと肩から提げていた重石がなくなった感覚というのでしょうか? ……なくなると、こんなに違うんですね」
自分の手のひらを見つめて、そう呟く。
まだ自分の中でも、その解放感と感覚に慣れていないようだ。
(っていうか、重石を背負った状態でもあんなに強いってなると、本当の意味で解放された姫様ってどんだけ強いんだ?)
イリアの呪い……いや、鎖は、まだたくさん残っている。その中の三つが砕けただけで、まだ彼女はその鎖から解放されたわけではない。
「全部なくなったら、きっともっと凄いことになるよ」
「そうでしょうか。何だか信じられません」
そう言って、姫騎士は自分の左腕を握ったり開いたりしてみせた。歩き方が、確かに違っていた。踏み出しの一歩が、以前より半歩ぶん遠い。
イリアが小首を傾げて訊いてきた。
「ルカには、何本の鎖が見えているのですか?」
「ごめん……それは、僕にも視えないんだ。僕に視えるのは、そこにある事実だけっていうのかな。数えようとすると、束の奥の方がぼやけちゃって……」
ルカはしょんぼりと肩を落として、首を横に振った。
こればっかりは、きっと自分の力不足だ。
「大丈夫ですよ。一本ずつ、砕いていけばいいだけですから」
イリアは柔らかく笑って、そう答えた。
鎖が砕けるごとに、彼女の笑顔の強度も増している気がする。
きっと、全てから解放された暁には、笑顔だけで昇天させられてしまいそうだ。
いや、もう既に何回かさせられているのだけれど。
ルカの視線に気付いたのか、イリアがこちらを覗き込んできた。
「どうかしましたか? 私の顔、何かおかしいですか?」
「い、いや! なんでもないよ。僕も頑張るね」
「……?」
姫騎士様は、不思議そうに首を傾げたのだった。
*
辺境の砦が見えてきたのは、昼を回った頃。
坂の下から、小さな影が転げるように駆け上がってきた。
例の、少年だ。木剣を腰に差し、砦の門から一直線に、坂道を跳ねながら駆けてくる。
「おっそいぞ! 三日って言っただろ!」
「ごめん。ちょっと寝坊した」
「ほんとに全員か!? 数えるかんな!」
「どうぞ。約束は守ったよ、隊長」
少年は列の脇にぴたりと張りつくと、指を突き出して数えはじめた。一、二、三、四。順調だったのは十くらいまでで、荷車が来たところで数が飛び、老人が手を振ったところで完全に崩れた。それでも最初からやり直し、二度目でまた崩れ、三度目の途中で諦めて、代わりに列の先頭へ走っていってしまった。
(やれやれ。子供は元気でいいなぁ)
ルカはそんな少年を、微笑ましく見送った。
何だか、安堵で膝が抜けそうだ。
本当に、誰一人欠けずによく帰ってこれた。
あの絶望的な状況を鑑みれば、奇跡みたいなものだ。
門の内では、砦じゅうが動いていた。
まず、中庭に筵が敷かれた。医務室から寝台が運び出され、湯が沸かされている。留守を預かっていた者たちが、下りてきた列を次々と引き取っていた。名を呼ぶ声、椀の触れ合う音、赤子の泣き声。音のない村から連れ帰った人たちが、音の中へ入っていく。
ヴァルターが門の脇に立って、入ってくる列を数えていた。
指も帳面も使わない。目だけで、静かに。全員が門を潜り終えてから、団長は短く息を吐いた。
「……信じ難いな」
「何がですか?」
「死者が、ない」
団長の声は平らだった。平らすぎて、かえって尋常でないと分かる。
「重傷が二名。あとは掠り傷と打ち身だ。四十を超える兵で山を越え、野戦を張って、死者がない。しかも、あの状況で、だ。私は二十年、この数字を一度も見たことがない」
言い終えて、ヴァルターはこちらへ向き直りかけた。
けれど何も言わず、途中で顎を引いて、負傷者の運び先を指図しに行ってしまった。




