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第41話 姫様からの要望

 その夜、湯を使い、腹を満たしてから、ルカはイリアの部屋の戸を叩いた。

 言うべきことがあった。約束したわけではないが、黙っていられる質でもなくなっていた。


「どうしたのですか、ルカ。こんな時間に」


 戸から顔を覗かせると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。

 先触れもなくこの刻限に部屋を訪れることは、あまり多くない。

 ルカの顔を見て、何かを察したのだろう。


「……中へどうぞ。お茶を淹れますね」


 そう言って、姫騎士はルカを招き入れた。

 室内に通されてから、ルカはあの神殿で聞いた笑い声のことを、そのまま話した。仮面の囁きとは別の声だったこと。あの村の染みから漏れたのと同じ声だったこと。自分にだけ届いたこと。躾けられた祈り、と言われたこと。

 イリアは最後まで黙って聞いて、それから頷いた。


「……なるほど。そういうことでしたか」

「怒らないんだ」

「怒りますよ。今夜のうちに話してくれたので、お説教は半分くらいにしてあげます」

「うぅ……覚悟しておくよ」


 ルカが怯えてみせると、姫騎士は「冗談ですよ」とくすくす笑った。

 すぐに顔を神妙なものに戻すと、喟然として長嘆息を洩らす。


「あの仮面が器なら、着せた手が別にいるということですよね。三本砕けたところで、終わりではない、と」

「うん」

「なら、明日からのことを考えましょう。今日は、楽しいお話をしませんか?」

「楽しい話?」


 思わず訊き返すと、イリアは湯気の立つ杯を両手で包んで、やけに真剣な顔をつくった。


「たとえば……丘の宴の献立です」


 なるほど、と思った。城壁の上で、この人は確かにそう言っていた。百人の宴ですね、と。


「あのときは勢いで申し上げました。……ですが、帰ってきてから考えたのです。百人分ですよ、ルカ。百人分」

「うん。百人分だね」

「どんな献立がいいのか、私には見当がつきません。指揮官として、これは由々しき事態です」


 由々しき事態、と言い切る顔があまりに深刻だったので、ルカは吹き出してしまった。


「……私は、真面目に悩んでいるのですよ?」


 じぃっと睨まれてしまった。睨まれても可笑しさは収まらず、仕方なく、指を折って数えてみせることにした。

 まず、握り飯。婆様の拳ほどもあるやつが、一人二つとして二百。ただし婆様は「詰めるだけ詰めな」と言う人なので、実際には三百は握るだろう。

 根菜は、ノルドの畑のあの甘いのを、汁物にするなら大鍋で六つ。荷車一台では足りないので、ここも悩み所だ。

 肉も必要だが、猟師の見立てを聞くとして、鹿なら二頭。他にも追加でお願いしてもいいかもしれない。

 そして、酒。


「ヨナスさんの樽が三つだっけ」

「三つです。春から地下で寝かせていると、そればかり言っていました」

「……ガングさん一人で、半分は空けそうだけど」

「あの方は勘定に入れないことにしましょう。切りがありません」


 イリアが真顔で言うので、また笑ってしまった。

 それから二人で、少年の取り分をどうするかで揉めた。留守番の隊長ぶんは大人と同じでいいのか、それとも子どもだから半分か。半分にしたら泣くに決まっている、というところで意見が一致して、結局、大人と同じ皿を出すことに決まった。

 卓の上で、指が足りなくなった。ルカが両手を広げても数が収まらないので、イリアが紙と炭筆を持ってきて、二人で書き出しはじめる。

 書き出したら、余計に増えた。


「……これ、ヨナスさんに見せたら卒倒しないかな」

「ヨナスは喜びますよ。そういう人ですから」


 言われてみればそうだった。

 紙には、根菜と鹿と麦と豆と樽と皿の数が、細かい字で並んでいる。城壁で交わした強がりが、一晩でこんな形になった。あのときは、帰ったあとの話をするのが、いちばんの誓いだった。今は、ただの算段だ。算段になったことが、嬉しかった。

 そこで、ふと思い出したことがある。

 昼間からずっと、頭の隅に引っ掛かっていたことだ。訊くべきか少し迷って、けれど今夜は訊いてしまいたい気分だった。


「……そういえば、姫様」

「はい?」

「神殿で言ってたよね。『私の心と身体は、私と、この人のものです』って」

「へ……?」


 イリアの手から、炭筆が転がり落ちた。

 拾おうとして杯に肘が当たりかけ、慌てて押さえ、それから両手で顔の下半分を隠す。耳の先まで赤かった。


「あ、あれは……その、勢いというものでして」

「勢い」

「戦場ですから! あの場では、そう、士気を高める必要があって!」


 ですます口調が、ずいぶんな速さで転がっている。三年ぶん重石を下ろしたら、こういう崩れ方をする人だったらしい。

 からかいたくて訊いたわけではない。あの場では聞き流した。仮面へ剣を向けた人の宣言として、正しい形をしていたからだ。

 だがしかし、下山の道すがら思い返してみると、あれは、いくらなんでも重い。心と身体、と言った。私と、この人のもの、と続けた。勢いでどうこうなる並びではなかった。


「責めてるんじゃないよ? ただ、その……どういう意味なのかなって」

「意味、ですか」

「うん。……僕、ここで勘違いしたら、たぶん元に戻せないから」


 口にしてから、思い切ったことを言った、と自分でも思った。

 イリアは、しばらく黙っていた。

 顔を隠していた手が、ゆっくりと下りる。赤いままだったが、目はもう逸れていなかった。


「……取り消しません」


 声は小さかったが、逃げてはいなかった。


「三年、この身体は自分のものではありませんでした。腕も、剣も、自由に動かなくて……そのうち心のほうも、と諦めておりました。このまま呪いに蝕まれていくのだ、と」


 杯を置く音が、ひとつ。


「その二つを、取り戻してくれたのが、あなたです。ですから……あれは、勢いではありません。誰のものかと問われたので、本心で答えただけのこと」


 今度はルカのほうが、返す言葉に詰まった。

 姫の心と身体が……ルカのもの。

 考えただけで、頭から湯気が出そうだった。

 卓の紙をなんとなく整えて、意味もなく端を揃えて、それでも足りず、杯の残りを飲み干す。ぬるかった。顔が熱い。たぶん、耳も真っ赤だ。


「……了解、しました」

「なぜ急に兵の口調に」

「わ、わかんないよ!」


 ルカが取り乱すと、イリアが吹き出した。

 ひとしきり笑って、目尻を指で拭って、それから、仕返しをする顔になった。


「では、こちらからも一つ伺ってよろしいですか?」

「……なに?」

「ルカは、いつまで私を『姫様』と呼ぶおつもりなのでしょう?」


 言葉に詰まった。

 三年ぶんの綱を解いた翌日に、この人はもう反撃してくる。


「一度、名前で呼んでみてください」

「え」

「一度だけです。ほら」


 促されて、ルカは息を吸った。吸って、止めて、吐いた。


「……イ。イ、イリア……様」

「様が付いています」

「む、無理だよぉ! 姫様を呼び捨てだなんて! そ、それに、もう半年ぶん癖がついてるんだから!」

「半年で染みつくものでしょうか?」


 正論だった。

 ぐうの音も出ずに黙り込むと、姫騎士はとうとう堪えきれずに、声を上げて笑った。笑って、それから、ずいぶん柔らかい顔でこちらを見た。


「いいんですよ。急ぎません。……いつか、その様が落ちる日を、楽しみにしています」


 窓の外で、夜番の兵の足音が壁を渡っていった。

 紙の上には、明日から数えるべきものが並んでいる。根菜と、鹿と、樽と、皿。数えても数えても、明るいほうにしか転がっていかない数字だった。

 戸口まで送られて、ルカは廊下へ出た。


「おやすみ、姫様」

「おやすみなさい、ルカ」


 戸が閉まる。

 閉まる直前、隙間から灯りが一筋だけ廊下へ伸びて、それも消えた。

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