第42話 膝をつく白銀
翌朝の中庭は、人でいっぱいだった。
ノルドの人々は筵に座り、砦の兵は列を作り、村からも見物が集まっている。ヴァルターが夜のうちにイリアへ願い出た、と聞いたのは朝食の席でだった。人前で、と団長が言ったそうだ。
その意味を、ルカは中庭に呼び出されてから知った。
ヴァルターは鎧を着ていた。旅装ではない。手入れの行き届いた聖騎士団の白銀を、丁寧に着込んでいる。この砦へ来て以来、この人が鎧を着たのは、北へ行った日を除けば初めてだった。
団長は中庭の中央まで進み、そこで足を止めた。
「祈祷師・ルカ=エルネスト」
名を呼ばれて、前へ出る。ざわめきが引いていくのが、背中で分かった。
「此度の戦、我が隊に死者はなかった。理由を、私は知っている」
ヴァルターは兵たちのほうへ、一度顔を向けた。それから、また戻す。
「あの冬の森でも、同じことが起きていた。私は兵の半ばを失った。半ばで済んだ、と言うべきだろうか。見えぬ手が兵の背をかばうのを、私はあの日、確かにこの目で見ている」
その言葉に、中庭が静まり返る。
「見ていて、名を探さなかった。あれは戦場の綾だと自分に言い聞かせて、それきりにした。……一度目の見誤りだ」
団長の顎の傷が、わずかに動いた。
「二度目は、大聖堂だ。あなたが白を剥がれたあの日、私はあの場にいた。王太子の脇に立ち、一言も発しなかった。無能と呼ばれる者が追放されていくのを、職務だと思って眺めていた」
ルカの喉が、詰まった。
あの日の光景は、覚えている。列の先頭を歩く王太子。両脇を固めた二人の大人。片方は長官で、もう片方が、この人だったのだ。あのとき見上げた白銀は、遠くて、こちらを見てもいなかった。
その白銀が、今、目の前に立っている。
「私の目は、貴殿を二度、見誤った」
言い切って、ヴァルターは腰の剣を鞘ごと外し、左手に提げた。
それから、鎧のまま、石畳に膝をついた。
かつん、と硬い音が鳴る。
兵たちの列が揺れた。誰かが息を呑み、誰かが半歩踏み出しかけて、止まる。ガングの舌打ちすら聞こえてなかった。
団長は膝をついたまま、顔を上げてこちらを見上げた。
「聖騎士団長として、ではない。ひとりの騎士として──そなたに、詫びさせてくれ」
飾りのない、短い言葉だった。
弁解も、経緯も、事情もない。ただ、見誤ったと言い、詫びると言った。それだけのこと。
ルカは、動けなかった。
雪の中を歩いていた頃、こういう日を何度も思い描いた。いつか誰かが謝りに来る日のことを。想像の中では、もっと胸のすくものだったはずだ。
それが、こうして目の前で起きてみると、胸はすかない。
膝をついた四十半ばの男の、こめかみの白いものが見えるだけだ。この人はこの砦で兵に稽古をつけ、盾の角度を直し、北の谷では最後尾に残った。そういう二十年ぶんの背中が、石畳に折り畳まれている。
こんなものを、望んでいたわけではなかった。
「顔を上げてください」
ルカは、前へ出た。
ヴァルターが顔を上げると、その前で片手を差し出す。
「先に、ひとつだけ言わせてください。……あの森で帰れなかった方たちの分は、僕には赦せません」
団長の目が、揺れた。
「その分は、あの人たちのものです。僕が代わりに預かって、はいどうぞと渡すわけにはいきません。……そこは、ごまかしたくないんです」
「……道理だ」
「だから、赦しません。代わりに、注文をつけます」
差し出した手をそのままにして、続けた。
「その剣で、これからも兵の背中を守り続けてください。僕の祈りは……そういう剣の隣が、いちばん働くので」
言い終えて、少し恥ずかしくなった。
偉そうだったかもしれない。もっと気の利いた言い方があった気もする。でも、これが正直な気持ちだった。あの神殿で加護がいちばん深く通ったのは、この人が自分の背を庇うのをやめて、隣のために踏み込んだときだ。祈りは、そういう剣の傍でだけ、深くなる。
ヴァルターはしばらく、差し出された手を見ていた。
それから、その手を取る。
立ち上がる拍子に、鎧の重みが掌にずしりと乗った。
腰を入れて引くと、白銀の巨体がゆっくりと持ち上がってくる。
身を起こした団長は、剣を鞘ごと胸の前に立てた。
「承った。……安い注文だ。二十年、それだけを考えてきたつもりでいたからな」
「じゃあ、ちょうどいいですね」
「いや。つもりでいて、こうだ。……これからは、忘れずにやる」
中庭のどこかで、槍の石突きが石畳を打った。
一つが二つになり、二つが十になり、やがて中庭ぜんたいが同じ拍を刻みはじめる。兵が突き、村人が手を打ち、ノルドの人々が筵の上から加わって、砦の壁に音が反響した。喝采というより、得心の音だ。
その音の中で、イリアが進み出た。
「ヴァルター。はじめにお会いしたとき、私は申し上げましたね。肩書は役に立たない、あなたの働きだけを見る、と」
「覚えている」
「訂正はいたしません。今のは、あなたの……立派な働きです」
姫騎士はそう言って、深く一礼した。
中庭の拍が、止まる。
石突きの音が途切れ、手を打っていた者が手を止め、筵の上のノルドの人々までが、口を開いたまま黙り込んだ。
王女が、騎士に頭を下げている。この辺境で三年、誰にも頭を下げずに立ってきた人が、腰から折るようにして。
「ひ、姫!」
さすがにヴァルターが、慌てた。
この人が慌てるのを、ルカは初めて見た気がする。半歩下がりかけ、手が上がりかけ、止める術も見つからず、結局、鞘ごとの剣を胸の前に立て直して、規定よりずっと深い礼を返していた。鎧が、ぎしりと鳴る。
「姫。それは、私には過ぎます」
「過ぎません。これが、あなたの働きに対する、私の精一杯の気持ちです。どうか、受け取ってください」
「……承知」
顔を上げたイリアの目元が、わずかに赤い。
団長のほうは、耳まで赤かった。
二人が同時に顔を背けたので、ルカは笑いを噛み殺すのに一苦労だ。
その静けさを、脇から突き破る声があった。
「なあってば! もう終わり!? おれ、まだ数え終わってないんだけど!」
少年だった。木剣を振り回しながら、大人たちの隙間を割って前へ出てくる。
中庭が、どっと崩れた。兵が吹き出し、村の女衆が声を上げて笑い、婆様が少年の首根っこを掴んで引き戻す。張り詰めていたものが、そこでようやくほどけた。
ヴァルターも、口元をわずかに緩めていた。
*
人が散ったあと、ヴァルターは城壁へ上がってきた。
ルカは先に上がって、北の稜線を眺めていた。あの向こうに谷がある。今は静かだ。静かなだけで、何も終わっていない。
団長は隣に並ぶと、単刀直入に切り出した。
「私は王都へ戻る」
やはりか、と思った。同時に、寂しさが湧いてくる。
ルカとしては、ここに留まってほしかった。これほど心強い人間は、なかなかいない。
「此度の敵は、辺境ひとつの話ではない。村を丸ごと薪にする祭壇を、山ひとつ向こうで組んでいた。あれを陛下に直に言上できる者が要る。伝聞では、届かん」
「……ヴァルターさんが、証人になるんですね」
「見た者が黙っていては、あの冬と同じだ」
団長の声には、迷いがなかった。
証人……その言葉が、胸の底に落ちた。この人が王都で口を開けば、あの日の大聖堂で沈黙した分が、そっくり裏返る。誰が何を握り潰そうとしても、聖騎士団長が自分の目で見たと言えば、話は確実に残るのだから。
「……解析の件も、ですか」
訊いてみると、ヴァルターは短く鼻を鳴らした。
「ああ。祈祷庁が、貴殿の祈りを聖杯で解くのだそうだな。数式に落として、目盛りに乗せると」
「そう聞いています」
「測れるものか、あんなもの」
言い方が、ぞんざいだった。この人にしては珍しい。
「三年掛けて編まれた誓いを、数えられなかった三年で塗り替えた。あれが目盛りの何処に乗る? ……この目で見た者として、そう言ってくる」
棘の一本を、この人が抜きに行く。
そういうことらしかった。
ルカは礼を言おうとして、うまく言葉にならず、結局、頭を下げた。きっと、言葉はいらないのだと思う。これで、十分だった。
北の風が、二人のあいだを通っていく。訊きそびれていたことを、ルカは思い出す。
あの祭壇の炉は、いったい何のために焚かれていたのか。王家の血を注いで、その先に何を起こすつもりだったのか。仮面は、そこだけは最後まで言わなかった。
訊ねると、団長は首を振った。
「分からん。分からんまま、持ち帰る。……分からんことを分かったふりで報せるのが、いちばん危ない──」
「ふたりで内緒話ですか?」
その時だった。石段に足音がしたかと思えば、声が降りかかってくる。
イリアだ。後ろにヨナスが続いている。老従者は帳面を胸に抱えて、いつになく機嫌がよさそうだった。
「ヴァルター。出立は、いつのご予定ですか?」
「早いほうがよかろう。明日にでも」
「なるほど。却下します」
姫騎士が、あっさりと言い切った。
「丘で宴をやります。ノルドの方々の足が戻り次第。……ヨナスが樽を三つ、春から抱えて待っておりました」
「三つでは足りませぬな。四つに致しましょう」
ヨナスが帳面を開いて、いかにも老従者らしい顔で数を読み上げはじめる。ヴァルターは口を開きかけて、閉じた。それから、この砦へ来て二度目の、低い笑いを漏らす。
「……指揮官の命令か」
「いいえ。王女としての命令です」
「それならば……仕方ありませんな」
「ええ。従っていただきます」
姫騎士と、聖騎士団の団長が、柔らかな笑みを交わす。
北の稜線は、まだ静かだった。
その静けさを背にして、ルカは樽の数を数えている老従者の横顔を見ていた。四つ。百人ぶんの根菜と、山菜と、婆様の握り飯。数えなくていいものを、この人たちは今日も丁寧に数えている。




