第43話 宴の始まり
宴は、それから五日後になった。
ノルドの人たちの足が戻るのを待ってのことだ。三日目には粥が汁物になり、四日目には自分で椀を運べる者が増えて、五日目の朝には、婆様に「あんたたち、そろそろ働きな」と追い立てられるまでになっていた。命の灯は、どれも太さを取り戻している。ルカが視るかぎり、細いままの人は一人もいなかった。
その朝から、砦は総出で丘へ荷を運んだ。
筵、鍋、炭、皿。荷車が坂を往復するたび、ヨナスの帳面から品目がひとつずつ消されていく。ガングの隊が石を積んで竈をこしらえ、村の女衆が薪を割り、少年は「隊長」の名目で、運ぶ人の邪魔をしないという難しい任務に就いていた。
丘は、風の当たらない南向きの斜面だ。
砦から歩いて小半刻。草を踏むと、下に麦畑と街道が細く見える。あの日、イリアと二人でここに立って、いつか皆で来ようと言い合った場所だった。あのときは、樽が要りますね、と笑っていた。
その樽が、いま四つ、丘の中ほどに並んでいる。
三つは、ヨナスが春から地下で寝かせていたものだ。四つ目は、今朝がた坂を上ってきた荷車に載っていた。グラッテの村からの届け物である。
付き添ってきたのは、あの老人だった。魔物の群れに村を襲われた日、イリアがオーガを斬り伏せたあとで、ルカに向かって皺だらけの手を合わせてくれた人だ。今日も同じように手を合わせてから、四つ目の樽をぽんと撫でた。
「こいつはな、大事にとっといたやつだ」
「取っておいた、というと……何のために?」
「……まあ、そのうち分かる」
含みのある笑い方をして、老人は椀を貰いに行ってしまった。
ヨナスが厳かに栓を抜く。
干し草と蜜を混ぜたような匂いが、四つぶん立ちのぼった。ざわめきが上がり、椀を持った腕が一斉に伸びる。
その先頭に、すでに男がいた。
「よし。まずは俺の分を確保だ!」
「言った通りになったね……」
ルカが呟くと、隣でイリアが肩を震わせた。
「ふふっ。予言者ですね、ルカは」
「祈祷師やめて、預言者になろうかな」
姫騎士は椀を受け取りながら、涼しい顔でこちらを見た。
「それは、私が困るのでやめてください」
「じょ、冗談だよ?」
「知ってます」
言い切られてしまった。しかも、顔が怖い。割と本気で怒られている気がしてならなかった。
誰かが椀の縁を打ち鳴らして、丘がゆっくり静かになる。
イリアが、樽の脇に立った。
演説の構えではない。椀を片手に、いつも通りの立ち方で、少し声を張っただけだった。
「北へ発つ前の晩に、私はある人と約束をしました。必ず、全員で帰る、と」
ざわめきが、完全に引いた。
「その約束は、無事守れました。皆さんのおかげです。ノルドの方々も、ひとりも欠けておりません。……ですので、私からは以上です。指揮官の話が長いと、料理が冷めますので」
笑い声が起きて、椀が一斉に掲げられた。
ルカも掲げる。掲げながら、胸の奥で、帳面がひとつ閉じる音を聞いた気がした。
あの夜、城壁の上で交わした約束だ。掌と掌で結んで、指切りはしなかった、あの約束。
果たされた誓いというのは、こういう音がするものらしい。
丘の上は、あっという間に人でいっぱいになった。
婆様の煮物が大鍋で六つ。ノルドの畑から掘り出した根菜が、甘い匂いを湯気ごと吐き出している。麦と豆の握り飯は、宣言通り三百近く積まれた。猟師が仕留めた鹿は二頭のはずが、結局三頭になっていた。従兄弟と二人で山へ入ったのだそうだ。
その従兄弟が、今は肉を切り分ける側にいる。五日前まで祭壇の前で眠らされていた男が、包丁を握って、行列を捌いている。差し出された皿へ、ひときれ余分に乗せてやっているのが見えた。
ノルドの人々は、客のはずだった。
けれど誰も客の顔をしていない。鍋を掻き回し、椀を洗い、火の番を替わり、砦の女衆と一緒になって働いている。境目が、どこにもなかった。
袖を引かれた。
振り返ると、あの女の子が立っていた。神殿の円のいちばん内側にいた、五つか六つの子だ。頬に土がついている。手には、丘の草で編んだ輪を持っていた。
差し出されたので、受け取った。花が二本、不器用に挟んである。
「おかあさん、起きた!」
「うん。知ってるよ」
「これ、あげる!」
言うだけ言って、子どもは走り去っていった。少し離れたところで母親が頭を下げていて、ルカも慌てて下げ返す。
草の輪を、手のひらに乗せてみた。
編んだ、と思った。同じ言葉が、こんなふうにも使えるのだ。
少年は、丘のいちばん平らなところで人を集めていた。
「見てろよ! 百回だからな!」
木剣が振り下ろされる。一、二、三。号令をかけているのは本人だ。二十を過ぎたあたりで腕が下がりはじめ、四十で肩が上がり、六十を越えると振り下ろすというより落としているだけになった。
それでも、止めなかった。
七十、八十。周りの兵が数を数えはじめる。九十で誰かが手を叩き、九十五で全員が声を揃えた。
百。
少年が木剣を放り出して、草の上に大の字になった。
どっと歓声が上がり、婆様が握り飯を一つ、その腹の上に置いた。
「よくやった。食え!」
「……あ、あとでにする」
「いいや、今食え。倒れるよ」
「もう倒れてるって」
起き上がれないまま片手で握り飯を受け取る姿に、また笑いが起きる。
ヴァルターは、兵たちの輪の中にいた。
鎧は着ていない。麻の上着に袖を通しただけの姿で、地べたに胡座をかいて、木の椀で酒を舐めている。団長用の杯は、ヨナスがちゃんと用意していた。それを断って、兵の使う木椀の山から一つ抜いたのだ。
左右の兵は最初こそ背筋を伸ばしていたが、二杯目には肘が当たっても謝らなくなり、三杯目には北の谷の話を身振り付きで喋りはじめていた。ヴァルターはうなずいて聞いている。あの若い騎士が、脇腹をこう掠めまして、と実演してみせて、笑われていた。
明日、この人は王都へ発つ。
そう思うと、地べたに座った背中が、少し大きく見えた。
(はあ……一件落着、だったらよかったのになぁ)
小さく嘆息して、ルカは手元にある包みに目をやった。
イリアとヴァルター、そしてガングには、報せておかないといけないことがある。
これは、終わりではない。ただの始まりなのだ、と。
ようやく敵の名前が、わかったのだ。




