第44話 敵の名と、遠い声
日が傾きはじめた頃、ルカは布に包んだものを持って、樽から少し離れた木陰へ移った。
イリアとガングが、椀を持ったままついてくる。ヴァルターも輪を抜けて、後ろから歩いてきた。
布を開くと、中から黒い皮表紙の断片が出てきた。
崩れた祭壇の下から拾い上げたものだ。綴じ糸は切れ、残っているのは数葉だけ。焦げて縁の落ちた頁に、細かい文字がびっしりと並んでいる。
「五日かけて、だいたい読めたよ」
ルカは断片を草の上へ置いた。
文字は古い祈祷語の崩しだった。祈祷庁の書庫で、写本の余白に走り書きされていたのと同じ癖の字だ。読めたのは、そのおかげでしかない。
「祈りの手順書だった。……逆向きの、だけど」
人から吸い上げるための順序。染みを植える深さ。鎖を編むときの結び方。ひとつひとつが、几帳面な字で書き留められている。祈祷庁の教本と、書きぶりがよく似ていた。似ているから、余計に気味が悪い。
そして、頁の頭に、いつも同じ言葉が置かれていた。
「奴らは自分たちのことを、こう呼んでる。……〝編み手〟」
ガングが椀を下ろした。
「〝編み手〟……奴ら、自分らでそう名乗ってんのか」
「うん。ここに、何度も出てくる」
「編む、ですか。……悪趣味な名ですね」
イリアの声が、少し低くなった。
それはそうだ、と思う。この人の三年を編んだ手が、自分のことを〝編み手〟と呼んでいるのだから。編むという言葉には、本来、悪い響きなどないはずだった。籠を編み、髪を編み、糸を編む。丘の草で輪を編んで、知らない大人に差し出す子だっている。それを、こんなふうに使う連中がいる。
けれど、と、ルカは続けた。
「でも、名前が分かったのは大きいよ。名前があれば、調べられる。染みも、鎖も、あの祭壇も、全部同じ手の仕事だったって繋がるわけだし」
繋がった、というのが本当のところだった。
北の村の染み。イリアの腕の鎖。谷の逆さの式。祭壇の炉。ばらばらに拾い集めてきた点が、この五日で、一本の線の上に並んだ。線には、名前がついた。
「王都に、母方の縁者が何人か残っています。書庫に出入りできる者もいますから、古い記録を洗ってもらいましょう」
「団長も、調べてくれるって」
「ああ。私なら、祈祷庁の書庫にも入れる。逆向きの祈りなら、あちらの棚にこそ残っていよう。……禁書として、な」
ヴァルターが、椀の中を覗きながらそう言った。
ただし、と、ルカは断片の最後の頁を指した。
そこには、名前が書かれていない。書かれているのは敬語だけだ。あの方の御心に適うように。あの方が編みたもう日のために。仕える相手のことを、〝編み手〟たちは名で呼ばない。
「頭がいるのは間違いないんだけど……その人の名前だけ、どこにも出てこないんだ」
「あの、笑い声の主ですか」
「たぶん」
風が、木陰の葉を鳴らした。
先に口を開いたのは、ガングだった。
「名無しの親玉、ねえ。……気に入らねえな」
「怖いですか」
「馬鹿言え。呼びようがねえのが面倒くせえって話だ」
古参兵は椀の底を覗き、空なのを確かめてから、鼻を鳴らした。
「まあいい。名前がねえってんなら、こっちで勝手に付けてやりゃいいさ。糸屋のガンコ親父、とでも呼んでやる」
「ふふっ、ガンコ親父ですか。面白い呼び方ですね」
イリアが小さく笑った。
笑ってから、左腕へ手をやる。袖の上から、そこにあるものを押さえる手つきだった。
「顔のない相手は、初めてです。ですが、編むというのなら、糸の先には必ず手があります。それなら……」
「うん。必ず掴めるはず」
姫騎士の言葉を、ルカが引き継いだ。
ヴァルターは、断片の頁を一枚ずつ検めていた。読めているわけではないだろう。それでも、指の運びが丁寧だった。
「祈祷師殿。……これの写しを、取らせてもらいたい」
「もちろんです。原本は、どうしましょう?」
「貴殿が持っておくのがいい。砦に置け」
団長は頁から目を離さずに言った。
「王都へ運べば、調べは早い。だが、都合の悪い紙が消える速さも、あそこはたいしたものだ。……焼かれてからでは遅いからな」
背筋が、少し寒くなった。
この人は、自分の帰る場所のことを、そういう目で語れるようになっている。半年前のあの大聖堂で、王太子の脇に黙って立っていた男が。
樽のほうから、歓声が上がった。誰かが二杯目を注ぎ、婆様が鍋の蓋を開け、湯気が丘の上へ立ちのぼる。
「よし! 辛気くせえ話はここまでだ」
ガングが椀を振って立ち上がった。
「今日は宴だぜ。難しい顔は明日やれ」
「……道理だな」
ヴァルターが腰を上げ、二人して輪のほうへ戻っていく。
ルカは断片を布へ包み直した。
包んだ上に、女の子から貰った草の輪を、そっと乗せる。黒い皮表紙の上で、青い草と、二本の花が頼りなく傾いだ。
編み手と、編み手。
同じ言葉のはずなのに、片方は取り返しがつかなくて、片方は明日には枯れる。それでも、乗せておきたかった。
布を膝に置いたまま顔を上げると、イリアがまだそこにいた。
戻る気配がない。というより、初めから戻る気がなかったらしい。椀を両手で包んで、木漏れ日の落ちた草をぼんやりと眺めている。
「少し、歩きませんか」
「うん」
立ち上がって、木陰を出た。
宴の音が、背中のほうで少しずつ遠くなる。丘の縁まで来ると、草の切れ目から北の稜線がまっすぐ見渡せた。
空には、まだ薄い青が残っている。星が二つ、三つ。
「点が、やっと線になった。……でも、線の先は、まだ視えないんだ」
ルカは正直に言った。
名前が分かっても、居場所は分からない。器は壊したが、器を着せた手には触れてもいない。あの笑い声は、こちらを躾けられた祈りと呼んで、谷の奥へ引いていった。あれは、値踏みだ。品定めをして、それから帰った者の声だった。
「視えないなら……視えるところまで行くだけです」
イリアは、こともなげに言った。
「三年、私はここで待っていました。来るものを迎え撃って、追い返して、また待って。それが辺境の務めだと思っていましたし、実際そうでした」
姫騎士は、袖の上から左腕に触れた。
袖の下に、まだ残りがある。何本かは、ルカにも数えられない。
「でも、待っている限り、こちらが選ぶ日は来ません。……次は、私たちの方から、取り立てましょう」
取り立てる、と言った。
三年ぶん、貸しがあるという言い方だった。
ルカは笑って、それから、北を向いた。
「うん。……今度は、僕らから行く番だ」
言葉にしてみると、思っていたよりずっと据わりがよかった。
拾われた祈祷師と、拾ってくれた姫騎士。ここまでは、来るものに応えるだけの半年だった。染みが来たから祓い、群れが来たから凌ぎ、村が奪われたから取り返した。全部、向こうが先に手を出してからの話だ。
次は、こちらが先に指を出す。
「言質を取りましたよ」
「取られたね」
「取り消し、なさいますか?」
「……しないよ。僕、証人だから」
イリアが吹き出した。
その笑い声が、背中の宴の音と混ざって、丘の草の上を転がっていった。
輪へ戻る途中で、行く手を塞がれた。
ガングだった。椀を片手に、顔が完全に赤い。目が据わっている。後ろには、いつのまにか兵たちが十人ばかり、面白い見世物を見つけた顔で控えていた。
「で、だ。おふたりさんよ。……さっきの、四つ目の樽な」
嫌な予感がした。
「グラッテの爺さんども、あれをいつ開けるつもりで取っといたか、知ってるか」
「し、知らないよ」
「祝言だとよ。……で、祝言はいつだ?」
「「ごほっ」」
二人同時に咽せた。
背中を叩き合いそうになり、手が空中でぶつかって、慌てて引っ込める。兵たちの間から、押し殺した笑いが漏れた。
イリアが慌てて否定する。が、それが余計にまずかった。
「じ、時期が来れば、です!」
「時期!? 時期がくるの!?」
「〜〜〜ッ! い、今のは言葉の綾ですから!!」
イリアの顔が、夕日より赤くなっている。
ガングは椀を傾けて、いかにも楽しそうに顎を撫でた。
「綾、ねえ……他に解釈のしようがねえと思うがなァ」
「ガング! 怒りますよ!?」
「おっと。このままだと俺が神剣の餌食になっちまう」
古参兵は椀を掲げて、するりと半歩下がった。
「あとは、お前に任せるぜ。ルカ」
「ちょ、ちょっと!」
止める間もなく、ガングは兵たちの輪へ逃げ込んでいった。囃す声が上がり、誰かが背中を叩き、また笑いが弾ける。
あとに残されたのは、二人だけだった。
「…………」
「…………」
草を踏む音が、やけに大きく聞こえる。
言うべきことが何も浮かばなかった。浮かばないまま、視線だけがあちこちへ泳いでいく。イリアも同じらしく、椀の縁を意味もなく指でなぞっていた。
先に降参したのは、姫騎士のほうだった。
「ご、ご飯……食べましょうか」
「だね」
二人、逃げるように鍋のほうへ歩き出す。
あの雪解けの朝も、こんなふうだった。噂になって、訂正文が書けなくて、二人して大慌てした。あれから半年。距離は、ほんの少しだけ縮まっている。ほんの少しだ。けれど、あのときは流れで繋いだ手を、この前は選んで繋いだ。
それだけの差が、たぶん、いちばん大きい。
鍋の前まで来て、ルカは一度だけ足を止めた。
振り返って、北を視る。
あの渦は、もうない。谷を覆っていた黒い巻き取りは消え、山は音を取り戻している。鳥が渡り、獣が下り、風がまっすぐ吹き抜けていく。視えるかぎり、北はきれいだ。
きれいなのに、絶えたとは視えなかった。
風の奥のほうに、糸の残り香のようなものがある。断たれた気配ではない。手繰るのをやめて、静かに置かれた気配だ。消えたのではなく、潜っただけ。
それでいい、と思った。
潜られたところで、こちらから探しに行くのだから。
「ルカ様ー! お酒が回る前に、お料理をー!」
丘の下から、ヨナスの声が飛んできた。帳面を振り回している。あの人はきっと、最後の一皿まで数えるつもりでいる。
「今行くー!」
返事をして、ルカはもう一度、北を向いた。
夕闇が、稜線の輪郭を溶かしはじめている。あの向こうのどこかに、名前だけが分かった連中と、名前も分からない誰かがいる。
(……待ってなよ、〝編み手〟。今度は──僕らの番だ)
背中で、樽の栓を抜く音がした。
歓声と、鍋の湯気と、少年の泣き笑いの声。婆様の号令。兵の手拍子。ヴァルターの、低い笑い。
ルカは踵を返して、その明るいほうへ駆けていった。




