第33話 白銀の客
偵察の出立は三日延びることになった。
王都の武の頂点が来ると分かっていて、砦の頭を空にはできない。イリアの判断は早かったし、浮いた三日が無駄にされることもなかった。峠道の入り口までは猟師たちが遠目に監視し、荷と人選はガングが締める。ルカはといえば、毎朝の日課に仕事がひとつ増えた。主石の前に膝をついて、封じの膜の奥で打つあの鈍い脈を数えることだ。
どく、と。長い間を置いて、また、どく、と。
速くはなっていない。ただ、止まりもしなかった。眠りに戻ってくれる気配はどこにもない。
そうして迎えた、三日目の昼だった。
物見台の兵が、南の街道へ腕を伸ばして声を張った。騎影さ四つ。
門前に兵たちが集まってきた。どの顔も、客を迎えるそれではない。誰も彼も口を結んで、街道の先ばかりを睨んでいた。無理もない話だ。来るのは、あの冬に来なかった側の、いちばん高い場所に立つ人なのだから。
ルカも門の脇に立って待つことにした。
思い出すのは、いつかの勅使の行列だ。槍先に揺れる王旗。磨き上げられた鎧の列。道の真ん中を割って進む、権威のかたまりのような一行だった。
でも、今日は違った。
現れたのはたったの四騎。旗はなく、触れの声もない。先頭の男の胸甲は白銀だが、旅塵に曇って飾りのひとつも付いていなかった。羽織った外套は無地の灰色で、従う三騎も似たようなものだ。行列と呼べるものはどこにもない。
一行は門前の少し手前で馬を止めた。先頭の男が、誰に促されるでもなく自分で鞍を降りる。
歳の頃は四十の半ばか。丈が高く、岩のような体つきをしている。短く刈った髪はこめかみから白いものが差して、顎の線には古い傷がひとつ。男は馬の轡を自ら引いて門前まで歩き、そこで足を揃えた。
「聖騎士団長・ヴァルター=ジークベルト。当地の守護にご挨拶に参った。……通していただけるか」
低い、よく通る声だった。
すぐに動く者はいなかった。兵たちの沈黙だけが、門前に重く積もっていく。
その沈黙を割ったのは、腕組みをしていたガングだ。古参兵は一歩前へ出て、頭のてっぺんから爪先まで客を値踏みした。
「へえ。今度は、剥ぎ取りに来たんじゃねえので?」
あからさまな棘である。それを窘める者はひとりもいない。むしろ、よく言ったという顔ばかりが並んでいた。
団長は眉ひとつ動かさない。
「……その皮肉は、受け取ろう。順当な出迎えだ」
怒りでも卑屈でもなく、届いた事実をただ検めるような答え方だった。
門の内から、靴音がひとつ。
「お通しなさい」
イリアだった。稽古着ではなく指揮官の装いで、背筋は槍のように伸びている。姫騎士は門前まで進み出ると、非の打ちどころのない礼をとった。
「辺境守護、イリア=ルーヴェンハルトです。遠路、ご苦労さまでした。口上は広間で伺います」
その声は綺麗に整っていた。整いすぎている、と言ってもいいぐらいだ。ルカにはもう聞き分けがついてしまう。あれは務めの声で、丘の上で聞いたあの笑いとは別の場所から出ているのだ。
門が内へ開かれていく。ヴァルターは三騎に馬を任せると、ただひとり、兵たちの沈黙の間を歩いて門をくぐった。その背を、冷えた目がいくつも追っていく。
通された広間の空気も、火の入っていない竈に似ていた。
上座にイリア。脇にルカとガング。ヨナスが盆を掲げて回ったが、注がれたのは茶ではなく白湯だった。礼は尽くす、けれどそれ以上は出さない。老従者なりの案配が、湯気の薄さに利いていた。
団長は勧められた椅子に掛けず、立ったまま口上を述べた。
「陛下の沙汰は『見て参れ』。それだけだ。……だが私自身は、詫びねばならぬものを抱えて来た」
「詫び、ですか」
「その資格があるかも含めて、確かめに来た」
イリアの問いにも、目を伏せずに答えてみせる。
詮議の後、と男は続けた。聖騎士団長の職を返上したい旨、書面にて陛下へ伺いを立てた。陛下はそれを受理なさらず、代わりに短い命がひとつ下されたのだという。辺境へ行き、この目で見て参れ、と。
「見て参れ、とは? 何をです?」
「仰せにはならなかった。……だが、察してはいる。数字が低いと切り捨てた祈祷師が、いかにしてこの地を守ったか。王国の剣を名乗る男に、それを己の目で確かめて来いと仰せなのであろう」
「ふん。よく言ったもんだな」
ガングが小さく鼻を鳴らした。口先なら誰でも回る、と顔に書いてある。団長は咎めず、懐から折り畳んだ書状を出して卓に置いた。沙汰の写しだという。イリアが検めて、短く頷く。
それから団長は、ついでのような調子でひとつ付け加えた。
「王都の近況を、ひとつだけ。祈祷庁が『解析』とやらに躍起になっている。聖杯で、貴殿の祈りを数式に写し取るのだと息巻いているそうだ」
「……そうですか」
短く返しながら、胸の奥で棘がひとつ疼いた。数えないままでいいのに。そう決めたはずの場所へ、王都はまだ物差しを伸ばそうとしている。
けれど、今は北が先だ。ルカは棘を呑み込んで、ぬるい白湯を口に含んだ。
口上はそれで仕舞いだった。
団長の宿として用意されたのは、兵舎の一室である。部屋には寝台と木の卓がひとつきり。飯も兵と同じ釜のものを、同じ列に並んで受け取ってもらう。差配したヨナスは恭しく、それでいて一歩もまけずにそう告げたらしい。団長は文句のひとつも言わず、そのまま列に並んだという。
昼下がり、廊下ですれ違いざま、イリアが声を落とした。
「ルカ。あなたは、無理にあの方と話す必要はありませんからね」
「……うん。ありがとう」
それだけ言い残して、姫騎士は執務へ戻っていく。務めの顔の下にある、冷えた硬さ。あの人が誰のために硬くなっているのかを思うと、胸の奥が少しだけ温かくて、同じぶんだけ痛かった。
その夕刻、ルカは城壁の上にいた。
北の山並みは今日も静かだ。静かすぎるのだと知ってしまってからは、あの稜線の穏やかさがかえって薄気味悪い。
石段を上る足音がした。従者は連れていない。団長だった。
「隣、よろしいか」
「……どうぞ」
男は一歩ぶんの間を空けて、胸壁に手を置いた。しばらくは北の山へ顔を向けたまま黙っている。口を開いたのは、陽が稜線に触れた頃だった。
「貴殿を無能と侮った目で、私は森を率いた」
前置きはなかった。
「測定の列の最後尾に立つ祈祷師を、私は数字でしか量っていなかった。切り捨てられて順当な数字だと。……その目のまま兵を率いて、森で半数を失った」
「…………」
「詫びて済むものでないことは、承知している。赦しを乞いに来たのでもない。ただ、事実として、貴殿に伝えておくべきだと思った」
ルカはすぐには答えられなかった。
責める気持ちは不思議なほど湧いてこなかった。あの雪の日の悔しさは、もうこの砦の暮らしの底に沈んでいる。けれど、だからといって、いいんですよと笑って返せるほどあの冬は軽いものではなかった。祈りを数字で量られて、雪の中へ捨てられる。その物差しの列のいちばん高いところに、この人は立っていたのだから。
「……その話は、まだ僕の中でも整理がついていません」
結局、出てきたのはそれだけだった。飾りのない、本心だ。
団長は頷いた。責めも急かしもしない、ということだろう。
「それでいい。……あの森のことを、聞かせてもらえるか。いずれでいい」
「……いずれ、なら。今は北のほうが先です」
「承知した」
男はそれ以上、踏み込んでこなかった。
二人ぶんの影が胸壁の上で長く伸びていく。沈黙は思っていたほど気詰まりではなかった。言葉を積まずに、ただ同じ方角の山を同じ静けさで警戒する。もしかすると、これがこの人の詫び方なのかもしれない。
やがて夕餉の鐘が鳴った。男は短く一礼して、石段を降りていく。兵と同じ列に並ぶのだろう。その大きな背中を送り出してから、ルカも城壁を後にした。
そして、その数時間後。
執務室に主立った顔が集められた。
卓の上には北の地図。ガングが偵察の手筈を報告する。人選は済み、荷も詰んだ。出立は明朝、霧が晴れ次第。
その席の末尾には、団長の姿もあった。滞在を認める以上、砦の動きを隠し立てはしない。それがイリアの判断だった。
ノルドの一件は、猟師の見聞きした事実だけが共有された。無人の集落。争った跡のない消え方。音の絶えた山。染みのことも、鎖のことも、卓には載せない。それはまだ二人だけの荷物だ。
聞き終えた団長は、地図の峠道を辿って、二つだけ問うた。
「峠の道幅は。荷馬車は通るか」
「人がやっと二列でさ。馬は曳けるが、車は無理だ」
「……であれば、退き足も細いか」
問いは短く、急所だけを突いてくる。答えるガングの声からも、いつの間にか棘が抜けて、ただの軍人同士の受け答えになっていた。
報告が一巡したところで、イリアが顔を上げた。まっすぐ、客へ向き直る。
「ヴァルター。あなたの滞在は、認めます。ですが、この砦であなたを客としては遇しません」
「承知している」
「ここでは、あなたの肩書は何の役にも立ちません。私たち、あなたの働きだけを見ていますから」
「望むところだ。……ならば、その北の村──私も連れて行っていただこう」
即答だった。
ガングの眉が上がる。兵たちが顔を見合わせて、ヨナスの注ぐ白湯の音だけが細く卓に落ちた。
沙汰は、見て参れ。ならば、いちばん近くで見るつもりなのだろう。詫びの資格を確かめると言ったその足で、この人はいちばん剣呑な場所に並ぼうとしていた。
イリアの答えは、すぐには返らなかった。
燭の火がひとつ揺れて、北の地図の峠道に、細い影を落としていた。




