第32話 春の終わりの報せ
風の匂いが変わり始めている。
雪解けの水気を孕んだ土の匂いに、青草の青さが日ごとに濃く混じるようになった。朝のうちはまだ涼しいのに、陽が高くなると首筋がうっすら汗ばむ。春はもう、終わりに差しかかっているようだ。
その朝もルカは、いつも通り主石の前に立った。
目を閉じて、結界の糸を端から端まで辿っていく。東の稜線から西の谷まで、光の糸は張りを保ったまま静かに脈を打っていた。ほつれはどこにもない。地の底では雪解けの水がまだ細く走っていて、木々の根がそれを吸い上げていた。芽吹きの脈は、先日丘で視たときよりさらに濃い。
検分を終えて坂を下ると、下のほうから風を切る音が規則正しく聞こえてきた。
例の少年だ。坂の曲がり角の脇にある少し開けた草地が、いつの間にか彼の稽古場になっている。
「祈祷師様! 見ろよ、百回連続斬り!」
「おお、すごいね。……脇、まだちょっと開いてるけど」
「うるせえ! 数え終わってから言えよ!」
悪態をつきながらも素振りは止まらない。振り下ろすたび、枝の先がまっすぐ地面を指すようになってきた。掌の豆はとうに潰れて、固い皮に変わりつつあるらしい。本人いわく、勲章の二段目なのだそうだ。
坂の下の畑では、村人たちが種蒔きの真っ最中だった。畝の間を行き交う声。土を返す鍬の音。冬のあいだ雪の下で眠っていたものが、人も土もいっせいに動き出していた。
行き合う顔が次々にルカへ手を挙げてくる。祈祷師様、今日もご苦労さんで。井戸はすっかり澄んだよ。今度はうちの畑も視ておくれ。ひとつずつ返事をしながら坂を下りきる頃には、朝がすっかり温まっていた。
いい季節になる。
誰に言うでもなく、そんなことを思った。
その平穏に罅が入ったのは、昼を少し回った頃だ。
門のほうが騒がしい。
駆けつけると、男がひとり、門柱に縋るようにして膝をついていた。北の山を歩く猟師だ。冬の決戦のとき、避難壕で顔を合わせたことがある。山歩きで鍛えたはずのその男が肩で息をして、頬から血の気が抜け、唇だけが動いていた。水を、と誰かが桶を運んでくる。猟師は柄杓の水を半分こぼしながら呷って、それでようやく人心地ついたようだ。
報せを受けたイリアが執務棟から降りてくるのと、ガングが兵をかき分けて前へ出るのは、ほとんど同時だった。
「どうした。熊でも出たか」
「……熊なら、よかった」
猟師は首を横に振った。
「山が、静かなんだ」
「静か?」
「鳥も、獣も、何もかも……あの山があんなに黙るのは、初めてだ」
ガングの眉が寄る。ルカにはまだ話の輪郭が掴めなかった。静かなことの、いったいどこが悪いのか。そう思いかけて、猟師の顔に気づいた。歴戦の山男が、怯えた子どものような目をしている。
イリアが一歩前へ出て、膝をつく男と同じ高さまで身を屈めた。
「落ち着いて、順を追って話してください。あなたは、どこへ入ったのですか」
「ノルドで、ございます。姫様」
ノルド──北の山をひとつ越えた先にある小さな集落だ。十数戸ばかりが猟と炭焼きで暮らしている。ルカはまだ足を運んだことがないけれど、冬のあいだ、砦の市に毛皮を卸しに来る者たちがいたのは覚えていた。
「あそこの連中とは、月に二度は行き合うんでさ。それが、この十日ばかり、ぱったり途絶えて。おかしいと思って、様子を見に行ったんです」
猟師は柄杓を握りしめたまま続けた。峠を越えたあたりから、もう妙だったのだという。鳥が鳴かない。獣道に新しい足跡がない。風の音しかしない山を下って、集落に着いた。
そこで、と男は言葉を切った。生唾をひとつ呑む。
「誰も、いねえんで」
「……ノルドの人たちは?」
「戸は開いてた。中に、誰もいねえ」
場が静まり返った。
争った跡はなかったのだという。卓の上には食いかけの椀。軒先には干し肉が下がったまま。犬の鎖だけが留め具ごと外れて転がっていた。飯の途中で村ごと立ち上がって、そのまま誰ひとり帰らなかった。そういう消え方だ、と彼は言った。
「攫われた……にしては、妙ですね。荒らされてもいない、抵抗の跡もないなんて」
「ああ。俺も長えこと山で食ってるが、こんなのは知らねえ。獣の仕業じゃねえ。かと言って、人の仕業とも思えねえ」
そこで猟師の声が細くなった。
「祈祷師様。ありゃあ、いってえ、なんなんです。山が黙るってのは……」
その答えを、ルカは持っていなかった。ただ、胸の奥で冷たいものがひとつ、ゆっくりと形を持ち始めている。
北。
渡りの季節、南へ向かわずに北の山並みの上で渦を巻いていた黒い群れ。あの朝、風の中に一掠めだけ拾った、覚えのある残り香。気のせいだといい。そう思いながら、気に掛け続けてきた方角だ。ルカは言った。
「……確かめたいことがあります。少しだけ、席を外しても?」
イリアと目が合った。姫騎士はそれだけで察したらしい。頷きがひとつ返ってきた。
「行ってください。こちらは私が聞き取っておきます」
主石は門の脇の定位置に、いつも通り鎮座していた。
表面を走る式の光もいつも通りで、今朝の検分に異状はなかった。ただ、確かめるべきものは式ではない。
ルカは石の前に膝をつき、封じの膜の奥へ〝視〟を沈めていく。冬の決戦のあと、祓いきれずに封じるしかなかった場所だ。あれから幾度となく検めてきたが、そのたびに在るのは、死んだように動かない黒だけだった。
しかし──今日は、違った。
膜の内側で、あの黒い染みが、 微かに脈を打っている。
どく、と。長い長い間を置いて、また、どく、と。眠っていたものが寝返りを打つような、鈍い、けれど確かな律動だった。冬のあいだ一度も動かなかったものが、今になって動いている。北の山から音が消えたという報せと、同じ日に。
(呼応、してる……?)
その言葉が浮かんだとき、耳の奥であの笑い声の残響が甦った。核が砕け散る間際に聞いた、人の声。背筋を冷たいものが這い上がっていく。
どれほどそうしていたのか。砂利を踏む足音に、ルカは目を開けた。
「ルカ。どうでしたか」
イリアが立っていた。猟師への聞き取りを終えてきたのだろう。傾き始めた陽が、白銀の髪を淡く縁取っていた。
「……動いてる」
口にした声は、思ったより掠れていた。
「染みが、脈を打ってるんだ。ずっと眠ってたのに、今になって」
「北の報せと同じ日に、ですか」
「うん。偶然だって言えたら、楽なんだけどね」
イリアは主石に歩み寄り、膜の奥のなお見えない黒へ向けて、そっと目を伏せた。彼女には視えない。それでも、そこにあるものの重さは誰よりも知っている人だ。左の手が静かに胸元へ上がる。鎖の残る場所だった。
「……行きましょう、ルカ。続きは、執務室で」
*
執務室の卓に、北の地図が広げられた。
砦を起点に山並みが北へ連なり、ノルドはそのひとつ向こう、細い峠道の先にある。イリアの指が、砦とノルドを繋ぐ道筋をなぞった。
「ノルドは、辺境守護の管轄です。あの村の炭は冬のあいだ、この砦の竈にも入っていました。……見捨てるという選択肢は、ありません」
「うん。それは、僕も同じ気持ちだよ」
問題は、と姫騎士は峠の上で指を止めた。
「相手が分からないことです。魔物の群れなら、痕跡が残ります。人ならば、なおのこと。跡ひとつ残さず村を空にするなんて、有り得ません」
「……たぶん、繋がってると思う」
ルカは卓の上で手を組んだ。
「染みと、鎖と、北の空の群れ。視える色が同じだって話は、前にしたよね。その染みが、今日になって脈を打ち始めた。北で人が消えたのと、同じ頃に。別々の話だとは、僕にはもう思えないんだ」
「同じ手が、動き始めた……?」
イリアの声は低かったが、揺れてはいなかった。恐れよりも先に、守るものの数を数えている。三年、この地でそうしてきたのだ。
「ならば、なおさら急ぎましょう。まずは偵察です。少数で峠を越え、ノルドの現状を確かめます。敵が見えても、深追いはしないように。情報を持ち帰ることが最優先です」
「編成は、ガングさんと相談だね。それと……僕も行くよ。視える者がいないと、たぶん、肝心のものを見落とすから」
「言われずとも、そのつもりです。ただし」
姫騎士の指が、ぴ、とこちらへ向いた。
「私の隣から、離れないこと。いいですね」
「……はい、姫様」
初めから二人。いつかの誓いを、こういう形で果たすことになるとは思わなかった。それでも、独りで抱えて震えていた頃を思えば、卓を挟んだ向かいにこの人がいてくれるだけで、息の深さが違う。
出立は明後日の早朝、と決まりかけた、そのときだった。
廊下を駆けてくる足音がしたかと思えば扉が叩かれ、伝令の兵が転がり込んできた。
「申し上げます! 南の街道より早馬! 王都からの先触れにございます!」
「王都から?」
イリアの眉が寄る。兵は息を整え、口上を読み上げた。
「『聖騎士団長・ヴァルター=ジークベルト、勅命により当地へ下向する。到着は三日の後』……以上にございます」
団長・ヴァルター=ジークベルト
王国の剣と謳われる人であり、あの冬、森で聖騎士の半数を失った遠征を率いた人でもある。詮議の場で辺境を庇う証言をしたらしい、という噂だけが、風の便りに届いていた。
ルカとイリアは、どちらからともなく顔を見合わせた。
「北がこれだけ騒がしい時に、南から客ですか」
「……しかも、よりによって、あの人だ」
窓の外では、南からの風が、砦の旗を北へ靡かせていた。




