第31話 春の丘、三人の休日
その朝、ルカの前に、老従者が立ち塞がった。
いつも通り検分に向かおうと、中庭へ出たところだった。ヨナスは廊下の真ん中で、恭しく、それでいて一歩も引かぬ姿勢で頭を下げた。
「おはようございます、ルカ様。本日のご予定は、すべて明日以降に移してございます」
「……おはよう、ヨナス。ええと、意味がよくわからないんだけど」
「言葉のままにございます。本日、ルカ様のご予定は、ございません」
にこやかに断言されて、ルカは固まった。
「え、ええと、ヨナス? 結界の検分が」
「検分は毎朝なさっておいでで、糸のほつれは、この春ひとつもないとのこと。ならば一日くらい、石も休みたかろうと存じますが」
石は別に休まない。そう反論しようとして、ルカは老従者の目が笑っていないことに気づいた。口元は柔和なのに、目だけが職務の色をしている。長年の経験から言って、こういう顔の相手には勝てない。
それでも一応、援軍を探した。ちょうど武具庫の前に、ガングの姿がある。
「ガングさん! あのね、ヨナスが」
「おう。聞いてるぜ」
古参兵は、こちらが言い終わる前に片手を挙げた。
「本日の砦は俺らで回しておくぜ。行ってきな」
「ガングさんまで!? ……はかられた」
外堀は、とうに埋まっていたらしい。ガングの後ろでは兵たちがにやにやと成り行きを見物しているし、厨房のほうからは、布に包まれた大きな籠を抱えた料理番まで現れた。籠からは、揚げ物の香ばしい匂いが立ち上っていた。用意周到にもほどがある。
そこへ、最後の駒が到着した。
「ルカ。あなたもですか」
現れたイリアは、稽古着ではなかった。外歩きの軽装に、髪もいつもより丁寧に結ってある。聞けば姫騎士も今朝、まったく同じ口上で稽古を「明日以降に移されて」きたらしい。
二人は顔を見合わせた。
ヨナスは籠を受け取ると、実に晴れやかに一礼した。
「本日は、お供を願いますぞ。春の丘まで、ご一緒に」
降参だった。
村を抜けて、南の丘への道を行く。
北へ向かう街道とは反対側の、なだらかな坂道だった。雪はもうほとんど残っておらず、道の両脇には若草が萌え、そこかしこに小さな白い花が顔を出している。
イリアの足取りは、軽かった。数歩先を行っては、道端にしゃがみ込む。
「ほら、ルカ。あれが雪割りの花です。雪より先に春を知る花、だなんて言われていますね」
「へえ……綺麗だね。あ、姫様、こっちにも咲いてる」
「あちらは鈴百合です。もう少しすると、この道は花で真っ白になります」
次から次へと花の名が出てくる。三年この地を守ってきた人の知識。この地が好きだからこそ、学んでいるのだろう。
ルカも時折、立ち止まって目を閉じた。
視るともなしに視えてくるのだ。土の下を、雪解けの水が細い流れになって走っていく。冬を耐えた木々の根が、ゆっくりと水を吸い上げ始めていた。芽吹きの季節の地面は、淡い光の脈で満ちている。冬の間、張り詰めた結界の糸ばかり視てきた目に、それはひどくやわらかかった。
「ルカ様、いかがなさいました」
「ううん。……春だなあって」
籠を担いだヨナスが、追いついて首を傾げる。ルカは笑って、また歩き出した。せめて荷物くらいはと手を伸ばしたが、老従者は半身で籠を守る。
「お荷物はこのヨナスが。……お二人は、景色をご覧なされませ」
「でも、重いでしょ、それ」
「執事の腕は、飾りではございませんぞ」
途中、畑に出ていた村人たちが、三人に気づいて手を振った。祈祷師様と姫様がお揃いで、と囃す声に、イリアの耳が少し赤くなる。例の噂は、まだ健在らしかった。今日も今日とて、気づかないふりで見過ごすしかない。
丘の上は、風が気持ちよかった。
南向きの斜面は日当たりがよく、草はもう青々としている。眼下には村と畑が広がり、その向こうに砦の影が小さく見えた。
ヨナスが敷布を広げ、籠を開ける。
籠の中身に、ルカは腰を浮かせた。飴色に照った根菜の煮物。山菜を薄い衣で揚げたもの。焼きたてのパンに、干し肉、木苺の蜜漬けまである。
「これ、もしかして」
「はい。雪の下で冬を越した根菜と、山の芽吹きにございます」
いつか兵が言っていた、あれだ。
いただきます、と手を合わせて、まず根菜をひと切れ。
噛んだ途端、声が漏れた。
「なにこれ、甘い……! 根菜だよね、これ」
「ふふん。言った通りでしょう。辺境の冬は、ただ寒いだけではないのです」
イリアが、我がことのように胸を張った。婆様の言っていた通りだ。急かさず、ゆっくり寒さに当てた甘さ。山菜の揚げ物は、ほろ苦さと香りが鼻に抜けて、これも箸が止まらない。
夢中で食べるルカの向かいで、ヨナスが茶を注ぎながら、しれっと言った。
「姫様も着任当初、まったく同じお顔をなさっておいででしたな。ひと口ごとに目を丸くなさって」
「ヨ、ヨナス。余計なことは言わないでください」
「おや。事実にございますが」
「事実って言葉、この砦で流行ってるの?」
笑いながら食べるうち、揚げ物は残りひとつになった。ルカとイリアの手が、同時に止まる。ヨナスがすかさず皿を持ち上げ、二人の間へ差し出した。
「最後のお一つ、いかがなさいますかな」
「「……どうぞ」」
声が、綺麗に重なった。
譲り合いは三往復ほど続き、結局ヨナスが小刀で半分に切って収める。老従者は何食わぬ顔で茶を注ぎ足していたが、その口元がわずかに緩んでいたのを、ルカは見逃さなかった。
腹が満ちると、話は自然とゆるやかになった。
草の上に足を投げ出して、ルカはふと、前から気になっていたことを口にしてみた。
「そういえば。姫様って、小さい頃はどんなだったの?」
「なっ……ど、どうしたのですか、急に」
「いや、ほら。ヨナスは昔から仕えてるんでしょ。ちょっと聞いてみたくて」
イリアがあからさまに狼狽える横で、ヨナスの目が、待ってましたとばかりに輝いた。
「よくぞお訊きくださいました。姫様は、それはもう、お転婆であられましたぞ」
「ヨナス!?」
「木登りにかけては、砦の悪童どもも敵いませなんだ。ドレスのまま城の大楡のてっぺんまで登られて、下りられなくなって。乳母どのは半泣きで梯子を」
「ヨ、ヨナス! その話は禁止と申し付けたはずですッ」
姫騎士が慌てて手を伸ばすが、老従者はするりと躱して続ける。初めて剣を賜った夜など、嬉しさのあまり剣を抱いて眠られて、翌朝、鞘の型が頬についておいでで。
「あははっ。ちょっと想像つかないなぁ、それ」
「ルカまで笑わないでくださいッ」
真っ赤になって抗議する姫と、涼しい顔の老従者。ルカは腹を抱えて笑った。
木登りの姫。剣を抱いて眠る姫。知らなかった。ルカの知っているイリアは、呪われ姫と呼ばれて三年、この辺境で背筋を伸ばし続けてきた人だ。その前に、泥だらけのドレスで楡の上から城下を眺めていた女の子がいたのだと思うと、なんだか不思議で、胸のあたりがくすぐったかった。
笑い疲れた頃、風がやわらいだ。
春の陽が、敷布をぬくぬくと温めている。イリアの相槌が、だんだん短くなっていった。やがて姫騎士は敷布の端で膝を抱え、こくり、こくりと船を漕ぎ始め、そのまま横になってしまった。
規則正しい寝息が、聞こえてくる。
あどけない、と言っていいほどの寝顔だった。剣も、姫の姿勢も、どこかへ置いてきた、年相応の女の子の顔。
起こさないほうがいい。ルカとヨナスは目配せをして、声を落とした。
ヨナスが、ルカの湯呑みに茶を注ぎ足す。それから老従者は、寝顔のほうへ顔を向けたまま、ぽつりと言った。
「……呪いの噂が立ってからというもの、姫様は、人前でお笑いにならなくなりました」
静かな声だった。
「城でも、道中でも、この砦に着いてからも。笑みを絶やさぬお方でしたが、あれは務めの笑みで。楡の上で笑っておられた頃のお顔は、とんと見なくなり申した」
ヨナスは、湯呑みを両手で包んだ。
「それが、近頃はよくお笑いになる。声を上げて、お腹を抱えて。……よくお笑いになるようになられた──あなた様が、来てからですぞ」
風が、草を撫でていった。
ルカは、返す言葉を探した。違うよ、とか、僕は別に、とか。浮かんだ言葉はどれも、この静かな声の前では軽すぎた。だからルカは、探すのをやめて、ただ本当のことだけを言った。
「……僕のほうこそ、ですよ」
ヨナスは、それ以上は言わなかった。
満足そうにひとつ頷いて、湯呑みの茶を啜る。姫の寝息と、風の音だけが、しばらく丘の上に流れていた。
帰り道は、夕暮れだった。
目を覚ましたイリアは、寝顔を見られていたと知って、たいそう不機嫌になった。正確には、不機嫌のふりをした赤面である。
「それで。私が寝ている間、二人で、な、何の話をしていたのですか」
「んー……なんだっけ?」
「庭木の剪定の話などを」
「嘘です。絶対に嘘です。二人とも、妙に息が合っていますもの」
姫騎士の追及を適当にはぐらかしながら、坂を下っていく。西の空が茜に染まり、三人の影が、道の上に長く伸びていた。
やがて、砦の窓に灯りがともるのが見えた。村のほうにも、ひとつ、またひとつと灯りがともっていく。
その明かりの手前で、イリアが足を止めた。振り返った顔は、もう姫の顔に戻っている。
「ヨナス。今日は、ありがとうございました」
「もったいなきお言葉。……またやりましょうぞ。次は、皆で」
「賛成。ガングさん、絶対『俺の分は』って言うよ」
「ふふっ。では樽も用意せねばなりませんね」
樽が出てくるなら、それはもう遠足ではなく宴だ。いいや、それでもいい。あの根菜の甘さは、皆で騒いで食べるのに向いている。
三人は笑い合って、また歩き出した。
夕餉の匂いのする坂道を、砦の灯りへ向かって下りていく。春の宵の風が、背中をゆるく押していた。




