第30話 祈りの数えかた
翌朝の砦は、いつもの顔に戻っていた。
いや、正確には、すれ違う兵の目は昨日よりさらに生温かくなっていたのだが、ルカはもう気づかないことに決めていた。気にしていたら、身が持たない。
日課の検分を終えて、井戸で手を洗う。今日も光の糸にほつれはなく、結界は静かに脈を打っていた。さて朝食に、と踵を返したところだった。
「祈祷師様! いたいた、祈祷師様!」
坂を上ってきた村人が、息を切らして駆け寄ってきた。
「うちの井戸をちょいと視ちゃもらえねえか。二、三日前から、水が濁っちまってよう」
「井戸ですか。いいですよ、朝のうちに伺い……」
「山羊が! 山羊がまた柵を!」
言い終わる前に、別の声が割り込んできた。振り向けば、隣家の若い衆が血相を変えて坂を駆け上がってくる。その後ろから、腰を押さえた婆様が一歩ずつ、着実にこちらへ向かってきていた。列は、まだ伸びるらしい。
「順番、順番だから! ええと、まず井戸から視て、それから山羊を捜して……」
「祈祷師様、ついでにうちの納屋の戸も頼むわ。建て付けが悪くてよう」
「それ僕の仕事!?」
思わず声が裏返った。祈祷のどこをどう応用しても、戸の建て付けは直らない。
騒ぎを聞きつけたのか、武具庫のほうからガングがのそりと顔を出した。朝の点呼を終えたばかりらしい。並んだ顔ぶれで事情を察すると、古参兵は呆れ半分、面白がり半分の顔で顎髭を撫でた。
「人気商売だな、祈祷師様よ」
「笑いごとじゃないんだけど……」
「なあに、冬の間は皆、遠慮してたのさ。雪が解けりゃ、溜まってた頼みごとも解ける」
言われてみれば、そうなのかもしれない。
凍てついた季節には、困りごとまで雪の下で息を潜めていた。それが春と一緒に、いっせいに顔を出したのだ。そう思えば、この列も雪解けの続きだと考えられる。
稽古に向かうイリアが、木剣を肩に通りかかったのは、そのときだ。列の賑わいに、姫騎士はくすりと笑った。
「行ってらっしゃいませ、ルカ」
「うん。夕方までには戻るよ」
「……取り合いになる前に、戻ってきてくださいね」
冗談とも本気ともつかない言い方だけを残して、彼女は稽古場へ歩いていった。取り合いとは何の話だろう。訊き返す前に、村人たちがルカの袖を引いた。
最初の頼まれごとは、井戸だった。
村はずれの古い井戸を覗き込むと、なるほど、水がうっすらと白く濁っている。ルカは縁に掌をかざして、目を閉じた。
地の底を、視る。
井戸の底からさらに深く、水の道が岩の間を縫って走っていた。その道の途中、ひと所だけ、流れが淀んでいる。冬の間に細かな砂が溜まって、水の通りを塞いでいたのだ。
ルカは短く祈りを結んだ。結界石に式を編むのと、要領は同じだった。淀みのまわりに小さな光の糸を巡らせて、滞った流れをそっと促してやる。派手な光も、音もなし。傍から見れば、若者が井戸の縁で目を閉じているだけだ。
「……うん。これで、三日もすれば澄むと思います」
「もう終わりかい」
「終わりです。あとは水が自分で綺麗にしてくれますから」
「さすが祈祷師様だ、ありがてえ」
村人は井戸を覗き込んで、しきりに感心している。ルカは首の後ろを掻いた。
「いえ、この井戸が元々いい水脈の上にあるんですよ。僕は少し、道の掃除をしただけで」
「はっは。祈祷師様はいつも、そう言いなさる」
褒め言葉の収め方は、ここにきてからずいぶん練習したはずなのに、一向にうまくならない。
二件目の山羊は、祈りの出番がなかった。
逃げた山羊に祈りは届かない。誓いも約束も、あの動物には通じないのだ。ルカは柵の破れ目にしゃがみ込み、地面に残った蹄の跡を辿った。跡は畑の脇を抜け、若草の萌え始めた斜面を下って、崖のほうへ続いている。ところどころ、芽吹いたばかりの草が食い千切られていた。食べながら歩いた道は、正直だ。
果たして犯人は、崖下の日だまりで見つかった。若草の茂みに寝そべって、腹をまるまると膨らませ、実に満足そうに反芻している。
「……君ねえ。皆が心配してるんだよ」
山羊は、返事の代わりに草を食んだ。反省の色は、毛の先ほどもない。
仕方なく担ぎ上げると、これが存外に重い。
(こ、腰が……)
春の草をたらふく詰め込んだ胴体は、ずっしりと重く、そして温かかった。斜面を登る途中で二度滑り、村に戻る頃には、ルカの膝から下は泥まみれになっていた。
柵の前で待っていた村の子供らが、その姿を指差して大笑いする。
「祈祷師様、どろどろだ!」
「山羊のほうが偉そうだぞ!」
「はは……面目ない」
肩の上の山羊は、我関せずの顔で耳を揺らしていた。
飼い主の若い衆が平謝りで受け取りに来て、これも祈祷で捜したのかと訊くから、ルカは泥を払いながら答えた。
「あっちは……ただの人捜しの要領です。主に、足で」
三件目は、婆様の腰だった。
グラッテの村の外れ、小さな家の縁側に、婆様は座って待っていた。ルカが膝をついて向き合うと、曲がった背中が少しだけほどける。
「悪いねえ、若い人に来てもらっちまって」
「いえ。……じゃあ、失礼しますね」
掌を擦り合わせて温めてから、腰にそっと当てる。
そして、短い祈りをひとつ。
強張った筋がやわらぎ、巡りが少しでも楽になるように。冷えの棘が、骨に届かないように。それだけの、ささやかな祈りだ。聖杯にかければ、針の先も動かないだろう。あの大聖堂の物差しでは、これは祈りとして数えられない。
けれど婆様は、ふう、と長い息を吐いた。
「ああ……あんたの祈りは、温いねえ」
「そう、ですか? いちばん下のランクなんですけどね、これでも」
「ランク? なんだいそりゃ。湯たんぽに、ランクなんぞあるかい」
湯たんぽ。祈祷師の技が、湯たんぽ。
思わず吹き出しそうになったが、婆様は大真面目だった。それどころか、よいしょと立ち上がり、奥から茶の支度を持ち出してくる。
「ほれ、茶ぁ飲んでいきな」
「あの、僕まだ次の頼まれごとが」
「若いもんは急ぎすぎだ。そこにお座り」
断り切れる気配ではなかった。
結局ルカは、湯呑みを両手に、小一時間も縁側に座り込む羽目になった。話は、亡くなった連れ合いのことから始まる。無口で、不器用で、けれど冬のいちばん寒い朝には、いつも先に起きて竈に火を入れてくれていた人。それから、冬越しの畑の話。雪の下で育つ根菜は、急かさないのがコツなのだという。ゆっくり寒さに当てるから、甘くなるのだと。
ルカは相槌を打ちながら、ただ聞いていた。祈りの出る幕は、どこにもなかった。
お暇する頃には、日が傾き始めていた。見送りに立った婆様の背筋が、来たときより伸びている気がして、ルカは首を捻った。
祈りが効いたのか。それとも、茶と話が効いたのか。
どちらだろう、と考えて、やめた。婆様が笑っているのだから、どちらでもいい。
砦への帰り道で、最後の頼まれごとが待っていた。
坂の途中に、村の少年がひとり、仁王立ちしていたのだ。年の頃は十かそこら。意を決した顔で、少年はルカの前に立ち塞がった。
「祈祷師様。俺に、祈ってくれ」
「うん? どこか痛いの?」
「違う。強くなれるように、祈ってくれ」
聞けば、少年は大きくなったら砦の兵になるのだと言う。兵になって、姫様とこの村を守るのだと。あの決戦の冬、避難壕の中で震えながら、そう決めたのだそうだ。
「祈祷師様の祈りなら、俺もすぐ強くなれるだろ?」
「うーん。……ごめんね。僕の祈りは、近道には効かないんだ」
「なんだよそれ。ケチ」
少年は露骨に口を尖らせた。ルカは笑って、道端から手頃な木の枝を二本拾い上げる。一本を少年に放り、自分も一本を構えてみせた。
「その代わり、付き合うよ。ほら、構えて」
「……剣、使えるの?」
「使えないよ、全然。姫様の稽古を、横でずっと見てただけ」
だから型くらいは知ってる、と続けると、少年は疑わしげな顔をしながらも枝を構えた。
それから日暮れまで、坂の途中で素振りが続いた。振り下ろすたび、少年の枝は右へ流れる。脇が開くのだと、いつかガングがイリアの隊の新兵に言っていたのを思い出して、そのまま受け売りで教えた。百を数える頃には、少年の息はすっかり上がっていたが、枝を下ろそうとはしなかった。
空が茜に染まりきったところで、ようやくお開き。こちらも疲労困憊だ。
「……手、見せて」
少年の掌には、赤い豆がふたつ、できかけていた。ルカはその上に指を添えて、今日いちばん小さな祈りをひとつだけ結ぶ。熱を持った皮膚が、すっと鎮まった。
「今日の分だけね。明日からの豆は、君の勲章だから」
「……ふうん。まあ、いいけど」
少年はぶっきらぼうに言って、枝を担いで駆けていった。坂を下りながら、一度だけ素振りの構えを試して、転びかけていた。
砦に戻ると、夕暮れの鐘が鳴ったところだった。
城壁の上に、イリアの姿を見つけた。稽古上がりのまま、暮れていく村を見下ろしている。ルカが隣に並ぶと、姫騎士は膝から下の泥に気づいて、目を丸くした。
「まあ。ずいぶんな格好ですね?」
「聞いてよ。今日の僕、祈祷師っていうより何でも屋だったんだ」
それから、一日の顛末を順に報告した。井戸の底の掃除のこと。まるまる太った山羊を担いで崖を登ったこと。婆様に湯たんぽ扱いされて、茶を三杯飲まされたこと。将来の砦の兵と、日暮れまで素振りをしたこと。
イリアは、湯たんぽのくだりで声を上げて笑った。
「ふふっ、あははっ……湯たんぽ。言い得て妙です」
「姫様まで笑うの?」
「だって、わかりますもの。ルカの祈りの、あの温さは」
笑いの尾を引いたまま、イリアはさらりとそんなことを言う。こちらの返事に困る台詞を、この人はいつも不意打ちで置いていく。
眼下の村に、ぽつり、ぽつりと灯りがともり始めていた。あの灯りのひとつは婆様の家で、あのあたりの灯りは、山羊の家だろうか。
ふと、イリアが訊いた。
「今日は、いくつ祈ったのですか?」
ルカは、指を折りかけて、やめた。
井戸にひとつ。婆様の腰にひとつ。少年の豆にひとつ。数えれば数えられる。でも、山羊捜しの足取りや、縁側の茶や、日暮れの素振りは、どこに数えればいいのだろう?
「……数えてないなあ。数えるものでもない気がしてきてて」
「そうですね。その通りです」
イリアは、それ以上の講釈をつけなかった。ただ満足そうに頷いて、また村へ顔を戻した。
少し前まで、祈りは目盛りで測られていた。水面が動かなければ、祈っていないのと同じだった。
今日の祈りは、ひとつも水面を揺らさない。代わりに、井戸が澄んで、婆様の背が伸びて、少年の掌が明日も枝を握れる。
それだけのことを、それだけ、と思わなくなった。この場所が、そうしてくれたのだ。
「ルカ様ー! 姫様ー!」
中庭から、老従者の声が伸びやかに響いてきた。
「お夕食ですぞーッ!」
二人は顔を見合わせて、笑った。
「行きましょうか。今日の働き者さん?」
「その呼び方も、じわじわ恥ずかしいんだけど」
言い合いながら、並んで石段を下りていく。
夕食の匂いが、階下から立ち上ってきていた。今日のところは、数えないままでいい。




