第29話 その手の噂
その朝の砦は、どこかおかしかった。
いつも通りに検分を終えて、いつも通りに中庭を横切っただけだ。なのに、すれ違う兵の敬礼が、やけに深い。
深いだけならまだよかった。皆、目が笑っているのだ。
「祈祷師様! その、お元気そうで何よりです!」
「う、うん? おかげさまで……?」
若い兵が二人、声をかけてきたかと思えば、互いの脇腹を肘でつつき合いながら去っていく。その背中がずっと、小刻みに揺れていた。
井戸端では、非番の兵たちが車座になって盛り上がっている。ルカが近づくと、話し声がふつりと途切れた。
「……で、あれだ。今年の雪解けは早えって話よ」
「おう、早え早え。畑が待ってるからなあ」
誰がどう聞いても、いま作った話題だった。
ルカは首を捻りながら、その場を離れる。
(今日って、何かの祝日だっけ……?)
春の祭りにはまだ早いはずだ。誰かの祝い事があるとも聞いていない。なのに砦じゅうが、湯気の立つ鍋に蓋をしたような、妙なあたたかさで満ちていた。
その正体は、昼前に判明した。
「おう、祈祷師様。ちょっと面貸しな」
武具庫の脇に呼び出されるなり、ガングは腕を組んで言った。
「回りくどいのは性に合わねえ。だから直で訊くぜ」
「う、うん」
「手ぇ繋いで歩いてたろ、姫様と。朝っぱらから」
「…………」
思考が止まった。
あの朝だ。北の空を見て、ヨナスに呼ばれて、それで、その、流れで。
「あっ……あれは、その、成り行きというか」
「非番の奴が見てたとよ。中庭のど真ん中、仲良く手ぇ繋いで飯に向かう二人をな」
仲良く、のところで、ガングの片眉がわざとらしく持ち上がった。
弁解の言葉が、喉の奥で干上がっていく。思い返せば返すほど、あの場所は目撃されるためにあるような立地だった。
「ど真ん中……」
「話は一晩で砦を一周した。で、今朝には坂を下って村に着いてたぞ」
「早すぎない!?」
冬のあいだ、雪で閉ざされていた坂だ。行商の荷より噂のほうが先に春の往来を果たしたことになる。この砦の伝達網が敵の斥候相手にもこれだけ機能することを、ルカは切に願った。
ガングは顎髭を撫でながら、追い打ちの続報を口にする。
「村じゃもう『いつ祝言だ』って話だぜ。爺さんども、樽を開ける算段までしてやがる」
「育ちすぎだよ噂!?」
噂は、坂を転がる雪玉に似ていた。麓に着く頃には、元の玉が見えないほど太っている。
血の気の引くルカの肩を、ガングが大きな掌でばしんと叩いた。
「まあ、なんだ。俺は別に、悪い話だとは思ってねえよ」
「そういう問題じゃなくてッ!」
追い打ちは、昼過ぎに来た。
村から祝いの籠が届いたのだ。干し果実と花をどっさり詰めた、どこからどう見ても祝い事用の籠が。運んできたヨナスは、籠を差し出したまま一拍だけ黙り、それから慇懃に一礼した。
「……グラッテの村の皆様より、で、ございます」
「その間は何!? ヨナスまで何か誤解してない!?」
「めっそうもございません」
老従者の口元は、めっそうもない角度に緩んでいた。
こうなれば、訂正して回るしかない。ルカは意を決して、井戸端の兵たちのもとへ向かった。
「あのね、皆が思ってるようなことじゃないんだ。手を繋いだのは事実だけど、そういう意味では」
「「「事実!」」」
「そこだけ拾わないで!?」
言えば言うほど、墓穴が深くなっていく。「事実」の二文字だけが独り歩きを始め、兵たちの目はもう、疑いようもなく確信の色だった。
そこへ、間の悪いことに、稽古を終えたイリアが木剣を肩に通りかかった。
兵たちが、一斉に色めき立つ。どこからか、ひゅう、と口笛まで飛んだ。
「姫様! 俺たちゃ嬉しいんですよ! なあ!」
「おう! めでてえ!」
「な、なんの話ですか!?」
事情を聞かされた姫騎士は、みるみるうちに耳まで赤くなった。
それでも、背筋だけは伸びたままだ。胸を張り、姫の姿勢を崩さぬまま、彼女は言い放つ。
「で、ですから、あれは……ルカが転ばぬよう、私が手を引いて差し上げただけです」
「僕そんなに足元怪しくないよね!?」
思わず突っ込んだルカへ、兵たちの生温かい視線が一斉に流れてくる。誰も彼女の説明を信じていなかった。当のイリアも、木剣を握る手に力を込め直して、なお言い募る。
「わ、私は事実を申し上げたまでです!」
「だから事実って言葉が火に油なんだってば!」
油を注がれた火は、兵たちの間で景気よく燃え広がった。ひゅう、と二度目の口笛が飛ぶ。姫騎士の耳が、また一段赤くなった。それでも背筋だけは、槍のように伸びたままだ。
そして彼女は、引くどころか一歩前に出た。
「そ、そもそも! 殿方と手を繋ぐことの、な、何が問題なのですか。ぎょ、業務として、何も」
「業務!?」
兵たちが、どっと沸いた。
考えてみれば、彼女は一度も「違う」とは言っていない。手を引いただけ。事実を述べただけ。業務として。どの言い回しも、肝心のところを綺麗に避けて通っている。
それに気づいてしまったルカの頬も、じわじわと熱くなっていった。
「……と、とにかく! 騒ぐのは訓練を終えてからになさいッ」
姫騎士の号令で兵たちは散った。散り際の背中は、全員揺れていた。
夕刻。執務室。
机を挟んで、二人は向かい合っていた。議題はひとつ。噂の訂正文である。
「では……『噂は事実無根』と……いえ」
羽根ペンを持ったイリアの手が、書き出しで止まる。
「無根と言い切るのは、その、正確さを欠きますね」
「そうだね。手は、繋いだわけだし」
「繋ぎ、ましたね」
「……うん」
沈黙が落ちた。窓の外から、兵たちの笑い声が遠く聞こえる。
「で、では、こういうのはどうでしょう。『あれは業務上の連携であって』……」
「祈祷師と騎士の連携で、手を繋ぐ業務って何?」
「う……そ、それは……結界の、点検的な……?」
「僕が書いたことになったら、祈祷師の信用が失われそうだなあ、それ」
「〜〜っ」
イリアはペンを置いて、額を押さえた。書き損じの紙が一枚、また一枚と重なっていく。そして肝心の訂正文は、一行も進まなかった。
厳密に、正確に書こうとすればするほど、否定できる箇所がどこにもないのだ。
窓の光が、橙に傾いていく。
白いままの紙を眺めながら、ルカはふと思った。
困っているはずだ。どう考えても困っている状況のはずなのに、この時間が、少しも嫌ではなかった。
「……ルカ」
やがて、イリアが顔を上げた。
腹を決めたらしい顔で、白紙をきちんと畳む。
「訂正は、いたしません」
「え。いいの?」
「はい。……だ、だって、書けないものは書けませんし」
「まあ、そうなんだけど。理由は、それだけ?」
何気なく訊き返しただけだった。
だが、イリアの目が泳いだ。あちこちへ逃げたあげく、蚊の鳴くような早口が続いた。
「……い、いずれ、訂正の必要が、なくなるかも、しれませんし」
「え」
一拍、意味を取り損ねた。
遅れて、追いついてしまった。
「それって……」
「なっ、なんでもありませんッ。忘れてください、今のは!」
イリアは椅子を蹴るように立ち上がった。耳どころか首筋まで赤い。畳んだ白紙を胸に抱え、逃げるように扉へ向かう。
そして、扉に手をかけたところで、姫騎士はくるりと振り向いた。
赤い顔のまま、それでも精一杯いつもの調子を取り繕って、悪戯っぽく笑ってみせる。
「では、また明日。……私だけの、祈祷師様?」
ぱたん、と扉が閉まる。
残されたルカは、しばらく動けなかった。
やがて、胸を押さえて、椅子に深く沈み込む。
「……ほんと、心臓に悪いなぁ」
窓の外では、春の宵が始まっていた。
訂正されなかった噂は今夜も、砦のどこかで楽しげに転がり続けるのだろう。
それを、ほんの少しも嫌だと思えない自分に気づかないふりをして、ルカは灯りを点けに立った。




