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第28話 僕らの朝

 春先の朝は、水の匂いがした。

 雪解けは、さらに進んでいた。中庭の土はもう半ば以上が顔を出し、踏まれて黒く光っている。軒の氷柱は根元まで細り、雫の落ちる音はいつのまにか、砦の朝の当たり前になっていた。

 その朝も、ルカは日課の検分を終えたところだった。

 主石から末端の石まで、ひとつずつ掌をかざして、式の脈を確かめて回る。光の糸は、今日もほつれていなかった。編み目の位置はもう、目を閉じていても指がたどれる。


「祈祷師様、おはようございます。今日はあったかいですね」

「おはようございます。……ほんとだ。もう、春だね」


 通りかかった兵と、朝の挨拶を交わす。

 冬のあいだ、ぴたりと絶えていた坂の往来も、戻ってきていた。行商が荷を背負って峠を越えてくる。礼を言いに、村の者が花を手に上ってしていた。凍てついて息を潜めていた辺境が、雪解けとともに少しずつ、息を吹き返している。


「そういえば」


 ふと気になって、ルカは兵に尋ねてみた。


「春になると、このあたりって美味しいものとか、あるの?」

「ありますとも!」


 兵は、待ってましたとばかりに身を乗り出した。


「雪の下で甘みを溜めた根菜がね、これがまた絶品なんですよ。あとは、山の芽吹きを摘んで、揚げたやつ。祈祷師様、あれはぜひ食っていただかねえと」

「それはそれは。王都じゃ食べたことないから、楽しみだは」

「ははっ。姫様もいらした当初、まったく同じことを仰ってましたよ」

「そうなんだ。へえー……イリア様も」


 他愛のない話に、頬が緩んだ。

 目の前の兵は、ルカへ当たり前の敬意を向けてくれていた。無能を見る目でも、様子を窺う目でもない。ただの、砦の一員を見る目で。

 そんな光景を見ていて、ふと思う。


(……一年前の僕に今のことを教えても、絶対信じないだろうなぁ)


 この季節、自分は王都の大聖堂で、聖杯の列のいちばん後ろに立っていた。誰の隣にも座れず、近づけば人が半歩ずつ退いていく、あの列の最後尾に。

 あの頃の自分にこの朝を語って聞かせても、きっとただの絵空事だと笑うだろう。

 それだけ、置いておく。

 感慨に浸るには、この朝の光は眩しすぎた。

 朝の稽古を終えたイリアが、木剣を肩に、中庭を横切ってくる。

 額にうっすらと汗を光らせて。それを拭う仕草にも、以前のようなどこか張り詰めたものはなかった。


「姫様」


 ルカはその背へ、声をかけた。


「少しだけ……付き合ってほしいところがあるんだ」


 自分でも、声が硬くなるのがわかった。

 イリアは足を止めて、こちらを見る。

 いつもなら、軽口のひとつも返してくるところだ。だが、彼女はその声の色を、一拍で聞き分けたらしい。


「……はい。わかりました」


 何も訊かず、ただ静かに頷いた。

 二人で、門脇の主石へ向かう。

 道すがら、ルカは言葉を探していた。

 ずっと、呑んできたことだ。決戦の勝利にも、名誉回復の祝いにも、水を差したくなかった。だから、言い出せなかった。

 でも、と思う。

 二人で、選んで残ると決めた場所だ。その場所に巣くうものを隠したまま、この人の隣に立ち続けることは、したくない。

 主石の前で膝をつき、掌をかざした。


「姫様。視てほしいものがあるんだけど」

「視てほしい……? 私にですか?」

「うん。正確には、僕にしか視えないものなんだけどね。それを言葉で伝えたくて」


 自分の〝視〟をこの人に言葉で開くのは、初めてのことだった。


「実は……ずっと、黙ってたことがある」


 石の芯へ意識を沈めながら、切り出した。


「勝った後でも、空気が悪くなるかなって思うと言い出せなかったんだ。でも、ここに残るって二人で決めたからには、ちゃんと伝えておいた方がいいと思ってさ」


 ルカは、順に話した。

 まず、この主石のいちばん奥。編み直した式の下に、黒い染みが消えずに残っていること。決戦の前、あれを光の膜で内側へ封じ込めた。けれど、祓えてはいないこと。禊祷の祈りはそこまで届かなかったこと。

 それから、決戦の、あの核。


「あれを断ったとき……聞こえたのは、獣の断末魔じゃなかったんだ」

「獣では、なかった……?」


 イリアの眉が、寄る。


「では、何だったのですか?」

「人の……笑い声に、聞こえた」

「えっ。人、ですか!?」


 姫騎士の声が、跳ねた。

 当然だ。あの雪原に群れていたのは、獣ばかり。人など、どこにもいなかった。


「うん。粘つくみたいな、嫌な笑い方だった。核を断ったその手応えの奥から、聞こえたんだ」


 ルカは、掌の下の黒い脈を見つめた。


「だから、思ったんだよね。あの核は、たぶん手駒のひとつに過ぎないんだって。この染みを植えて、あの群れを差し向けた〝手〟は、まだどこかで動いてる」


 そして。

 いちばん言いにくいことを、口にした。


「それに、イリア様。……この染みと、姫様の鎖も」


 掌を、そっと彼女のほうへ向ける。


「視える色が、同じなんだよ。たぶん、同じ〝手〟が絡んでる。……いや、編んでる、っていうべきかな」


 しん、とあたりが静まった。

 あの夜、ルカは言った。これは災難なんかじゃない、ずっと続いている、はっきりとした悪意だ、と。

 その悪意の輪郭が、今、名指しされた。この地への呪いと、彼女の身を縛る鎖は、同じひとつの手から来ている。


「……そう、でしたか」


 イリアは、青ざめていた。

 だが、目を逸らさなかった。しばらく染みのほうをじっと見つめてから、ふぅ、と息を吐いた。

 その吐息は、恐れよりも別の色を帯びていた。


「ルカは……ずっと独りで抱えていたんですね」

「え」

「まったく。どうしてもっと早く相談してくれなかったんですか?」


 咎める口調ではなかった。むしろ、労わるような、そんな響きだ。その中に、もちろん微かな呆れも含まれていたが。ルカは答えた。


「いや、不安にさせちゃ悪いかなって思ってさ。確証を得てから言うつもりだったんだけど……何となく、それまで待ってる方が危ない気がしてきて」

「教えてくださって、ありがとうございます」


 イリアは、まっすぐにルカを見た。少し、叱るような目つきだ。


「でも、今度からそういう躊躇はしないで、なんでも話してください。ひとりで背負ってほしくないんです。危ないことでも、気分が滅入ることでも、知ってときたいですから」

「うん、ごめん。今度から気をつける」


 素直に、頷いた。

 すると、姫騎士は表情を緩めた。


「それにしても……顔も名前も視えない敵、ですか」


 そして、あろうことか、その唇に不敵な笑みを浮かべてみせた。


「いいじゃないですか。やってやりましょう」

「姫様?」



 思わぬ言葉に、ルカは目を丸くした。


「だって、今度は初めから二人なんですから。私たちが二人揃えば、何も恐れるものはありません。呪いなんて、へっちゃらです。でしょ?」


 イリアは腰の神剣に手を添えて、得意げに言ってみせる。

 その笑顔は、無理をしている風には見えなかった。

 打ち明けても、棘が消えたわけではない。むしろ、その輪郭はさっきより濃くなったくらいだ。

 なのに、肩がふしぎと軽くなった。

 分かち持つというのは、きっとこういうことなのだろう。


「……だね」


 ルカも、笑みを零した。


「僕らなら、へっちゃらだ」


 そう返したときだった。

 イリアが、北の空へ目を留めた。

 その表情は、みるみるうちに怪訝なものになっていく。


「ルカ。あれ……」


 その視線を追って、ルカも顔を上げる。

 北。冬を越えた山並みの、彼方。

 空に、鳥の群れが見えた。


「ワタリドリの群れかな。ん? でも……おかしいな」


 渡りの季節だ。空を渡る鳥の列は、めずらしくもない。……はずだった。


「ずっと、同じところで回ってる」


 その一群だけが、南へ渡ろうとしていなかった。

 同じ場所で、渦を巻いている。黒く、密で、遠目にも数が多かった。ぐるり、ぐるりと、山の上に澱のようにわだかまっている。

 イリアの顔が、怪訝なものから神妙なものに変わった。


「ルカ。何か感じますか?」

「……今のところは、何も」


 答えながら、ルカは風に意識を向けた。

 実際に、あの黒く嫌な感覚はない。

 と、思った矢先だった。

 風の中に、指先が微かなものを拾う。

 あの粘ついた核の残り滓から、うっすらと立ち上っていたあの気配と同じ質の、嫌な臭いだ。

 ほんの、一掠め。掴もうとした時には、もう消えていた。気のせいだと言い切れる、それくらいの淡さだ。


「気のせいだと……いいんだけどね」


 ルカは、そう漏らした。


「本当に、そう思ってますか?」


 イリアが問い返してくる。

 彼女も、何かを感じ取っているのだ。黒の鎖を持つ彼女だからこそ、似たようなものを肌で感じたのかもしれない。


「……いや。希望的観測かな」


 正直に、答えた。

 気のせいであってほしい。何もない。ただ、鳥の気分が乗らないだけだ。そういうことに、してほしかった。

 でも──祈祷師としての直感が、それを否定する。

 イリアが、もう一度溜め息を吐いた。それから、腰の柄に添えた手を握り直す。


「まったく……本当に休ませてくれませんね。この場所は」


 呆れたように言って、姫騎士はその鳥の群れを眺めた。

 ルカも、同じものをじっと見つめる。

 点は、まだ線にならない。染み、鎖、笑い声。そして、北の渦。

 ばらばらのそれが、いつか一本に繋がるとき。そのとき、あの〝手〟はきっと、またこちらへ伸びてくる。

 そんな気がしてならなかった。

 でも、今はまだ。淡い、予兆程度のもの。


「何が起こっても大丈夫さ。僕ら二人が一緒なら」


 ルカは、自分に言い聞かせるように、そう呟いた。

 イリアも頷く。


「ええ。私たちが一緒なら、怖いものなんてありませんから」


 お互いにそう言い聞かせつつも、二人の目は鳥の群れの一点を見据えたままだった。

 その静けさを、破ったのは──。


「ルカ様、姫様ぁ!」


 砦のほうから、執事のヨナスの声が響いてきた。

 普段よりもだいぶ声を張っている。

 随分探させてしまったのかもしれない。


「お食事が冷めますぞーッ! 早く来てくださいませ!」


 北の空の重さが、その一声でふっと和らいだ。

 ルカとイリアは、ふと顔を見合わせる。笑いは、どちらからともなく零れた。

 もう一度だけ、北の渦へ目をやってから。二人は揃って、踵を返す。


「ふふっ……ですって。では、参りましょうか。私だけの祈祷師様?」


 イリアがいつもの調子で、悪戯っぽくこちらを覗き込んでくる。


「……その呼び方は心臓に悪いって、何度言えばわかってくれるの?」

「いいじゃないですか。ほら、いきますよっ」


 言うなり、イリアはルカの手を取った。


「わっ、ちょ……姫様!?」


 焦るルカを、意にも介さず。彼女の白い手が、ルカの手をそっと包み込んだ。そして、二人の手のひらは、自然と重ね合わされていく。

 手を繋いだまま、二人で砦のほうへ歩き出した。

 少しだけ弾んだその歩幅に、引かれるように。ルカも、足を踏み出していく。

 追放された祈祷師は、辺境の姫騎士様に拾われた。

 ……いや。

 拾われたのは、はじまりに過ぎない。

 そこから苦難を乗り越え、二人で選び合って、この朝の中に立っていた。捨てられた者と、捨てられかけた者が、互いを選んで、この辺境の地に。

 祈りは、ひとりでは遠くまで届かない。

 けれど──この人の隣でなら。

 軒先で、雪解けの雫がひとつ、光って落ちた。

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