表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/32

第27話 雪解けの音

 次の使者が来たのは、それから数日後のことだった。


「街道に、騎馬! 王都の……使いのようです!」


 物見の声に、砦はまた一瞬、張り詰めた。あの勅使の記憶は、まだ新しい。門の内で、兵たちの目が鋭くなる。

 だが、今度の一行は何もかもが違っていた。

 数は、わずか数騎。装飾も、護衛の隊列もない。そして、先頭の使者は門前で自ら馬を降りた。

 深く一礼して、徒歩で門をくぐる。


「王命により、参上いたしました。……第三王女イリア様に、お取り次ぎを願いたい」


 その物腰に、居丈高なものは欠片もなかった。

 中庭に、イリアが出る。ルカも、ガングも、その傍らに並んだ。

 使者は勅書を捧げ持つと、あらためて深く頭を垂れてから、読み上げた。


「第三王女イリア様に、陛下より勅にございます。此度の、遠征以来の武功、ならびに辺境守護の功、まことに大なるものと認む。よって、殿下の御名にかけられたる、いわれなき〝呪われ〟の汚名を──公式に、雪ぐものとする」


 中庭が、ざわりと揺れた。

 汚名を、雪ぐ。

 呪われ姫。錆姫。この人が生まれてこのかた背負わされてきた、あの蔑称が。今、王の名において公式に消えた。


「あわせて。王太子の廃嫡に伴い、王女殿下の継承の位置づけを、あらためて詮議いたしたく——継承の儀の詮議のため、王都への御帰還を。陛下は、そう、望んでおられます」


 帰還。その単語に、ルカの胸が小さく跳ねた。

 使者は勅書を巻き納めると、懐からもう一通、小さな封書を取り出した。


「それと……これは、勅とは別に」


 両手で、恭しくイリアへ差し出す。


「陛下より直々に、王女様へ、と」

「……父上、から?」


 イリアの声が、掠れた。

 封を、ゆっくりと切る。白い指が、ほんのわずか震えていた。

 便箋は、一枚きりのようだった。

 彼女の目が、短い文面をなぞる。一度。二度。三度。

 それから。

 イリアはその文を、胸に押し当てた。

 目を伏せ、何も言わない。長い、長い沈黙だった。

 ルカには、その横顔から何も読み取れなかった。喜びなのか、積年の恨みなのか。その両方が、いっぺんに押し寄せているのか。十数年ぶんの父と娘のあいだにあるものは、隣に立つだけのルカには届かない深さにあった。

 ただ、睫毛が濡れて光っているのだけは、見えた気がする。

 やがてイリアは顔を上げ、使者へ王女の顔で告げた。


「……勅、確かに、承りました。御返事は、書面にて。数日、砦に逗留を」

「はっ」


 使者が下がり、中庭にざわめきが戻ってくる。姫様の汚名が雪がれた、と。兵たちの声は、明るい。

 その明るさの中で、ルカだけが、うまく笑えずにいた。


(……よかった。本当に、よかったんだ)


 心から、そう思う。この人の汚名が消えた。武功が認められた。父からの、文まで届いた。

 なのに。

 そのすぐ後ろから、冷たいものが音もなく、胸の底へ落ちてくる。

 王都への、帰還。

 名誉も。王女の座も。父も。この人が奪われてきたものの何もかもが、あの南の街道の先で、この人を待っている。

 あの夜、この人は言った。隣にいてくれますよね、と。あのとき自分は、選んで残ると答えた。

 白い息を、ひとつ、呑み込んだ。


(今度は僕が『行かないで』って? いや……さすがにそれは)


 言えるはずが、なかった。この人の幸せを数えたら、答えは、どう数えても王都にある。辺境になど、あるはずがなかった。

 その夜のことだ。

 人払いをした執務室で、ルカはいつものようにイリアの傍らに膝をついていた。

 蝋燭が一本。窓の外は、雪ではなく、静かな夜の闇。氷柱の溶けた雫が時折、軒を叩く音だけが遠く聞こえる。

 鎖に、禊祷を通していく。

 残りの鎖はまだ、幾重にも彼女を縛っている。締めつけを緩める、いつもの手当て。指先の下で、彼女の肩が今夜は少しだけ硬かった。

 昼の勅の話に、二人とも触れられずにいた。

 祈りの音のない音だけが、部屋を満たしている。沈黙が、いつもより重い。

 先に口を開いたのは、ルカだった。


「……イリア様は」


 声が、思ったより掠れた。


「戻るべきだと、思う」


 手当ての手を止めずに、目も合わせずに、言った。そうでもしないと、言えなかった。


「名誉も、戻ったんだ。継承の話まで、来てる。それに……お父上が、待ってるんだ。全部、向こうにはあるんだよ。イリア様が、ずっと奪われてきたものが」

「ルカ」

「全部、取り戻せるんだ。本来、いるべきだった場所に……戻れるんだよ。だから──」


 だから、行くべきだ。

 その一言が、どうしても形にならなかった。喉の奥で、つかえて崩れる。

 正しいことを、言っているはずだった。この人の幸せを思うなら、これしかない。わかっている。わかっているのに。

 膝の上の拳が、震えていた。

 行ってほしくない。

 その本音が、正しさの薄皮の下で、みっともないほど暴れていた。いつかの夜、狼狽しながら「失いたくない」とこぼした、この人と。今の自分は、同じだった。


「……ルカったら」


 イリアの声が、静かにそれを遮った。


「もう、決めていますよ」

「え?」


 ルカは、顔を上げた。

 蝋燭の灯りの中で、碧い瞳がまっすぐに、こちらを見ていた。もう、昼間の読めない横顔ではなかった。凪いだ、澄んだ目だった。


「名誉のことは、嬉しく思います。本当に、嬉しいです。……父上の文も」


 彼女は、ふっと目を細めた。

「『息災か』と。……たった、その一言だけだったんですよ? あんなに、待たせておいて。ひどくありません?」


 困ったように、笑う。その笑みの端が、かすかに震えていた。


「不器用な人なんです。昔から。でも……それが、嬉しかったんです。悔しいくらい、嬉しくて。私、バカですよね」

「……そんなこと」

「でも」


 イリアは、居住まいを正した。


「私が守ると誓ったのは……王都の玉座ではありません。この地の民です。私の剣は、いえ、あなたとの剣は、そのために在ります。それは、汚名が雪がれても、継承の話が来ても……何ひとつ変わりません。それに──」


 一語、一語、確かめるように言って。

 そこで彼女は、少しだけ言葉を切った。

 頬に、灯りのせいだけではない朱が差していく。


「あなたが、言ってくれたじゃないですか。……拾ってもらったから残るんじゃない、ここがいいから残るんだ、って」


 この前に、ルカが彼女に伝えた言葉だった。


「あの言葉に、私がどれだけ……」


 言いかけて、彼女は小さく首を振った。それから、あらためて言い直した。


「私も同じです。いえ……私にも、選ばせてください」


 彼女の手が、膝の上でそっと拳を作る。


「戻れるように、なりました。名誉も、座も、父も。……戻ろうと思えば、戻れます。だからこそ、こう言えるんです。これは、行き場がないからここにいるのではない、と。〝呪われ姫〟だから辺境に押し込められているのではない、と」


 碧い瞳が、揺れることなくルカを映していた。


「私は私の意思で、選びます。この場所を……あなたの、隣を」


 蝋燭の芯が、じじ、と小さく鳴った。

 上手く、言葉が出てこない。何を言えばいいのか、わからなかった。

 胸の底に沈んでいた、あの冷たいものが。ゆっくりと、ゆっくりと、溶けていく。


「本当に……いい、の?」


 ようやく出た声は、情けないほど小さかった。


「全部……向こうに、あるのに。あなたの安全も、幸せも」

「全部ではありません」


 イリアは、きっぱりと言って。


「いちばん失いたくないものが……ここに、ありますから」


 ふわりと笑い、小首を傾げた。

 いつもの隊長の顔でも、王女の顔でもない。そこにあったのは、年相応の、ひとりの少女の笑顔だった。


「それとも……私なんかが隣にいると、迷惑ですか? 私の祈祷師様は」

「そんなことない! そんなこと、あるわけないじゃないか……いてほしいに、決まってる」


 言ってから、自分の即答ぶりが恥ずかしくなって、ルカは慌てて俯いた。


「ずっと、いてほしい。……行くべきだ、なんて言ったくせに、ごめん。本当は、こんなこと言いたくなかった」

「知っています」


 イリアが、くすくす笑って言った。


「手が、震えていましたから」

「……見てたの?」

「ずっと、見ていました」


 顔が、熱かった。蝋燭のせいには、もうできそうにない。

 返書の文面は、その夜のうちに二人で決めた。

 継承の詮議を、辞退はしない。ただ、こうとだけ返す


『辺境守護の任、いまだ半ばにあるゆえ、この地を、動かず』


 務めの形で、帰還を断る。王女として、礼を尽くした断り方だ。

 書き上げた返書に封を落とすイリアの横顔には、迷いはなかった。


        *


 翌朝は、みごとに晴れた。

 返書を託された使者の一行が、南の街道へ発っていく。

 門の外まで、ルカとイリアはそれを見送りに出た。数騎の背中が、雪の緩んだ街道を小さくなっていく。

 あの日、傲然と乗り込んできた勅使の行列とも。礼を尽くして訪れた、この使者の来訪とも、違う。今度は、辺境から王都へ。この地で選ばれた答えが、南へ運ばれていく。

 姫様の汚名が、雪がれた。もう誰にも、〝呪われ姫〟とは呼ばせない。

 砦の中は、祝いの気配で満ちていた。

 兵たちの声は弾み、報せを聞きつけた近隣の村人たちが、朝から祝いの品を抱えて坂を上ってきた。干し肉だの、蜂蜜酒だの、木彫りの守り札だの。グラッテ村の老人が先頭で、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑っていた。


「姫様! 祈祷師様! めでたい、めでたいのう!!」

「ありがとうございます。……はい、ありがとうございます」


 イリアが、ひとりひとりの手を取って応えている。

 その喧噪の縁で、ルカはふと空を仰いだ。

 冬じゅう鉛色に塞がっていた空が、今日は高く、青い。

 隣に戻ってきたイリアが、南の街道の果てを眺めながら、ぽつりと言った。


「継承の話は……きっと、これで終わりではありません」


 その声は静かだったが、もう怖れてはいなかった。


「詮議は、いずれ形を変えて、また来るでしょう。王都との縁も、切れたわけでもありません。父上のことも……いつかはちゃんと向き合わなくては」

「うん」


 ルカは頷いた。


「それでも──」

「私たちは、ここで」


 見つめ合ってから、同時にこう言った。


「「生きていく」」


 見事に言葉が重なって、どちらからともなく噴き出した。

 ルカは小さく溜め息を吐くと、何となしに空を見上げる。


「これからも、きっと色々あるけどさ」


 まだ終わっていないものなら、いくらでも数えられる。王都との縁も。この人の身に残る、鎖も。

 それでも。


「頑張って、乗り越えていこう。僕らなら、できるさ」

「……はい」


 イリアが、頷いた。

 それから、少しだけ悪戯っぽく目を細めて。


「私だけの、祈祷師様」

「ッ……だ、だから! その呼び方は、心臓に悪いんだって!!」

「ふふっ。それも、知っています」


 相変わらず、姫騎士様は楽しそうに笑っていて。嬉しそうで。こうしてルカをからかっている時の姫は、本当に幸せそうだ。

 そんな時だった。

 軒先で、ぴちょんと音が響いた。

 氷柱の先から、雫がひとつ落ちた。ぴちょん、ぴちょん、とそれは続く。砦のあちこちで、冬のあいだ凍りついていたものが緩み、溶けて、滴りはじめていた。

 居場所は、拾われてできるものではない。

 選ぶものだ。

 自分がそうしたように。この人も、今日それを選んだ。

 ルカは目を閉じて、その音に耳を傾けていた。

 長い長い冬が終わりを告げる、雪解けの音を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ