第26話 後始末と余波
軒先の氷柱が、日ごとに短くなっていた。
冬の峠を、砦は越えつつある。中庭の雪は端から嵩を減らし、踏み固められた道には、ところどころ、黒い土が顔を覗かせはじめていた。
ルカは、その朝も、結界石の検分を終えたところだった。
門脇の主石に掌をかざし、式の脈を確かめる。石から石へ渡る光の糸は、今日もほつれていない。もう、目を閉じていても編み目の位置がわかるほど、この網はルカの手に馴染んでいた。
「祈祷師様、今日もご苦労さんです」
「うん。おはようございます」
通りかかった兵と、当たり前に朝の挨拶を交わす。振り向けば、井戸端では非番の兵が湯気の立つ椀を囲み、厩の前では若い兵が馬の毛を梳いてやっている。
いつもの、砦の朝だった。
その、いつもの中に、自分の居場所が、根を張っている。
異変は、昼前に来た。
「王都から、早馬ーッ!」
物見の声に、砦がざわめいた。
ルカの胸が、ひやりとする。王都、という響きには、まだ体が身構えてしまう。あの勅使の一件から、ひと月と経っていないのだ。
だが、駆け込んできた早馬の使いは、荒々しい詰問状ではなく、一通の報せを携えていた。
広間に、手の空いた者たちが集められる。イリアの傍らで、あの若い文官が書状を開き、読み上げはじめた。
「王都、詮議の顛末について——」
広間が、静まり返る。
「北方遠征の壊滅、ならびに辺境召還の経緯につき、国王陛下御前にて詮議これあり。正しき警告を退けたる非、勝ち目なき遠征を強行したる責、辺境の救援要請を拒みたる咎……そのすべてが、公に、認められたるものなり」
文官の声が、わずかに震えた。読み上げている当人が、信じかねているような声だった。
「——右の次第により、王太子ランド=アンセルム殿下は、王太子の位を、剥奪。詮議の場にて、正式に宣せられました!」
一拍の、沈黙。
それから、広間が、どっと沸いた。
「……はっ! ざまあねえな」
真っ先に声を上げたのは、ガングだった。腕を組んだまま、喉の奥で嗤う。
「てめえで蒔いた種だ。当然の報いよ」
「聞いたか、おい! あの王太子が、廃嫡だとよ!」
「祈祷師様、聞きましたか! あの王太子が……!!」
若い兵が、興奮に頬を上気させて、ルカの肩を掴まんばかりに詰め寄ってくる。
「うん。……聞いたよ」
ルカは、頷いた。
救援を拒まれた冬を、この人たちは体で越えてきた。あの返書の冷たさも、勅使の傲慢も、みんなこの広間で呑み込んできた。その怒りが今、報いという形で返ってきたのだ。沸くのは、当たり前だった。
敢えて、水を差す必要はない。ただ、自分の胸の内は、不思議なほど静かだった。
自分を嗤った人。白を剥ぎ、この辺境へ捨てた人。その人が、同じように、満座の前で紋章を剥がれた。
(ざまあみろ、って。……思えたら、楽だったのかな)
湧いてくるのを、待ってみた。快哉でも、溜飲でも。
だが、それらが湧いてくることはなかった。
あるのはただ、長く引き摺ってきた荷を、ようやく降ろしたような。乾いた、区切りの感慨だけだ。
(……終わったんだな)
感じたことは、それだけだった。
あの人は、と、ふと思う。あの人は最後まで、いったい何と戦っていたんだろう? ルカでも、辺境でもない、もっと別の——自分の中の、何ものかと戦っていたのではないだろうか。
その問いに、答えは出ない。出す必要も、もうなかった。
ふと、傍らのイリアを見た。
彼女は沸き立つ広間の中で、独り、静かに立っていた。
喜んでいるふう……には見えない。憐れんでいるふうでも、なかった。従兄の転落を、身内のそれとして受け止める、複雑な静けさ。碧い瞳が、書状の一点をじっと見つめていた。
(姫様……)
ルカは、敢えて声をかけなかった。その横顔には、他人が踏み込めない時間が、流れているように見えたから。
報せには、続きがあった。
喧噪が少し落ち着いたところで、文官が書状の残りへ目を戻す。
「なお、祈祷庁長官は……詮議において、責を免れた由。査定は聖杯の数字を読み上げたのみ、決断はすべて殿下の御名にて、との弁が通ったそうにございます」
「ちっ。狸野郎め。逃げやがったか」
ガングが、露骨に舌を打つ。
文官は咳払いをしてから、続けた。
「それと……聖騎士団長は、進退伺いを出したとも、陛下に慰留されたとも。……こちらは、噂の域を出ませぬ」
そこで、彼は一度、言い淀んだ。ちらりと、ルカのほうを見る。
「なお……祈祷庁は、ルカ様の祈祷術を聖杯にて解析し、庁の技として再現する、と。そのように、公言しておるそうです」
「はっ?」
広間が一瞬きょとんとして、それから失笑が広がった。
「解析だと? やれるもんなら、やってみやがれってんだ!」
ガングが、鼻で嗤って、ルカの背を叩く。
「なあ、ルカの旦那? ガハハ!」
「そ、そうだね」
合わせて笑ってはみたが、頬がうまく動かなかった。
笑えなかったのだ。
(解析、ね……まだそんなことをするつもりなのか)
聖杯。あの、冷たい水鏡。三年間、ルカの祈りを測っては、無能と数え続けた器。
あの人たちは、それと同じ器で、今度はこの祈りを解き明かすという。
(……まだ、数字でやろうと思ってるんだ)
祈りは器に映るものではない。誰かのための誓いに、届くものだ。針を振らせるためのものじゃなく、誰かの背中を守るためのもの。
それを、何年も何年も学べなかった人たちが。まだ、数字の中に、答えを探している。
不気味さよりも先に、深い徒労の匂いがした。砂の山から、そこにない宝石を掘り出そうとしている人たちを、遠くから眺めているような。
ただ──その徒労の果てに、あの人たちが何を掴み損ね、何を掴もうとするのか。それだけが、うっすらと胸の隅に冷たかった。
(いつかまた、王都と関わる日が、来るのかもしれないな……)
その予感をそっと畳んで、しまい込んだ。
今日のこの報せは、区切りの報せだ。棘の一本くらい、あとで抜けばいい。
「……すっきりしましたか?」
気付けば、イリアが隣に来ていた。
困ったような笑みを浮かべて、小首を傾げている。
「まあ、少しはね。姫様は?」
敢えて、訊いてみた。
「私ですか? 私は──」
すると、姫騎士は胸をぐっと張って答えてみせた。
「もう、大満足です! ざまぁみろ、ですねっ。ねえ、皆さん?」
満面の笑みでそう言ってみせると、場がどっと沸いた。
「おう!」
「そうだそうだ!」
「ざまぁねえぜ、くそどもが!」
姫の呼応に応えるように、ガングをはじめとした兵士たちが沸き立つ。
それから、彼女はルカの方を向いて、先ほどと同じく困り顔で微笑みかけてくるのだった。
彼女が本心からそう言ったのではないことは、すぐにわかる。
でも、彼女は第三王女であり、この辺境砦の隊長。その場の士気や空気というものが大事だというのも、わかっているのだ。
だとすれば、ルカのやることも自ずと決まってくる。
大きく息を吸って──。
「うおおおお! 僕をパンツ一丁にして辱めた罰だああああ! 三年間ずっとバカにして無視していないもの扱いしやがってええええ! 僕にだけ便所掃除させてええええ! ざまあ見ろぉぉぉぉぉ!」
おもいっきり、叫んでやった。
先ほどと同じく一緒になって皆も盛り上がってくれると思っていた。しかし……。
「え、ええ?」
「祈祷師様、そんなことをされていたのか……」
「なんてひどい奴らなんだ……」
「つらかったなぁ、ルカ様。元気出せよ?」
なんだか、逆に同情されてしまった。
なぜだ。なぜなんだ。
「あ、あの……ルカ。そういうのはあまり生々しく言うと、引かれてしまうので」
イリアが、こっそりと耳打ちして教えてくれた。
どうやら、祈祷師の自分には他人を鼓舞するというのは、難しいらしい。




