第24話 因果、王都に還る(王太子視点)
夜が明けても、部屋の壁が内へ迫ってくる心地は、消えなかった。
止まらぬ歌。冷たい宰相の背中。祈祷師どもの、過去を塗り替えた証言。四方の音が、ランド=アンセルムの周りで、静かに輪を狭めている。
そこへ、一つの報せが届いた。
「殿下。……祈祷庁長官が、参上いたしました」
「なに」
ランドは杯を置いて、顔を上げた。
来たか。
この数日、体調が優れぬだのと理由をつけ、屋敷に籠もったきりだった、あの男が。
(遅い。まあ……来たならいいか)
久方ぶりに、安堵らしきものが胸を撫でた。
あの揉み手の男。共にあの無能を嗤い、共に追放の筋書きを描いた相棒だ。祈祷庁の綻びを繕う知恵を、必ず携えて来たに違いない。少なくとも、この責を分かち合う相手ではある。
あの雲隠れも、道中の気疲れか、老いの臆病か。そんなところだろう。胸の隅に残っていた小さな引っかかりを、ランドはそう言い聞かせて塗り潰した。
「通せ」
やがて、扉が開いた。
入ってきた長官は、いつもの腰の低い男のはずだった。
「殿下」
だが、その一礼は、どこか違っていた。
揉み手がない。追従の笑みもない。ただ型どおりに、深く頭を下げるだけ。臣下が主君へ向ける、非の打ちどころのない、他人行儀な礼だった。
ランドはその違和を、まだ深く読まなかった。読みたく、なかったのだ。
「長官。待ちかねたぞ」
声に、縋るような響きが混じった。抑えられない。
「祈祷庁の連中が、世迷言を並べておる。あの追放者の神託が正しかっただの、退けたのは俺の判断だっただの……全部、貴様が黙らせろ。庁を束ねる者の、務めであろう」
長官は、しばし沈黙した。
そして、顔を上げると、おもむろに口を開いた。
「……殿下。恐れながら、申し上げます」
その声は、低く、落ち着いていた。
「あの祈祷師の才を、私は、早うから危ぶんでおったのです。聖杯の数字だけで無能と断ずるは、いささか危ういのではないか、と。……内心、そう、諫めてもおりました」
一瞬、ランドは言葉の意味を掴み損ねた。
「……何を、言っておる」
「ゆえに、私は。今となっては、心を痛めておるのでございます。あのような才を、みすみす手放してしもうたことを」
じわり、と背に冷たいものが走った。
この男は、今、何を言っている。
諫めていた、だと? 危ぶんでいた、だと?
「ふざけるな!」
ランドは立ち上がった。
「貴様が言うのか! あの男を、聖杯の前で『最低ランク』と読み上げ無能と査定したのは、貴様だろうが! 追放を誰より熱心に後押ししたのも、貴様だ!!」
あの大聖堂の光景が、まざまざと甦る。列の後ろで、揉み手をしながら追放を囃し立てた、この男の顔が。
だが、長官の表情は動かなかった。
「私は」
ゆっくりと、区切るように言う。
「聖杯の示した査定を、そのまま読み上げたに、過ぎませぬ。数字がそう出た。ゆえに、そう申し上げた。それだけのこと」
「なっ……!?」
「追放をご決断なされたのは、殿下。遠征を、お決めになったのも、殿下。召還の使者を、お放ちになったのも……すべて、殿下の、御英断にございましょう」
ランドの頭が、かっと熱くなった。
「連れ戻せと入れ知恵したのは、貴様だろうが!!」
この男が、青ざめた顔で身を寄せてきた。あの者の力を取り戻せば、辺境の勝利も王家の誉れに書き換えられる、と。まさに、この男が。
長官は、片眉すら動かさなかった。
「はて。私がそのような進言を?」
そして、口の端をわずかに歪める。
「証文でも残っておりましたかな?」
息が、詰まった。
そんなものはない。あの入れ知恵は、二人きりの口約束だ。紙に残る査定の記録は、長官の言うとおり「聖杯の数字を読み上げた」だけ。だが、遠征を決めた勅も、使者を放った命も、すべてランドの名で、記録に残っている。
残っているのは、ランドの決断ばかりだ。
この男は、それを知っている。知った上で、口約束の共犯を綺麗に、煙の中へ消してみせたのだ。
「貴様……ッ」
ランドは拳を握り締めた。
裏切り者。不忠者。二人で嗤った仲だろうが。二人で、あの無能を捨てたのだろうが。それを、今さら。
だが、その罵りは喉の奥でぐるぐると渦を巻くばかりで。
なぜこの男が今になって降りるのか。その理由にだけは、ランドの思考はどうしても届かなかった。
「……ですが、殿下」
長官が、声の調子をすっと変えた。
突き放すだけの声から、餌でも差し出すような、粘つく声へ。
「祈祷師を、連れ戻せなんだこと。それは、確かに痛手でございます。されど、祈祷庁にはまだ別の道が残されておりまする」
「別の、道だと?」
「聖杯による、解析にございます」
長官の目が、ぬらりと光った。
「あの者本人が戻らずとも、よいのです。あの者の祈祷術……その術式を聖杯にかけて解き明かし、祈祷庁の技として再現いたす。さすれば、辺境の力とて、いずれは王家の管理下へ取り戻せましょう」
この男の腹が、透けて見える気がした。
(……こいつ。俺を失態の中へ置き去りにして。自分だけ、次の手柄に、乗り換える気か)
ルカを共に捨てた相棒は、今や、その捨てたルカの力を独りで掌中に収めようとしている。ランドが沈むのを踏み台にして。
憎悪が、腹の底で煮え立った。
しかし、その煮え立つ憎悪の隅で、別の声が疼くのを封じきれない。
(だが、その解析がもし成れば。或いは、俺も……その功に、乗れるのでは?)
沈む船の上で、それでも藁を数えている。
梯子を外した当の相手が垂らした、細い糸に。
「案じられますな、殿下」
長官は深々と頭を下げた。今度は、追従の礼ではない。もう、ランドを見てすらいない礼だった。
「あの程度の術、数式に落とせぬ道理がございましょうか。祈祷庁の、威信にかけて」
誓いに応える祈り。聖杯の数字では、ついに一度も測れなかった、あの力を。
数式に落とせる、とこの男は信じている。数字で無能と断じたその聖杯で、今度は解き明かせる、と。
しかし、そのちぐはぐさに気付くだけの余裕は、今のランドにはなかった。
*
長官が退がって、幾日もしないうちに。
今度は宰相が、再び私室を訪れた。
白い髭の老人は、もう憂慮を伝えに来たという顔をしていない。手にした書面へ目を落としたまま、事務的な声で告げた。
「殿下。近く、詮議の場が設けられることと相成りました」
「詮議……?」
「此度の遠征、ならびに、辺境召還の経緯につき。殿下ご自身のお言葉で、明らかにしていただきます」
ランドの背筋が、すっと冷えた。
「詮議、だと? この俺が。次代の王たるこの俺が、裁かれる側だと、申すのか?」
「さようとは、申しておりませぬ」
宰相は、顔も上げずに言う。
「……ただ、諸侯も陛下も、事の次第をお知りになりたいのです。それだけのこと」
それだけのこと、という言葉ほど、恐ろしいものはなかった。
諸侯。あの、敗戦の日に自分を憐れみ、嘲笑した貴族どもだ。今や彼らは、辺境を逆賊と断じようとした自分の言葉を、逆に王太子の失態として受け取っている。救援を拒んだ記録。真の神託という噂。それらの前で、ランドの主張は、弁明の値打ちすら失いつつあった。
「諸侯まで……この俺を、見限るというのか」
「見限る、などと。ただ、経緯の説明を、求めておられるだけにございます」
婉曲な言葉の下で、その実、宰相はもう詮議という名の追及の舞台をランドの頭越しに組み上げている。
ランドには、それがなぜかはわからなかった。諸侯が離れる理由が。王太子が明白に誤り、しかもそれを認めぬからだという、ただそれだけの理由が。
そして、それから間もなくして、王の名による正式な召喚が、下った。
勅使が恭しく、その勅を読み上げる。
「王太子ランド=アンセルム殿下。三日の後、国王陛下の御前にて。此度の遠征、ならびに辺境召還の経緯を詮議に付す。御準備を、との仰せにございます」
陛下の、御前にて。
その響きが、ランドの胸を氷の刃で貫いた。
伯父上が。とうとう、ご自身で。
これまで、姿を見せぬ影として憂慮という名で迫るばかりだった伯父が。ついに、勅という逃れようのない形を取って、こちらへ手を伸ばしてきた。
甥として。次代の王として。最も見られたくない姿を。よりにもよって、伯父の前に晒すことになる。
その召喚の場には、聖騎士団長も御前へ同道せよとの沙汰が添えられていた。あの森で兵の半ばを失い、それでも口を噤み続けている男が、詮議の場に立ち会う。
だが──ここでも、ランドは逃げた。
(……いや。まだだ)
卓の縁を、震える指で掴む。
(詮議の場で、こそ。真実を、訴えればよいのだ)
長官の裏切りを。辺境の反逆を。あの祈祷師の、妖しげな術を。伯父の前で、洗いざらいぶちまければいい。
自分は嵌められた被害者なのだ、と。共犯者に売られ、田舎砦に牙を剥かれ、妖術使いに呪われた、哀れな王太子なのだと。
(伯父上、なら。……きっと、分かってくださる)
この期に及んで、まだ勝算を数えている。
その数字が、とうにゼロを割っていることに、ランドは気付いていなかった。




