第23話 手ぶらの使者と止まらぬ噂(王太子視点)
王宮の私室で、ランド=アンセルムは窓の外を睨んでいた。
北の街道は、今日も雪に霞んでいる。
(……遅い)
使者を放って、もう幾日になる。指を折って数えるたび、苛立ちばかりが募っていた。
だが、成功を疑う気持ちは微塵もない。
脳裏には、もうその先の絵図が描き上がっていた。
あの祈祷師を連れ戻す。辺境の勝利は、王家が育て、送り出した祈祷師の功として、書き換えられるのだ。神剣を目覚めさせた力は、次代の王たる自分の手の内に収まる。諸侯のざわめきも、民の嘲りも、あの泥に沈んだ紋章旗の汚辱も、そこですべて、雪がれるだろう。
なにしろ、こちらは恩赦までくれてやったのだ。
罪を赦し、手を差し伸べてやる。追放された無能にとって、これほどの誉れがあるものか。飼い主が呼んでやれば、犬は尾を振って戻る。それ以外の筋書きなど、この世のどこにもあるはずがなかった。
(あの祈祷師さえ、この手に戻れば。……諸侯も、民も、また私を見上げる。何もかもが、元へ戻る)
卓の杯を取り、ひと口、呷った。
「使者は、まだ着かぬのか」
控えの従者へ、振り向きもせずに問う。
「は……まだ、報せは」
「ふん。辺境の雪道だ、手間取っておるのだろう」
鷹揚に構えて見せながら、ランドは口の端だけで笑った。
待つのは、勝利の報せだ。ならば、多少遅れたところでどうということはない。
そして、その報せは翌日の夕刻に届いた。
勅使の帰還。ランドは謁見の間へ急ぎ、玉座に次ぐ席へ、堂々と腰を据えた。さあ、連れて来い。あの無能の、平伏した姿を見せてみろ。
だが──扉をくぐった勅使は、独りだった。
隣に、祈祷師の姿がない。後ろにも、いなかった。従者の列のどこにも、あの男の顔がない。
それどころか、勅使そのものが、見る影もなかった。出立の日にはあれほど誇らしげだった装束が、今は薄汚れ、着ている当人はうなだれている。
「……どういうことだ」
ランドの声が、低くなった。
「祈祷師は、どうした」
勅使が、その場に膝をつく。額を床にすりつけんばかりに、頭を垂れた。
「も、申し上げます。祈祷師ルカは……召還を、拒みましてございます」
「……何、だと?」
言葉の意味が、すぐには、頭に入ってこなかった。
拒んだ。恩赦を。王家の召還を。あの、行き場もなく捨てられた無能が。
「辺境は、王命に牙を剥きました」
勅使が、言い募る。その声は、保身の色に上ずっていた。
「あの祈祷師を渡さぬと、砦の者ども、ことごとく壁となって立ち塞がり……剣を抜けば、こちらの首が飛ぶところで、ございました」
「反逆だ……!!」
ランドは、肘掛けを殴りつけて立ち上がった。
「あの田舎砦が! 王家に、弓引くというのか!!」
怒声が、謁見の間に響き渡る。居並ぶ側近たちが、一斉に首を竦めた。
無能の分際で。恩赦を、くれてやったというのに。あの薄汚い辺境ごときが、次代の王の手を、払い除けたというのか。
煮え立つ腹の底へ、勅使が、さらに油を注いだ。
「それに……その、恐れながら」
言いにくそうに、声を落とす。
「第三王女殿下が……此度の召還は、陛下の御意思にあらず、殿下の……その、私命である、と。皆の前で、公言なさいまして」
「……私命、だと?」
「は、はい。さらには、その……救援を断った際の、返書を。記録として、突きつけられ……こちらには、返す言葉も、なく」
かっ、と頭に血が昇った。
「あの錆姫がぁ……ッ!!」
ランドは、歯を剥いた。
呪われ姫の分際で。王家に捨てられた身の分際で。よりにもよって、王太子の命を、私命呼ばわり。
(拾った追放者風情に、たぶらかされおって……! 二人して、王家を愚弄する気か!!)
あの姫が、自分の頭でそんな口を利けるはずがない。あの祈祷師だ。あの陰気な男が、姫に妖しげな知恵を吹き込んでいるに違いない。
「兵を出せ」
気づけば、そう口走っていた。
「辺境を討つ。反逆者どもに、王家の力を思い知らせて……」
「殿下」
静かな声が、それを遮った。
部屋の隅に控えていた、聖騎士団長だった。
「兵を、と仰いますが」
団長は、感情の読めない顔のまま、事実だけを、そこへ置いた。
「森で失うた聖騎士は、戻りませぬ。残る兵は、王都の守りで手一杯。今、辺境へ差し向けられる兵は、ございません」
「……ぐ、ぬっ」
ランドは、言葉に詰まった。
そうだ。兵は、ない。あの森で、半分を失った。
誰のせいで、とは考えない。考えられなかった。そこへ思考が進みかけるたび、頭のどこかが、ぱたりと蓋を閉める。
団長は、なおも口を開きかけて。だが、結局、何も言わずに目を伏せた。
ランドは、荒い息のまま席へ沈み込んだ。
起死回生の一手のはずだった。あの祈祷師さえ連れ戻せば、すべてが元に戻るはずだったのだ。
その一手が、手ぶらで帰ってきた。最悪だ。
※
それからの数日は、ランドにとって、責め苦の連続だった。
王都が、辺境の武勇伝で満ちていく。
数千の魔物の大群を、わずかな守備隊で退けた辺境の砦。白銀の翼を広げる神剣。それを振るう、美しき姫騎士。そして、その剣を目覚めさせたという、祈りの者。
噂は、市場から酒場へ、酒場から屋敷へ、屋敷から城内へと、際限なく染み渡っていった。
廊下を歩けば、下女が鼻歌をこぼしている。
「♪……錆びし剣に、白銀の、翼ぁ……」
「やめよ!」
ランドは、足を止めて怒鳴りつけた。
「その歌を、二度と私の前で口にするな!」
「ひっ……も、申し訳、ございませんっ」
下女は、青ざめて逃げていった。
だが、歌は消えない。
夜会に出れば、貴族どもが、聞こえよがしに辺境の話に花を咲かせる。守り神の姫君は、それはお美しいらしい。祈りの者は、聖杯に映らぬ力の持ち主だとか。いやはや、王都は惜しい者たちを手放したものだ。
窓を開ければ、街から歌が昇ってくる。吟遊詩人の爪弾く弦に乗って、あの名が、繰り返し、繰り返し。
「祈りし者の名は、ルカ……」
無能と数え、要らぬと捨てた、あの名が。
王都の空を、我が物顔で、飛び回っている。
自分が敗軍の将として浴びた、あの侮蔑と。あの二人が浴びている、この称賛と。それが同じ王都で、同じ空の下で、同時に鳴っていた。
「触れを出せ」
ランドは、従者に命じた。
「あの下賤な歌を、王都から一掃しろ。歌う者は、捕らえよ」
従者は、困り果てた顔で、口ごもった。
「そ、それが……もはやあまりに広まっておりまして。今さら触れを出せば、却って……その、火に油を注ぐことになりかねぬかと」
「……役立たずめ!」
吐き捨てたが、従者を責めたところで、どうにもならないことは、ランド自身が一番わかっていた。
歌ひとつ、止められない。
噂ひとつ、消せない。
次代の王の権威とは、この程度のものだったのか。
(なぜだ。なぜ、俺が沈み、あの無能が、昇っていく!? 要らぬと、捨ててやったものが……!)
その問いを、何百度、腹の底で転がしても。
答えには、決して、辿り着かなかった。
そして、追い打ちは、足元からも来た。
その日、私室を訪れた宰相は、いつもと様子が違っていた。
白い髭の老人は、一礼こそしたものの、その所作は儀礼の型をなぞっただけで、目は、少しも笑っていない。冷ややかで、事務的で、厄介な帳簿でも検分しに来たかのような気配だった。
「殿下。此度の使者の件、諸侯の間でざわめきが広がっております」
「使者の失態だ。あの無能が、役目を果たせなんだ」
「陛下も」
宰相は、ランドの言い訳を、聞かなかったかのように続けた。
「此度の一件、いたく、ご憂慮でございます」
「なん、だと……!」
陛下。
その一語が、冷たい重石になって、ランドの胸へ沈んだ。
伯父上が、憂慮。この王太子を。次なる王を。
「辺境と事を構えるは、今の王国に益はございませぬ。後始末は、こちらで進めております。殿下は、しばしお控えを」
「控えろ、だと!?」
ランドは、気色ばんだ。
「私は、次代の王だぞ。この一件も、私が自ら……宰相、貴様までが、私を軽んじる気か!!」
「……失礼いたします」
宰相はそれ以上何も言わなかった。
一礼し、ランドの言葉が終わるのも待たずに、背を向けて退がっていく。その背中の素っ気なさが、どんな諫言よりも、雄弁だった。
(何だ、何なのだ、あの態度は!)
ランドは、閉ざされた扉を、呆然と睨んだ。
(誰も彼も。俺少し躓いた途端、掌を返しおって。不忠者どもが!)
そう罵ってはみるものの、足の下の地面が音もなく滑り出している。その冷たい心地だけは、どう罵っても拭えなかった。
極めつけは、その夜の側近の報告だった。
「殿下。祈祷庁の者どもが、妙なことを、申しております」
「妙なこと、だと?」
「は。あの追放された祈祷師の神託は、正しかった、と。あの壊滅を、事前に言い当てていたのだ、と」
ランドは、杯を持つ手を止めた。
「大聖堂におった祈祷師の多くが、口を揃えておるとか。自分は初めから、あの神託が只事ではないと見ておった。あれを嘲り、退けたのは、長官と……その、殿下の、御判断であった、と」
かちり、と杯が卓を鳴らした。
嗤っていたのは、あの者たちではないか。
聖杯の前で、列の後ろで、揃いも揃ってあの男を無能と囃し立てて。それが今になって初めから見抜いていたなどと、過去をぬけぬけと塗り替えて。剰え、責任をこちらに押し付けてくるとは。
「……何を、今さら」
ランドは、絞り出すように言った。
「あれは、まぐれだ。偶然に決まっておろう」
「ですが、殿下。街でも、噂が……あの祈祷師は、真の神託を告げたがゆえに追放された、と。それが、まことしやかに……」
「黙れ!」
卓を、殴りつけた。
真の神託。告げたがゆえに追放。その言い方では、そのように話が進めば、行き着く先は、ひとつしかない。壊滅の因は、警告を退けた者にある、と。
(この俺にある、と……!)
喉の奥が、ひやりと冷えた。
だから、ランドはいつものように、跳んだ。その結論の一歩手前で、別の説明へと飛びついた。
「いや。違う。そうではない」
そうだ。見えてきたぞ。
「あれは……呪いだ」
口にした途端、その言葉が、ぴたりと嵌った気がした。
「あの男が、我らの遠征を呪ったのだ。去り際に、敗北の神託などと縁起でもない言葉を吐き、我らに呪いをかけた。だから、負けた。……そうだ。そうに、決まっている!」
側近が、当惑げに目を泳がせる。だが、ランドは、もう聞いていなかった。
(そうだ。俺は悪くない。悪いのは、呪いをかけたあの祈祷師。王家をたぶらかす、あの妖術使いだ)
ふと、思い出した。
「……そういえば、長官はどうした。祈祷庁の不始末、当の長官が申し開きに来んのは、どういう了見だ」
「は……それが。此のところ、体調が優れぬと申され、屋敷に籠もったきりに……」
「ふん。使えぬ男よ」
鼻を鳴らしはしたが、胸の隅に、小さな引っかかりが残った。あの、揉み手ばかりの男が、この局面で顔を見せぬとは。
だが、それを深く辿るより先に、憎悪が、思考を塗り潰していった。
そして、その夜半。
ランドは、独り私室にいた。
杯は、もう何杯目か、わからない。酔いは、少しも回ってこなかった。
耳の奥で、四方の音が鳴っている。
止まらぬ歌。消えぬ噂。祈祷師どもの証言。宰相の、冷たい背中。そして、姿を見せぬまま迫ってくる、伯父上の憂慮。
それらが、じわりじわりと、この部屋の壁を内へ押してくる気がした。
……わかっている。
本当は、どこかで、わかっているのだ。
あの神託は、まぐれではなかった。あの男を追放しなければ、遠征は勝っていた。あの姫を捨てなければ、神剣は王都で目覚めていた。すべての始まりは、自分にある、と……。
(認めてしまえば、楽になれる、だと?)
ランドは杯を握り締めた。
(ふざけるな!)
認めれば、どうなる。この失墜のすべてが、自分の判断の誤りから始まったと、認めることになるではないか。次代の王が、無能と嗤って捨てた男に、頭を下げることになる。それは、ランド=アンセルムという人間の、全否定だ。
だから、認めることだけは、絶対にできない──。
その代わりに、ランドは物語を塗り重ねる。
辺境は、反逆した。あの祈祷師は、王家を呪う妖術使いだ。姫は、たぶらかされた。王太子は、嵌められた。ランド=アンセルムとは、被害者なのである。
そうだ。それでいい。それなら、自分は悪くない。
窓の外から、また、あの歌が昇ってきた。
「祈りし者の名は、ルカ……」
「……黙れ!」
ランドは、立ち上がり、窓を、力任せに閉ざした。
「黙れ、黙れっ!!」
だが、歌は止まらなかった。
閉ざした硝子の向こうで、旋律はなおも高く澄んで昇っていく。
ランドは、独り歯噛みした。
まだ、挽回できる。辺境の増長も。失った威信も。伯父上の不興も。何もかも、必ずこの手に取り返してみせる。そう信じて疑わなかった。
だが、その足元が、もう崩れ始めていることに。
四方から迫るあの声が、己の首を静かに絞め始めていることに。
ランドだけが、まだ気づいていなかった。




