第20話 凪と、予兆
決戦から、幾日かが過ぎた。
昼の砦には、いつもの慌ただしさが戻っている。ただ同じ日常のはずなのに、そこを流れる空気だけは、以前と質を変えていた。
中庭を横切りながら、ルカはその違いを数えた。
見張りの数が、半分で回っている。非番の兵は井戸端で車座になり、他愛のない軽口を叩き合っていた。医務室から絶えず漏れていた呻きも、ずいぶん数を減らしている。取り戻した結界の網は昼の陽の下でも淡く脈を打ち、砦をぐるりと包んでいた。
すれ違った兵が、ルカに気づいて会釈する。
「祈祷師様」
その響きから、いつぞやの様子見の棘はもう抜け落ちている。ただの挨拶として、そう呼ばれるようになった。それだけのことが、こそばゆい。
薪を運んでいた若い兵が、足を止めてルカのそばへ寄ってきた。
「祈祷師様。昨日、久しぶりにぐっすり寝ちまって。……いやぁ、結界のお陰っすね。あんなに安心して眠れたの、いつ以来か」
照れ隠しに首の後ろを掻いて、そう言う。
別の兵は薪を割る手を止めると、水を張った椀をルカへ差し出した。
「ほら、祈祷師様。喉、渇いてんだろ。飲みな」
「あ……ありがとうございます」
受け取った椀には、井戸の底の冷たさが残っていた。ひと口飲んで、白い息を吐く。
王都にいた頃、誰かに水を勧められた覚えなど一度もなかった。無能に分けてやる水はない。誰もがそういう顔をしていた。でも、ここでは誰もそんな顔をしない。
白い息が、あちこちで立ちのぼっている。凍てた昼には違いないのに、この中庭はどこか温い。人の声が途切れずに行き交っているからだろう。
こんなやり取りが、いつの間にか当たり前になっていた。少し前までは、思い描くことさえできなかったのに。
日の当たる石段に腰を下ろして椀を傾けていると、隣へどしりと重みが加わった。
ガングだった。
言葉を交わすでもなく、ただ隣に腰を据える。あの決戦の朝、初めて名を呼ばれたときから、この男との間合いはこんなふうになっていた。
しばらく無言で日を浴びてから、ガングがぼそりと口を開く。
「祈祷師。……いや」
言いかけて、言い直した。
「ルカ。肩の傷、まだ引かねえ。あとで、頼めるか」
「うん、いいよ。……ガングさんが自分から頼んでくるの、初めてだね」
少し意外に思って返すと、ガングは決まり悪げに鼻を鳴らした。
「ふん。祈りなんてものに借りを作るのは、性に合わん。だが、お前の祈りはどうやら凄いらしいからな」
「王都では無能扱いだったけどね」
肩を竦め、自嘲的に言った。
嘘はない。実際に、無能だからこそ追放されたのだ。
副長はもう一度鼻を鳴らした。
「そのときのことを、俺は知らねえ。だが、ここに来てからのお前は、結果しか出してないだろ」
「姫様のお陰だよ」
「その姫様の力を引き出してるのもお前だろうが」
「そんなことないって。だって、ただ祈ってるだけだし」
ぶっきらぼうな断定に、ルカは苦笑して肩を竦めた。
三年間、聖杯の列の最後尾で嗤われ続けた自分だ。近づけば無能が伝染るとでもいうように、誰もが半歩ずつ後ずさっていった。隣に座る者など、ひとりもいなかった。
それが、今はどうだろう。
こうして無骨な古参兵が当たり前の顔で隣に腰を下ろし、頼み事のひとつも寄越してくる。
(……くすぐったいな)
胸の内で零した。誇らしいと呼ぶには、まだ面映ゆさのほうが勝つ。それでも、悪くない温もりだった。
その日の午後、ルカはガングの肩の傷に禊祷を施した。ついでに、まだ床を離れられずにいる兵たちのもとも回る。砕けた骨や欠けた肉までは、ルカの祈りではどうにもならない。それでも、傷に巣くう悪いものを祓い、痛みを宥めることならできた。
ひととおり手当てを終えると、ルカは結界石を検分して回る。
これは、もう日課だった。
門脇の主石の前へ膝をつき、掌をかざす。編み直した式は、今日も正しく脈を巡らせている。石から石へと渡る光の糸もほつれてはいない。網は、砦をきちんと覆っていた。
だが──石の芯の、いちばん奥。
あの黒い染みだけは、消えていなかった。
日の光の下で覗き込んでも、それは微かに脈打っている。どくどくと、心の臓さながらに。淡い光の膜で内側へ封じ込めはした。けれど、祓えてはいない。禊祷の祈りはそこまで届かなかった。もっと深いところに、その黒は根を張っている。
ふと、自分の口にした言葉が甦った。
『これは、災難なんかじゃない。ずっと続いている、はっきりとした悪意だ』
あの夜、蝋燭の下でイリアにそう告げた。
決戦では、群れを束ねていた核を断った。あの黒く脈打つものは、この目で見届けたとおり、確かに両断したはずだ。それなのに、この染みは残ったまま、今も脈を刻んでいる。
核は、手駒のひとつに過ぎなかったのだ。
この染みを植え、あの鎖を編んだ手は、まだどこかで動いている。
核を断ったとき、あの断末魔が獣の咆哮ではなかったこと。粘つくような、人の笑い声に似た響きだったこと。それを覚えているのは、ルカだけだ。砕けた核の残り滓には、あの気配の残り香がいまだうっすらと漂っている。
背筋を、冷たいものが撫でた。
このことは、まだ誰にも言っていない。ガングにも、イリアにも。決戦を制した砦の高揚へ、わざわざ水を差すのが憚られたからだ。だが、いつまでも黙ってはいられないだろう。この石が、脈打つのをやめない限りは。
勝った。民も守った。砦には、こうして穏やかな昼が戻っている。
それでも、終わってはいない。
その確信だけが、取り戻した平穏の底に冷たく沈んでいた。
*
夜が更けると、砦はしんと寝静まる。
人払いをしたイリアの執務室。灯りは、蝋燭が一本きり。その頼りない炎の下で、ルカは彼女の傍らに膝をついていた。
夜ごとの、手当ての刻限だ。
窓の外では、音もなく雪が降っている。硝子越しの闇に、白い粒だけがちらちらと湧いては消えた。
手をかざし、祈りを通していく。彼女の身に巻きついた黒い鎖へ、禊祷をそっと染み込ませた。
二本、鎖は砕けている。だが、残りはまだ幾重にも、その魂を縛ったままだ。ルカにできるのは、締めつけをわずかに緩めてやること。鎖そのものを断つ祈りは、そう易々とは通らない。日々のこれはあくまで痛みを和らげるための、ささやかな手当てだった。
祈りが鎖の一本に触れると、イリアの指先が膝の上でぴくりと跳ねた。眉ひとつ動かさない。その代わり、握った拳が白くなった。痛みを堪える、彼女の癖だ。ルカは祈りの通しを加減した。
手をかざすたび、指先が彼女の肩へ触れそうになる。ふわりと、あの花に似た匂いが鼻を掠めた。
この近さには、いまだに慣れない。決戦を経て、二人のあいだに流れる空気は、以前とほんの少しだけ色を変えていた。
(……『私だけの』って。意識しちゃうよなぁ)
雪原で彼女が口にした呼び方が、まだ耳の奥に残っている。思い出すたび、頬の裏が熱を持った。本当に、心臓に悪い。
祈りを通していると、イリアがふと口を開いた。
「あの技を……〈王翼斬〉を振るえたのは、ルカがいてくれたからです」
それは、感謝を述べるというより、ひとつの事実を確かめる口ぶりだった。
ルカは答えた。
「僕は、ただ祈っただけだよ」
「その祈りがあったから、今もここは無事なんです」
「それは……そうだけど」
気まずくなって、目を逸らした。
なんだか、その実感がないのだ。
やっていることも、祈祷のやり方も、王都にいた頃と何も変わっていない。だけど、結果だけが変わっていた。
これでは、自信を持って自分のお陰だとは到底言えなかった。
そんなルカの思考を、読み取ったのだろう。姫騎士はすぐに言葉を付け加えた。
「それに、ここの結界だって、直してくれたのはルカじゃないですか。民が逃げる場所を用意してくれたのもルカ、私を戦えるようにしてくれたのもルカ……全部、ルカのお陰なんです」
「ほめ過ぎだって」
「そんなことありません。事実を述べたまでですよっ」
声を弾ませ、まるで自分ごとのように喜ぶ。
それから、イリアはふいに口を噤んだ。
物言いたげに、じっとこちらを窺っていた。不安そうな、それでいて縋るような色を、瞳の底に浮かべて。
睫毛を伏せたかと思うと、彼女が確認するように、弱々しく訊いてきた。
「すっと、隣にいてくれますよね? これからも……この場所で」
ルカが答えを返そうとした、そのときだった。
イリアの指が、ルカの祈りの手のすぐ傍で止まっていた。触れそうで、触れない。その距離のまま──二人はしばらく、蝋燭の炎だけを黙って見ていた。
芯が、じじ、と鳴る。
揺れる火の色が、二人の頬をほのかに照らしていた。
やがて、手当てが一段落する。
ルカが立ち上がり、「じゃあ、今夜はこれで」と執務室を辞そうとした矢先だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてくる。
返事を待つ間もなく、扉が開いた。転がり込んできたのは、若い文官だった。王都からのあの冷たい返書を届けてきたのも、この男だ。肩で息をしている。
「ひ、姫様!」
「ちょっと! ご祈祷中ですよ!? せめて、ノックくらいはしてください!」
さすがにイリアも咎めた。
祈祷中でなくとも、万が一着替え中の時もあるかもしれない。少々、礼儀がなさすぎだ。
文官は頭を下げた。
「申し訳ありません! ですが、王都から……早馬が。勅使が、こちらへ向かっていると」
「勅使が?」
イリアが眉を寄せる。
「はい。それも……祈祷師ルカ様の、召還だと」
「な……ッ」
イリアの喉が、ひとつ鳴った。
その表情が一段、硬くなる。決戦を前にしたときですら見せなかった種類の強張りだった。
召還。その二文字が、ルカの中でうまく形を結ばない。
三年ものあいだ無能と嗤い、白いローブを剥ぎ、雪の中へ捨てた王都が。今さら、自分に戻ってこいという。
理解が追いつくより先に、胸へ来たのは怒りでも喜びでもなかった。ただ、違和感だけが腹の底へひやりと落ちる。
(何で、今なんだ?)
三年、要らぬと言い続けた相手を、こうして今になって呼び戻す。虫が良すぎる。歓迎のために伸ばされた手でないことだけは、確かだった。
イリアが、硬い声でルカの名を呼んだ。
「ルカ……」
その先は、続かなかった。
彼女の唇が、開きかけては閉じる。
答えを出すより前の、張り詰めたもの。それが彼女の顔に、剥き出しのまま滲んでいた。




