第19話 王都での噂(王太子視点)
白馬の蹄が、王都の石畳を力なく叩く。
王太子ランド=アンセルムは、鞍上で背を丸めていた。伸ばそうと思うのに、どうしても背筋が伸びない。
凱旋のはずだった。
あの日、北へ向けて城門をくぐったとき、隊列は壮麗そのものだった。磨き上げた鎧。翻る紋章旗。沿道を埋めた民は雪の中に膝をつき、次代の王の勇姿を目に焼きつけようと首を伸ばしていた。
それが、どうだ。
帰ってきた聖騎士団は、その半ばを失っていた。傷つき、うなだれ、ぼろぼろの隊列を引きずっている。先頭に掲げた紋章旗は、間に合わせの新調品だ。本物の旗は、あの泥濘の森に置いてきた。だからか、この旗は少しも誇らしく見えない。
そして、今日の沿道の民は、膝をつかなかった。
遠巻きに道の端へ寄り、囁き交わしている。ランドと目が合うと、気まずげに、すいと顔を背けた。歓呼は、どこにもない。あるのは、沈黙と、憐れみと、それに混じった、うっすらとした嘲りだけだった。
「あれが……次代の、王様だってのか?」
「ああ。魔物に負けて、おめおめと逃げ帰ってきたってよ……」
「先行きに不安しかねえよなぁ」
「おい、やめろ。聞こえたら処刑されるぞ」
囁きは風に乗って、はっきりとランドの耳へ届いた。
(……なぜだ)
こめかみが、ずきりと疼く。
(なぜ、誰も跪かぬ。俺は、戦ってきたのだぞ。次代の王が、身を挺して……!)
民は、自分を称えるべきだった。労うべきである。なのに、この目は何だ。この囁きは、何だ。腹の底で、どろりとした憤りが渦を巻く。
ふと、腰の儀礼剣に目が落ちた。
あの朝、「夕には、魔物の血で濡らしてやる」と、誇らしげに佩いた剣。その刃は今も、抜き身にすれば、出立の日と変わらず白いままだろう。ついに、ただの一度も血を吸うことのなかった刃。
見るに堪えず、それから目を逸らす。
王宮に戻るなり、ランドは重臣会議の間へ召し出された。
凱旋を報告する場のはずが、敗戦を弁明する場になっていた。次代の王が、初陣で敗軍の将として、居並ぶ老臣たちの前に立たされる。これほどの屈辱があるだろうか。
上座に連なる目は、どれも冷え切っていた。
「殿下」
口火を切ったのは宰相だった。白い髭を蓄えた、老獪な男だ。
「此度の遠征、諸侯へ次代の王の武を示すのが、そもそもの狙いであったはず。……ところが、蓋を開けてみれば、この有様。諸侯は今や、口を揃えて囁いておりますぞ。次代の王が、魔物如きに膝を屈した、と」
言葉の一つ一つが、鑢のようにランドの面目を削っていく。
「示威が、醜聞になった。……この政の損失、いかにして、雪がれるおつもりか」
追い詰められて、ランドは、あの言葉に縋った。森で叫び、長官が同調してくれた、あの言い訳に。
「……あれは、あの祈祷師の、呪いだ」
「祈祷師、と?」
「そ、そうだ! 追放したあの無能の祈祷師が、去り際に敗北の神託などと縁起でもない言葉を残しおった。あの呪いが、我らの士気を──」
「殿下」
宰相の声が低く、ランドの言葉を断ち切った。
「祈祷師の呪いごときで、我らが聖騎士団が、壊滅するとでも? 数値も出ぬと切り捨て殿下ご自身が追放を命じた男に、そこまでの力があったと、今さら仰せか」
ぐ、と喉が詰まった。
森では、長官が「左様でございます」と口裏を合わせてくれた。だが、この場に、そんな追従者はいない。老臣たちの冷めた目が、無言のまま、次代の王の器を値踏みしていた。
「……言い訳は、もう結構でございます」
宰相が、静かにそう締めくくった。
逃げ場が、また一つ塞がれた。
*
その報せが王都を駆け抜けたのは、ランドが帰還して幾日も経たぬうちだった。
北方辺境が、魔物の大群を退けた、という一報。
いや、〝大群〟などという生易しいものではない。谷を埋め尽くす、数千とも知れぬ群れ。それを、砦のわずかな守備隊が迎え撃ち、退けたのだという。しかも、その戦の要にいたのは、あの姫だった。
(……あの、〝呪われ姫〟が、だと!?)
第三王女イリア。呪いに蝕まれ、辺境へ追いやられた、あの〝呪われ姫〟。その手の中で錆びていたはずの神剣が、白銀の翼を広げ、大群を面で薙ぎ払ったのだと。
ランドが浴びた侮蔑と寸分違わぬ王都で。今、その姫の名が、称賛とともに飛び交っていた。
「聞きましたか。辺境の、姫君の話を」
夜会の席で、貴族の一人が、ランドに聞こえよがしに言った。
「〝呪われ姫〟だなど、とんだ言いがかりだったのですな。街ではもう、〝辺境の守り神〟と、もっぱらの噂で」
守り神。
王都が二重に捨てた娘。その蔑称が、一夜にして、聖なる呼び名へと塗り替えられている。
そして、ランドを最も苛んだのは、その勝利の傍らに、必ず、もう一つの名が添えられていたことだった。
街角では、吟遊詩人が真新しい歌を爪弾きはじめていた。
「──錆びし剣に、白銀の翼。それを、呼び覚ましし、祈りの者。その名は、ルカ……」
その名前に、思わずランドの足が止まる。
(あの、無能が……!?)
次代の王ともあろう者が、廊下の隅で使用人の噂話に耳をそばだてて。宴席で、貴族の陰口を聞かぬふりで盗み聞く。そして、吟遊詩人が口ずさむ歌にあの男の名を聞きつけて、拳を握り込んでいる。それが、今の王太子ランドの姿だった。
(王都が捨てた祈祷師が、辺境で王家の神剣を目覚めさせた、だと~!?)
認めたくなかった。あの錆姫が。あの、聖杯に三年、針一つ動かせなかった無能が。
だが、王都中が、その二つの名を称えている。
(なぜだ。なぜ、俺が沈み、あいつらが認められる!? 要らぬと、捨ててやったものが……!)
その問いの答えは、すぐ目の前に転がっていた。自分が、あの祈祷師を見捨てたからだ。捨てさえしなければ、遠征は勝ち、姫は今も辺境で燻っていた。
だが、ランドの思考は、その一歩手前で、必ず跳ね返される。認めることになるからだ。だから、答えには決して辿り着かない。
残るのは、憎悪と、焦燥だけだった。
その夜、祈祷庁長官が、青ざめた顔でランドの私室を訪れた。
この男もまた、窮地にあった。遠征で「今日は吉」と告げた神託は、無残に外れている。祈祷庁の権威は揺らいでいた。
だが、長官にとって真に致命的なのは、別のことだった。
あのルカ=エルネストを「無能」と査定し、追放を後押ししたのが、他ならぬこの長官自身なのだ。その男が、辺境で王家の神剣を目覚めさせた今。祈祷庁は、王家の神剣を呼び覚ますほどの逸材を、無能と誤って断じ、みすみす辺境へ追放した、ということになる。祈祷庁の存在意義そのものが、問われかねなかった。
「殿下……あの祈祷師、ルカ=エルネストの力、断じて、放置してはなりませぬ」
長官は、揉み手をせんばかりに身を寄せてくる。
「あの者の力を、我ら祈祷庁の管理下に、取り戻すのです。さすれば、辺境の勝利も、〝祈祷庁が育て、送り出した祈祷師の功〟として、王家の誉れに、書き換えられましょう」
「……ほう?」
「ええ……なに、私は元より、あの者の才を、見込んでおったのです」
ランドは思わず鼻白んだ。
(白々しい男だ)
無能と嗤い、災いの口だと断じ、真っ先に追放を囃し立てたのは、この男ではなかったか。それを、今になって「見込んでいた」だと。過去を平然と、なかったことにする、その厚顔ぶり。
ふざけている男である。
長官は、さらに目を光らせて続けた。
「それに、殿下。あの祈祷師の力さえ、この手にあれば……聖杯にかけて、その術式を解析することもできましょう。祈祷庁の技として、再現さえできれば……」
誓いに応える祈りを、聖杯で測れる〝技術〟だと、この男は信じている。数値に映らぬからこそ、あの男を無能と断じたことすら、都合よく忘れて。
だが、ランドには、その滑稽さに気付かないことにした。見えているのは、ただ一点。あの男の力が王家のものになる、という餌だけだった。
長官が退がったあとも、ランドは独り、私室で杯を傾けていた。
連れ戻す──追放してやった無能を、今さら呼び戻す。虫のいい話だとは、頭のどこかでわかっていた。わかっていて尚、認められない。
(俺が間違っていた、だと……?)
その一言だけは、口が裂けても言えない。
認めた途端、この失墜のすべてが自分の判断の誤りだったと認めることになるからだ。それだけは、断じてできなかった。
だから、ランドは自分に嘘をついた。
(これは、過ちを認めるのでは、ない)
杯の酒を、呷る。
(元より、王国のものを取り戻すだけだ。あの祈祷師は、王国が抱えていた祈祷師。ならば、王国のもとへ戻すのが、道理。……そう、それだけのことだ)
ルカを、一人の人間としてではなく、王国の〝所有物〟として扱う。そうすれば、自分の追放が誤りだったなどと、直視せずに済むはずだ。
ふと、脳裏にあの光景が甦った。
泥濘に沈み、逃げ惑う兵の足に踏み躙られた、王太子の紋章旗。金糸の竜が泥に汚れていく、あの絵。夜ごと、それが瞼の裏に焼きついて離れない。
あの汚辱を、雪がねばならぬ。
そして、それを雪ぐただ一つの手立てが、よりにもよって、自分が最も見下した、あの無能の中にあるとは。
(……忌々しい)
その皮肉に、ランドは歯を噛み鳴らした。だが、その皮肉の本当の意味。自分があの男を追放したからこそ、この失墜のすべてが始まったのだという、その一点には、やはり辿り着かない。
ふと、部屋の隅に控える聖騎士団長へ、声を投げた。
「団長。貴様は、どう思う」
団長は、しばらく沈黙していた。それから、静かに口を開く。
「……一つ、申し上げても、よろしいか」
「言え」
「あの祈祷師が、真に、力ある者だというのなら。……一度は追放した我らが今さら連れ戻したところで、素直に従うとお思いですか?」
ランドは鼻で笑った。
「戻るとも。あれは、王国の所有物だ。飼い主が呼べば、犬は、尾を振って戻る」
団長は、なおも言いかけて。けれど、その言葉を喉の奥へと呑み込んだ。
ランドは、杯を卓に置いた。
長官の進言と汚辱を雪ぎたいという欲と、認めたくないというプライド。その三つが、腹の底で、歪な形に凝り固まっていく。
やがて、顔を上げた。
「……使者を、北方辺境へ、送れ」
声に迷いはなかった。これこそ起死回生の一手だと、信じて疑っていない。
「あの祈祷師を、連れ戻せ。ルカ=エルネスト。元は、王国の所有物だ。飼い主のもとへ、戻してやるまでのこと」
団長が、深々と頭を垂れた。
「はっ。……直ちに手配いたします」
王家の名において、召し還す。
ランドの中では、これは施しですらあった。追放してやった犬に、もう一度手を差し伸べてやる。恩赦のようなものだ。あれは喜んで尾を振り、戻ってくるだろう。そう、信じて疑わなかった。
ランドは、これですべてが元に戻ると信じているのだ。
辺境の勝利も。失った威信も。泥に沈んだ、あの旗の汚辱も。何もかもが、あの無能を連れ戻しさえすれば、自分の手の中へ返ってくるのだと。
だが、その確信がどれほど脆い足場の上に立っているのかを、この王太子はまだ知らない。
放とうとしているその使者が、辺境でどんな言葉とともに追い返されることになるのかも。何一つ、知らぬままに。




