第9話「ループの代償」
離宮に来て、28日目。
3日間、療養棟にこもって呪紋の術式構造を再解析していた。
「完治か告発か」——あの夜から、答えを探し続けた。
呪紋を解除すれば、エミル殿下は完治する。でも証拠が消える。
呪紋を残せば、証拠は保全できる。でもエミル殿下は苦しみ続ける。
どちらも選べない。
だから——第三の方法を探した。
術式の構造を一から読み直す。
外層から中層、中層から深層。
全ての回路を追って、一つの可能性に辿り着いた。
呪紋の「転写」。
エミル殿下の身体から呪紋を丸ごと引き剥がし、別の媒体——紫水晶に移す。
術式の上書きの応用だ。
2話でエミル殿下の外層を解除した時と原理は同じ。
ただし規模が桁違いに大きい。
深層まで含めた呪紋全体を一度に上書きし、移動先に再構成する。
成功すれば、エミル殿下の身体からは呪紋が消え——紫水晶の中に署名入りの証拠が残る。
完治と告発の両立。
できる。理論上は。
ただし。
「全魔力を一度に注ぎ込む必要がある」
自室の机で、計算結果を前に呟いた。
全魔力の放出。
それは——意識喪失から、最悪心停止に至る行為。
でも、それだけじゃない。
8周分のループの記憶。そして——前世の記憶。
日本で暮らしていた日々。大学の教室。友達と語り合った推しの話。『永遠のティアラ』を初めてプレイした夜。設定資料集のたった一行に心を撃ち抜かれた瞬間。
それら全ては、この世界の魔法体系では説明できない——魂に刻まれた超常的な情報。
魔力を完全に枯渇させた場合、その器が空になった時——超常的な情報は消失する。
前世の記憶も。8周分の記憶も。全部——消える。
エミル殿下の好きな花。
エミル殿下の好きな飲み物。
エミル殿下の好きな詩人。
エミル殿下が首を傾げて笑う癖。
設定資料集の一行に恋をした、あの日の気持ちも。
7周分の失敗。
8周分の痛み。
全部——消える?
紙の上の計算式が、滲んで見えた。
……怖い。
認めたくないけど、怖い。
最初に打ち明けたのは、クロードだった。
庭の端。湖から離れた木立の下。二人きり。
全てを話した。
転写の方法。必要な魔力。そして——記憶喪失の可能性。
クロードは最後まで黙って聞いていた。
そして——。
「ふざけんな」
即座に。
「お嬢、記憶を失うってことは、お嬢がお嬢じゃなくなるってことだろうが」
「……そうかもしれないですわ」
「“かもしれない”じゃねえ。8周分の記憶がお嬢を作ってんだ。それを全部捨てるなんて——」
クロードの拳が、横の木の幹に叩きつけられた。
鈍い音。
拳が震えている。
「俺は反対だ」
「でも、これが唯一の方法ですわ」
嘘の語尾ではない。本心でそう信じている。
クロードは私を見た。
いつもの皮肉な笑みが消えていた。
「……本当に、お嬢はいつも自分を後回しにする」
声が低くなった。
「それが——俺には、たまらなく辛いんだよ」
……クロード。
あなたの気持ちは、知っていた。
何周もの間、ずっと。
毎回ついてきてくれた理由も、皮肉の裏に隠された本音も。
でも私は——応えられなかった。
8周分、変わらなかった。
「ありがとう、クロード」
声が震えた。
「あなたは毎周回、私のそばにいてくれた。——でもこれは、私が選ぶことですわ」
クロードは目を伏せた。
長い沈黙。
「……わかってる。わかってるよ、お嬢」
声が掠れていた。
そのまま、クロードは木立の奥に歩いていった。
背中が見えなくなるまで、私は動けなかった。
次に——エミル殿下に伝えた。
ただし、記憶喪失の可能性は言わなかった。
言えなかった。
言えば、この人は絶対に止める。
「大きな魔力が必要で、しばらく寝込むかもしれませんわ」
それだけ伝えた。
エミル殿下が、じっと私を見た。
灰青の瞳。
静かで、深い目。
「ヴィオレッタ嬢、何か隠していないか?」
心臓が跳ねた。
「あなたが嘘をつく時、語尾が少し変わる。今は変わっていない」
——知っていた。
この人は、私の嘘の癖に気づいていた。
「でも——言っていないことがある顔をしている」
嘘はついていない。でも全てを言っていない。
語尾は変わらない。
でもこの人には、それ以外の部分が見えている。
数秒、沈黙した。
逃げることはできた。
「何もありませんわ」と言えば、語尾に「ね」はつかない。嘘じゃないから。
でも——。
この人の前で、隠し事をしたまま戦いに行くことが、耐えられなかった。
「……記憶を、失うかもしれませんわ」
言ってしまった。
エミル殿下の表情が凍った。
「記憶って……僕のことも?」
「全部ですわ。8回分の——あなたの好きな花も、好きな本も、好きな季節も。全部」
「そんなの——駄目だ。駄目に決まっている!」
エミル殿下が立ち上がった。
声が大きかった。
今までで一番大きな声。
「ヴィオレッタ嬢の記憶は——ヴィオレッタ嬢そのものじゃないか。それを失うなんて——」
「エミル殿下」
私は——エミル殿下の手を取った。
初めて、私の方から。
温かい手。
あの日、私が倒れた時に握ってくれた手。
「私は8回の人生で、一度も幸せになれなかった」
声が震えた。公爵令嬢の仮面は、もうどこにもなかった。
「でも——あなたが笑ってくれたこの1ヶ月が、8回分の全部よりも幸せだった」
エミル殿下の灰青の瞳が、揺れている。
「だから、この記憶を使って、あなたを自由にしたいの」
語尾が——素に戻った。
「〜ですわ」ではなく、「〜したいの」。
1話の馬車の中で、「どうでもいいの」と言った時と同じ。
本音が漏れる時の、私の口調。
エミル殿下の瞳から、涙がこぼれた。
「なら——僕が全部覚えておく」
震える声だった。
「君が忘れても、僕が全部覚えて、何度でも教えるよ。君が好きなものも、君が笑った日も」
その言葉を聞いた瞬間。
わかった。
この人は——推しじゃない。
推しなんかじゃなかった。
「推し活」という言葉で、ずっとごまかしていた。
前世で設定資料集の一行に惹かれた時から、8周分の時間をかけて見つめ続けた感情を、「ファン」とか「応援」とか、安全な言葉で包んでいた。
でも——もう、ごまかせない。
私は、この人を好きなんだ。
恋。
8周目にして——初めて自覚した。
最悪のタイミングで。
恋を自覚した瞬間に、その記憶を失うかもしれないなんて。
笑えない。全然笑えない。
でも——泣くわけにもいかない。
エミル殿下の手を、強く握った。
「……ありがとう、エミル殿下」
それだけ言った。
夜。
管理人が二通目の密書を持ってきた。
父の手紙。
『国王への謁見を手配した。アルベルトも協力する。呪紋の証拠提示は離宮ではなく王都で行う。3日後、王城にて。——父より』
3日後。
あと3日で——全てが決まる。
窓の外に、湖が見えた。
朝日が水面に反射して、眩しく輝いていた。
凪でもなく、波紋でもなく。
ただ——光。
覚悟を決めた時の光。
右耳のイヤリングに触れた。
母の形見。
もうすぐ、この石にエミル殿下の呪紋を移す。
紫水晶が——藍色に変わるかもしれない。
母の形見が、別のものになるかもしれない。
でも。
大切な人を守るために使うなら——お母様も許してくれると思う。
目を閉じた。
3日後。
8周目の人生の、最後の戦い。




