第10話「9周目はいらない」
離宮を発つ朝。
湖が朝靄に包まれていた。
1ヶ月前——追放されてここに来た朝と、同じ光景。
あの時は一人だった。
今は違う。
馬車の前に、エミル殿下、クロード、リゼットが立っている。
「準備はいい?」
エミル殿下が問いかけた。
灰青の瞳はまっすぐ前を向いている。
「ええ」
頷いた。
4人で馬車に乗り込む。
エミル殿下の体調は中層まで解除済みのため安定しているが、長時間の移動は負担になる。
リゼットが隣に座り、移動中も体力回復の治癒を行っていた。
馬車が走り出す。
離宮が遠ざかっていく。
1ヶ月。
たった1ヶ月で——全てが変わった。
半日後。
王都に入った。
王城の正門に、一人の男性が立っていた。
銀髪。痩せた頬。眼鏡。
父、オリヴィエ・クレティア。
馬車から降りた私を見て、父は「来たか」とだけ言った。
いつもの寡黙さ。
端的な言葉。
でも——その視線が、一瞬だけ私の右耳に止まった。
紫水晶のイヤリング。
母の形見。
父の目が、ほんの一瞬——細くなった。
あの顔。
8周目にして初めて見る表情。
言葉にはならない感情が、そこに見えた。
ずっと、見ていてくれたんだ。
「……行きましょう、お父様」
「ああ」
父が背を向けて歩き出す。
その背中を追いかけながら——1周目の自分が泣いていた場所を、通り過ぎた。
謁見の間。
広い。
大理石の床。高い天井。両脇に並ぶ貴族たち。
正面の玉座に、国王が座っていた。
老年の穏やかな顔立ちだが、目の光は鋭い。
右側にアルベルト。
軍服姿、腕は——組んでいなかった。両手を膝の上に置いている。
左側に、王妃マルグリット。
初めて——正面から見た。
金髪を高く結い上げ、完璧な装い。
扇で口元を隠して、微笑んでいる。
「まあ。追放された令嬢が王城に戻るとは。随分と大胆でございますこと」
穏やかな声。
でもその奥に——圧力がある。
4周目。
この人の居室に乗り込んだ時と、同じ微笑み。
あの時は負けた。
今回は——負けない。
アルベルトが立ち上がった。
「父上。第二王子エミルの病は呪いであり、その術者を特定する証拠がある。証人としてヴィオレッタ・クレティアに発言権を与えたい」
国王が頷いた。
私は一歩前に出た。
右耳のイヤリングに触れる。
紫水晶。
母の形見。
ゲームにはなかった設定。この世界だけの真実。
8周分の人生で、唯一変わらなかったもの。
今からこの石に——全てを託す。
「エミル殿下、お手を」
エミル殿下が前に出て、手首を差し出してくれた。
小さく頷きあう。
詠唱を始めた。
紫水晶が光り——エミル殿下の呪紋が、列席者全員の目の前に可視化された。
呪紋の深層に刻まれた「マルグリット・ルーヴェンス」の署名が浮かび上がる。
広間にどよめきが走る。
王妃の扇を持つ手が——一瞬だけ、止まった。
でも即座に立て直した。
「呪紋の偽造など、腕のある魔術師なら可能でしょう」
声は荒らげない。微笑みも崩さない。
アルベルトが証言した。
「母上。侍女頭のエレーヌが全て話した。17年前、エミルの誕生直後に母上が術式を行使したことを。——私は、母上の”作品”として王太子の座にいたのか」
声は震えていた。でも、目は逸らさなかった。
王妃の微笑みが——わずかに歪んだ。
「全てはアルベルト、あなたのためだったのよ」
初めて聞く、王妃の本音。
けれど宮廷言葉は崩れない。「でございます」のまま感情が滲む——その異様さ。
「エミルの魔力はあなたを脅かすものだった。母として、何がいけなかったの」
アルベルトが答えた。
「……私は、母の愛がほしかったのではない。母の呪いの上に立つ王座など——いらない」
国王が裁定を下した。
マルグリットの呪いは王族への害意として最重罪に該当するが、処刑ではなく——魔力封印と永久蟄居。
王妃は最後まで微笑を崩さなかった。
退場の間際、振り向いた。
エミル殿下を——見た。
エミル殿下は母の目を、真っ直ぐに見つめ返した。
静かに、一礼した。
王妃の扇を持つ手が——一度だけ、震えた。
それが、この人が見せた唯一の感情だった。
王妃が退場した。
つまり——呪いの維持が、止まった。
深層の呪紋が自然に弱体化し始めている。
今だ。
「エミル殿下。転写を行いますわ」
エミル殿下が頷いた。
「お願いするよ」
穏やかな声。
でも——その手が、小さく震えていた。
私の手を、握ってくれた。
「……必ず、戻ってきてね」
「ええ」
嘘の語尾は、つかなかった。
紫水晶のイヤリングを外し、右手に握った。
母の形見が、手のひらの中で冷たく光っている。
詠唱を始めた。
長い詠唱。
8周分の知識を全て注ぎ込んだ、一度きりの術式。
魔力が指先から紫水晶へ流れ込む。
紫水晶がエミル殿下の呪紋と共鳴し、術式が引き剥がされていく。
深層の呪紋が——ゆっくりと、エミル殿下の体から離れていく。
紫水晶に、吸い込まれていく。
体から光が溢れた。
視界が白くなっていく。
エミル。
あなたの好きな花は白百合。
好きな飲み物はカモミールティー。
好きな詩人はフェリクス・レーヴェ。
好きな季節は春。
首を傾げて笑う癖がある。
全部、覚えてる。
全部——忘れたくない。
前世で画面越しに見つけた、たった一行のあなた。
この世界で出会い直した、本物のあなた。
でも——。
魔力が、枯渇していく。
体が冷たくなる。
音が遠くなる。
最後に感じたのは——手を握ってくれている、温かい掌だった。
意識が、途切れた。
——。
——。
——。
……白い。
天井が、白い。
離宮じゃない。
見覚えのない場所。
……王城の、医務室?
目の前がぼやけている。
何人かの人影が見えた。
「ヴィオレッタ嬢……!」
声。
淡い金髪。灰青の瞳。
涙の痕。
……。
誰、だろう。
目の前の人が、私の名前を呼んでいる。
でも——。
「……あなたは、どなた?」
声が出た。
目の前の少年の顔が——凍った。
横で、黒髪の男が目を逸らした。
亜麻色の髪の少女が口元を押さえた。
沈黙。
少年の目に——涙が溜まっていく。
「僕は……エミルだよ。エミル・ルーヴェンス。君の——」
言いかけたその時。
私は——小さく、微笑んだ。
「——冗談ですわ」
全員が固まった。
「嘘です、エミル殿下。全部覚えていますわ。あなたの好きな花も、好きな本も」
エミル殿下の目が、信じられないくらい大きく見開かれた。
「だって語尾が変わったでしょう? 私、嘘をつく時は”ですわね”になるんですの。さっきの”どなた”には、つけなかったでしょう? ——あ、いや、今のは……あれ? 嘘なのに語尾変わってない……? 冗談は嘘と違うカテゴリー……?」
自分でも混乱してきた。
エミル殿下が——泣きながら、笑い出した。
「……最低だよ、ヴィオレッタ嬢。心臓が止まるかと思った」
「ごめんなさい、目が覚めた時にどうしても推しの泣き顔が見たくて——あ、“推し”じゃなくて——」
口が滑った。
「お嬢、最悪だぞ」
クロードが苦笑している。目が赤い。
「もう……!」
リゼットが泣き笑いしている。
……記憶は消えなかった。
全部残っている。
8周分の記憶。前世の記憶。
日本での日々も、『永遠のティアラ』をプレイした夜も、設定資料集に恋をしたあの瞬間も。
エミル殿下の好きな花。好きな本。好きな季節。
1周目の涙も、3周目の牢獄も、7周目の路地裏も。
全部、ここにある。
なぜ?
わからない。
でも——一つだけ、思い当たることがある。
過去の7周は、いつも一人で終わった。
一人で戦って、一人で死んだ。
今回は——誰かが「僕が全部覚えておく」と言ってくれた。
ループの理由はわからない。
この世界の魔法では説明できない力が、私を8回繰り返させた。
でも——もし、繰り返しに意味があったとしたら。
「一人で終わらないこと」を学ぶためだったのかもしれない。
右手を開いた。
紫水晶のイヤリングが——深い藍色に変わっていた。
呪紋が移ったのだ。
母の形見の紫が、エミル殿下の自由の色に変わった。
エミル殿下が、自分の手首を見た。
呪紋はない。
「……身体が軽い」
涙が、また溢れた。
「こんなに——呼吸って、楽なものだったんだね」
17年間。
この人が背負い続けた鎖が、消えた。
数日後。
全てが動いていた。
アルベルトが国王と共に王妃の蟄居を正式に執行した。
自らも王太子の責務を——今度は自分の意志で——果たすことを誓ったと、通信鏡で聞いた。
リゼットは宮廷に戻った。
でも「聖女」としてではなく、自分の意志で治癒師として生きる道を選んだ。
別れ際に「また来ますね」と笑った。翡翠の瞳は、もう揺れていなかった。
クロードは私の護衛を続けると言った。
「騎士団への復帰も考えてるけどな。……まあ、もう少しだけ」
皮肉な笑みの下に、穏やかな目があった。
この人は——自分の道を見つけるだろう。きっと。
父が、私に声をかけた。
「母さんのイヤリング、形が変わったな」
「ええ。でも大切なものですわ。——お母様の形見で、今はエミル殿下の自由の証ですから」
父が眼鏡を押し上げた。
「……そうか」
小さく、微笑んだ。
父の笑顔を見たのは——8周の人生で、初めてかもしれない。
離宮に戻った日。
湖畔を、エミル殿下と二人で歩いていた。
夕陽が湖面に落ちている。
風が穏やかで、白百合が岸辺に咲いていた。
「ヴィオレッタ嬢」
「はい」
「僕はずっと聞きたかったことがある」
エミル殿下が、立ち止まった。
灰青の瞳がこちらを見ている。
「僕は——“推し”のままでいいの?」
……え。
「いつ知ったんですの、その言葉」
「最初に会った日から——ずっと気になっていた言葉だよ。“ファン”より前に、一回だけ、ヴィオレッタ嬢の口から漏れた」
覚えていたのか。
2話の——あの時。
頬が、熱くなった。
推し。ファン。応援。推し活。
前世から使い続けた、安全な言葉たち。
画面越しの距離を保つための、オタクの防壁。
でも——もう、ごまかす必要はない。
深呼吸した。
「……“推し”は卒業ですわ」
エミル殿下の目が、少し見開かれた。
「あなたは——私の大切な人です。それじゃ、駄目でしょうか」
嘘の語尾は——つかなかった。
エミル殿下が、微笑んだ。
首を傾げて。
いつもの癖で。
「駄目なわけないよ」
手を、取ってくれた。
温かい手。
もう——氷のようには冷たくない。
湖面が穏やかに凪いでいた。
白百合が咲いている。
風が渡って——水面にわずかな光の筋が走った。
9周目は、いらない。
この1回が——私の人生だ。
右耳に戻した藍色のイヤリングが、夕陽を受けてきらりと光った。




