第8話「母の呪い、息子の鎖」
離宮に来て、25日目。
今日、呪紋の深層に到達した。
紫水晶のイヤリングに最大まで魔力を通す。
中層を越え、最も奥の——呪いの核心。
深層の術式は中層までとは次元が違った。
複雑で、緻密で、そして——名前があった。
術式の中核に、魔力で刻まれた署名。
呪いの制御権を維持するために、術者が自らの名を刻む構造。
光の線が文字を形成していく。
マルグリット・ルーヴェンス。
……やっぱり。
王妃だった。
4周目の仮説は正しかった。
あの時は証拠がなかった。
勘だけで乗り込んで、返り討ちにあった。
でも今回は——呪紋そのものが証拠だ。
紫水晶の光を消して、目を閉じた。
深呼吸する。
エミル殿下は治療椅子に座って、静かに私を見ていた。
「……ヴィオレッタ嬢。何かわかった?」
灰青の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
伝えなければならない。
推しに——この世界で最も残酷な真実を。
「エミル殿下」
声が震えないように、唇を引き結んだ。
「呪いの術者が判明しましたわ」
「うん」
「……王妃マルグリット殿下——あなたのお母様ですわ」
長い沈黙。
エミル殿下の表情が変わった。
驚き——ではなかった。もっと深い、何か。
「……そうか」
静かな声だった。
「母上、か」
涙は流さなかった。
代わりに、窓の外の湖を見つめていた。
「僕はずっと——母上が一度もお見舞いに来なかった理由が知りたかった」
ベッドの横の白百合の花瓶を、指先で撫でた。
「これが、答えだったんだね」
その横顔を見て、胸が痛んだ。
この人は、17年間。
母に呪われて、母に捨てられて、一人で離宮にいた。
その事実を、今——知ったのだ。
その日の午後。
療養棟に、通信鏡の着信があった。
通信鏡は手のひらほどの銀の鏡で、魔力を通すと遠方と音声をやりとりできる魔導具だ。離宮に一台だけ備え付けてある。
鏡面に浮かんだのは——アルベルトの声だった。
「私は王都で調査した」
声が震えている。
あの威厳ある王太子の声が、明らかに揺れていた。
「母上の侍女頭——エレーヌの証言を得た。エミルに呪いをかけたのは母上だ。それは——私の王位を守るためだったと」
沈黙。
「私は……母の道具だったのか」
素の口調だった。
「〜せよ」も「〜である」もない。ただの、傷ついた青年の声だった。
エミル殿下が通信鏡に近づいた。
「兄上」
穏やかな声で、語りかける。
「僕は兄上を恨まない。——だから、兄上も自分を恨まないで」
通信鏡の向こうで、何かを堪えるような息遣いが聞こえた。
返事はなかった。
通信が切れた。
鏡面が暗くなる。
……7周目まで、アルベルトは「敵」だった。
でも8周目のアルベルトは——真実を知って、崩れかけている。
彼もまた、王妃の被害者だったのだ。
知らなかった。
8回の人生で、一度もこの角度から見たことがなかった。
断罪者。
追放者。
私を7回殺した人。
その人が——自分の母が弟を呪っていたことを知って、声を震わせている。
夜。
クロードと庭で話をした。
「お嬢、王妃が黒幕だとわかったのはいい。だが相手は王族だ」
クロードが腕を組んで夜空を見上げている。
「呪紋が証拠になるとしても、誰がそれを王に提示する? 公爵家は追放処分中、俺は平民、聖女は政治的には無力——動ける駒がねえ」
的確な指摘だった。
「だからこそ、アルベルト殿下の協力が必要ですわ」
「王太子が母親を告発する、と?」
「あの人は——今日、自分で証言を集めていた。誰に言われたわけでもなく」
クロードが黙った。
「……お嬢がそう判断するなら、俺は従うよ。ただし——」
皮肉な笑みが消えた。
「お嬢自身が危険にならないようにしろ。頼むから」
「わかっていますわ」
「本当かよ」
「本当ですわ」
「嘘つけ」
うるさい幼馴染だ。でも——ありがたい幼馴染でもある。
リゼットがエミル殿下の体力回復の治癒を終えて、療養棟から出てきた。
「マルグリット様が……そんなことを」
翡翠の瞳が揺れていた。
「わたしは宮廷で王妃様にとても良くしていただいていました。あれは——わたしを手元に置くためだったのでしょうか」
「おそらく」
それ以上は言わなかった。リゼットは賢い子だ。わかっているはず。
夜更け。
エミル殿下と二人きりになった。
療養棟の窓辺。月明かりが呪紋解除後の殿下の手首を照らしている。
「ヴィオレッタ嬢」
「はい」
「僕は母上を赦したいと思う」
静かな声。
「でも——赦すことと、見過ごすことは違うんだ」
断定調。目に強い光が宿っている。
「僕は、母上がしたことを正しく裁かれるべきだと思う。それが母上のためでもある」
17歳。
自分を17年間苦しめた相手に対して、この言葉を言える17歳。
推しの精神性、もはや聖人では。
「……エミル殿下は、強い方ですわね」
「強くなんかないよ。あなたが隣にいてくれたから——考える時間をもらえただけだ」
首を傾げる微笑み。
月明かりに照らされたその顔を、記憶に焼き付けた。
一人になってから、湖を見つめた。
月が水面に映っている。
王妃を告発するには——国王の前で呪紋を可視化し、術者の署名を開示するしかない。
それができるのは、紫水晶を扱える私だけ。
でも。
呪紋を「解除」してしまえば、署名も消える。
証拠が消える。
エミル殿下の完治と、王妃の告発。
同時にはできない。
……どちらを選ぶ?
推しの完治か。
推しの母の告発か。
どちらも、推しの幸せのために必要なことだ。
なのに——同時にはできない。
月が水面に揺れていた。
答えは、まだ出ない。




