第7話「王太子の空白」
離宮に来て、20日目。
エミル殿下の呪紋は、外層がほぼ全て解除され、中層も半分まで弱体化していた。
リゼットの治癒魔法が体力回復を補助してくれているおかげで、治療効率は格段に上がっている。
エミル殿下は今朝、庭で軽い体操をしていた。
20日前は立ち上がることさえ困難だった少年が、朝日の下で伸びをしている。
その光景だけで、8周分の苦労が報われる気がした。
……のだけれど。
「お嬢、馬車が来てる」
クロードの声で、穏やかな朝が終わった。
離宮の正面に、見覚えのある紋章を掲げた馬車が止まっている。
王家の紋章。
護衛の騎士が二名、馬車の両脇に立っている。
馬車の扉が開き——降り立ったのは、金髪碧眼の青年だった。
軍服に似た正装。腕を組んだ姿勢。隙のない表情。
王太子アルベルト・ルーヴェンス。
『永遠のティアラ』攻略対象筆頭。全ルートの中で最も人気が高い王太子キャラ。
——そして、私を8回断罪した人。
心臓が跳ねた。
4話で倒れた時とは違う、冷たい跳ね方。
8周分の断罪の記憶が一瞬で蘇る。
「——ヴィオレッタ・クレティア。貴女の罪を——」
違う。
あれは過去。今は今。
深呼吸した。
アルベルトは正面玄関から離宮に入り、管理人に案内されて庭に出てきた。
そして——庭で体操をしているエミル殿下を見て、足を止めた。
「……エミル?」
アルベルトの声に、明らかな動揺があった。
「お前、立って——歩いているのか」
いつもの威厳ある命令調が崩れていた。「〜せよ」でも「〜である」でもない。素の声。
ゲームではアルベルトの動揺する姿なんて見たことがなかった。どの攻略ルートでも完璧な王太子として描かれていた。
でもこの世界のアルベルトは——弟が歩いている姿を見て、声を震わせている。
エミル殿下が振り向き、穏やかに微笑んだ。
「兄上。お久しぶりですね。僕は元気になりました——ヴィオレッタ嬢のおかげで」
そう言って、私を示した。
アルベルトの碧い目が、こちらに向いた。
前回この目を見たのは、断罪の大広間。
あの時は見下ろす目だった。
今は——困惑の目だった。
「追放した者が、王子の治療をしているとはな。説明を求める」
腕を組んだまま。声は威圧的。
でも——腕の組み方がいつもより固い。あれは動揺を隠す時の癖だ。8回も見れば嫌でもわかる。
「エミル殿下のご病気は呪いですわ。私はその解除に取り組んでおります」
端的に答えた。
「呪い? 主治医からはそのような報告は——」
言い淀んだ。
報告がない。
つまり、アルベルトは呪いの存在を知らなかった。
この反応は——本物だ。
8回の人生で、アルベルトの演技と本心の違いは見分けられるようになった。
今の動揺は、演技ではない。
「実際にご覧になりますか」
紫水晶のイヤリングに触れ、エミル殿下の了承を得て、呪紋を可視化した。
弱体化してなお複雑な幾何学模様が、エミル殿下の手首に浮かび上がる。
アルベルトが息を呑んだ。
腕を組んでいた手が——解けた。
「これは……」
「呪紋と呼ばれるものです。エミル殿下は『病弱』ではなく、『呪われて』いたのですわ」
「誰が——誰がこんなことを」
碧い目が揺れている。
「術者は王族の血統を持つ者です。それ以上は、まだ確証がございません」
嘘ではない。
王妃だという仮説は持っている。でも「確証がない」は事実。
語尾に「ね」はつかなかった。
アルベルトは長い沈黙の後、視線を弟に向けた。
「……エミル」
「兄上。二人で話がしたいんだ」
エミル殿下が、穏やかに言った。
私とクロードとリゼットは庭の反対側に下がった。
湖畔のベンチで二人の兄弟が向き合っている。
声は聞こえない。距離があるから。
でも——表情は見えた。
エミル殿下が何か言った。
アルベルトが俯いた。
エミル殿下がまた何か言った。
アルベルトの肩が、小さく震えた。
長い時間だった。
やがて二人が立ち上がり、こちらに戻ってきた。
アルベルトの目が赤い。泣いた——のだろうか。確証はない。でも、さっきまでの表情とは明らかに違っていた。
エミル殿下が小さく微笑んで、私の横に立った。
「兄上と、少し話ができたよ」
「……そう」
何を話したのかは聞かなかった。
二人の間のことだ。
リゼットが、アルベルトの前に進み出た。
「殿下」
「……何だ、聖女」
「わたしはここで初めて、自分の意志で行動することを学びました」
リゼットの声が、宮廷にいた時とは違っていた。
翡翠の瞳が真っ直ぐにアルベルトを見ている。
「殿下も——ご自分の意志で、考えてみてください」
アルベルトの目がわずかに見開かれた。
以前の「従順な聖女」とは違う。
あの子は——離宮に来てから、変わった。
アルベルトは何も答えなかった。
けれど腕を組まなかった。
それが答えなのかもしれないと、私は思った。
馬車が離宮を去る直前。
アルベルトが、私に近づいた。
「……クレティア」
低い声。周囲には聞こえない音量。
「母上には気をつけろ」
それだけ言って、馬車に乗り込んだ。
母上。
アルベルトが——王妃を名指しした。
彼もどこかで気づいていたのか。
それとも、今日の情報で初めて疑念を持ったのか。
どちらかはわからない。
でも——アルベルトが警告をくれた。
8回の人生で、この人が私に味方するような言葉をかけたのは、初めてだった。
ゲームの中の完璧な王太子は、こんな顔をしなかった。
弟を知らなかったことに苦しみ、母を疑い、追放した令嬢に警告を残す——そんなルートは、どこにも用意されていなかった。
この人もまた——ゲームの「役割」に収まらない、一人の人間なのだ。
馬車が去った後。
エミル殿下が傍に来た。
「兄上は不器用な人だけど、悪い人じゃないよ」
穏やかな声。
7周分、兄に放置されていたのに。
それを赦せるのか、この人は。
……推しの人間の器が大きすぎる。
「ヴィオレッタ嬢。兄上が何を言ったか、聞かないの?」
「あなた方の会話ですわ。私が聞くものではありません」
「……そっか。ありがとう」
エミル殿下が微笑んだ。
首を傾げる癖。
夕陽が湖面に映っていた。
凪でもなく、波紋でもなく。
光がゆらゆらと揺れている。
穏やかな光。
でも——次に何が来るかは、わからない。
アルベルトの「母上には気をつけろ」が、耳に残っていた。
包囲網が、少しずつ形になり始めている。
8周目にして——初めて、「敵」だった人が「味方」に変わろうとしている。
私はそれを、信じていいのだろうか。
右耳のイヤリングに触れた。
湖の上で、夕陽がゆっくりと沈んでいった。




