第6話「聖女と悪役令嬢の停戦」
離宮に来て、15日目。
朝。
庭の湖が見えるベンチに、二人分のカモミールティーを用意した。
一つは私。
もう一つは——向かいに座る、聖女リゼット・フォンティーヌ。
クロードが少し離れた木の幹にもたれて、護衛を兼ねた見張りをしている。
リゼットは困った時の癖そのままに、両手を胸の前で組んでいた。
翡翠の瞳が落ち着かなさそうに揺れている。
「……ヴィオレッタ様。昨日は突然押しかけてしまって——」
「リゼット嬢」
遮った。
このまま謝罪を聞き続けても、話が進まない。
「単刀直入に伺いますわ。何をしに来たの?」
リゼットが息を呑んだ。
数秒の沈黙。
それから、唇を震わせながら口を開いた。
「謝りたかった、です。あの式典で——わたしのために、あなたが追放された。わたしは何も言えなかった。聖女なのに。人を救うべき立場なのに。何もできなかった」
涙が翡翠の瞳からこぼれ始めた。
「ここに来るまで、ずっと考えていました。わたしにできることは何だろうって。——せめてお話をして、わたしの気持ちだけでも伝えたかった」
7周分の記憶が、脳裏を横切った。
この子を「敵」だと決めつけていた1周目。
ゲームの構図——ヒロインvs悪役令嬢。転生した私は、その構図に囚われていた。
リゼットが聖女でヒロインだから、悪役令嬢の私とは敵対するものだと。
「利用されている駒」だと見下していた3周目。
「和解できる相手」だと計算ずくで近づいた6周目。
どの周回でも、私はリゼット・フォンティーヌという人間を「役割」でしか見ていなかった。
ゲームのヒロイン。
攻略対象を奪う敵。
聖女という記号。
7周分の偏見は——ゲームの知識が作った檻だった。
でも目の前にいるのは——ただ泣いている、17歳の女の子だ。
「リゼット嬢」
声をできるだけ柔らかくした。
「あなたが謝る必要はございませんわ。あの場で声を上げられなかったのは、あなたの立場を考えれば当然のこと。——私があなたの立場でも、同じことをしたでしょう」
嘘ではない。
語尾にも「ね」はつかなかった。
リゼットが顔を上げた。
「ヴィオレッタ様は……本当に悪い人じゃなかった。宮廷でみんなが言っていたことは、嘘だった」
泣かないでほしい。
推し活で忙しいのに聖女のケアまでは想定外——いやでも、この子も被害者なのだ。
聖女という看板を掲げさせられ、宮廷の権力闘争に利用され、自分の意志で何も選べなかった子。
「リゼット嬢。一つ、お願いがありますの」
涙を拭いているリゼットが、こちらを見た。
「エミル殿下の呪い——ご存じ?」
「呪い……? 殿下のご病気は、呪いなのですか?」
知らなかったらしい。当然か。宮廷魔術師すら見抜けなかったのだから。
「聖女の治癒魔法では、呪いそのものは解除できません。属性が違いますわ。でも——エミル殿下の体力を回復させることはできるはず」
リゼットの目が変わった。
涙が止まり、翡翠の瞳に光が戻る。
「させてください。わたしにできることがあるなら、何でもします」
即答だった。
迷いがなかった。
この子は——聖女という肩書きを外しても、人を助けたい人間なのだ。
「ありがとう、リゼット嬢」
自然に口から出た。
7周かけて一度も言えなかった言葉が、8周目であっさり出てきた。
午後。
リゼットがエミル殿下の療養棟を訪れ、二人が初めてまともに話をした。
エミル殿下は穏やかにリゼットを迎え入れた。
「聖女様が僕のような者を気にかけてくれるとは思わなかった」
「エミル殿下は、ヴィオレッタ様が大切にしている方ですから」
大切にしている。
「大切とかそういうのではなくてですね」
慌てた。声が裏返った。
エミル殿下とリゼットが同時にこちらを見て、エミル殿下が首を傾げて笑った。
「違うの?」
「違いますわ。これは推し活であって——あ」
また余計な単語を。
「推し活、ってまた言ったね」
エミル殿下が楽しそうに目を細めた。
「前に聞いた『ファン』と関係ある言葉?」
「関係ないですわ。忘れてくださいませ」
「えー。気になるんだけどな」
推しに追及されている。
つらい。楽しいけどつらい。
リゼットがきょとんとした顔で二人のやり取りを見ていた。
夕方。
管理人の老婦人が、一通の封書を持ってきた。
「王都から早馬で届きましたよ」
差出人は記されていない。
けれど——封蝋に押された紋章を見て、息が止まった。
クレティア公爵家の紋章。
父の手紙。
手が震えた。
別の理由の震えだった。
封を開ける。
中には短い文面が、端的な筆致で書かれていた。
『王妃が聖女の管理権を強化し、リゼット嬢を宮廷から出さぬよう動いている。離宮にいるなら急ぎ事情を知らせよ。お前の離宮行きを手配したのは私だ。——父より』
……お父様。
手紙を持つ手が、震えたまま止まった。
お前の離宮行きを手配したのは私だ。
あの馬車。
あの書状。
離宮の部屋が用意されていたこと。
全部、父だった。
8周の人生で——父は、私のために何もしてくれなかったと思っていた。
追放されても声を上げず、処刑されても助けに来ず。
違った。
動いていた。
ただ——私が、知らなかっただけで。
右耳のイヤリングに触れた。
母の形見。
お母様。
お父様は、ちゃんと見ていてくれたんだ。
8周目にして——やっと、気づいた。
涙は出なかった。
でも、胸の奥が温かかった。4話でエミル殿下に手を握ってもらった時と、同じ温かさだった。
夕暮れ。
リゼットに父の手紙の内容を伝えた。
王妃がリゼットの管理権を強化しようとしていること。
宮廷に戻れば、王妃の管理下に置かれること。
「ここにいる方が安全ですわ。でも、あなたの意志を聞かせて」
リゼットは少し俯いて——それから、顔を上げた。
「わたしは、ここにいたいです」
静かだけれど、はっきりとした声だった。
「……初めて、自分の意志で場所を選びます」
翡翠の瞳が、もう揺れていなかった。
夕暮れの庭。
ヴィオレッタ、エミル、リゼット、クロード。
四人が離宮の庭にいる。
エミル殿下がベンチに座り、リゼットが隣で花を見つめ、クロードが木にもたれて空を仰ぎ、私が湖を見ている。
8周目にして初めて——「味方」がいる。
1周目は一人で泣いた。
3周目は一人で逃げた。
7周目は一人で戦って、一人で死んだ。
今回だけ、違う。
これは——私が今まで選ばなかったルートだ。
湖面は穏やかだった。
けれど遠くの空に、灰色の雲がかかり始めている。
嵐の予兆。
王妃が動いている。
父が動いている。
王都で何かが変わり始めている。
穏やかな時間は、きっと長くは続かない。
でも——今だけは。
この庭で、この四人で。
もう少しだけ、このままでいさせてほしい。




