第5話「呪紋が語る名前」
離宮に来て、14日目。
あの日倒れてから、私は2日間治療を休んだ。
エミル殿下とクロードの二人がかりで「休め」と言われたら、さすがに逆らえない。
推しと幼馴染の共同戦線は最強だった。
3日目から治療を再開した。ただし、ペースは2日に1回。
今朝はエミル殿下が庭のベンチに毛布とカモミールティーを用意してくれていた。
「治療の後は必ず休むって約束してくれたよね」
灰青の瞳がこちらを見ている。
穏やかだけど、有無を言わさない目。
「……約束しましたわね」
「うん。だから、今日も守ってね」
推しにお世話されている。
推しに。お世話。
私は推す側のはずなのに。
……いやでもカモミールティーおいしい。推しが淹れてくれたカモミールティーは世界一おいしい。
朝のお茶を終えて、治療に入った。
紫水晶のイヤリングに魔力を通す。
エミル殿下の手首に呪紋を浮かび上がらせ、中層の術式を慎重に解読していく。
前回、焦って一気に読もうとして倒れた。
今回は一つずつ。丁寧に。
中層の術式をひと筋ずつ追っていく。
複雑な幾何学模様の中に、魔力のパターンが繰り返し現れる。
これが術者の「癖」——魔力の指紋。
そのパターンを読み取った瞬間、指先にぴりっとした感覚が走った。
この波形。
普通の魔術師のものじゃない。
もっと根本的に——血に刻まれたような魔力の質。
8周分の記憶を照合する。
5周目で宮廷魔術師の講義を盗み聞きした時の知識が蘇った。
「王族の血統に特有の魔力波形」。
グランディール王家の血を引く者だけが持つ、固有の魔力パターン。
……間違いない。
呪いをかけた術者は、王族の血を引いている。
指先が冷たくなった。
王族の血統。
候補は限られる。
国王——公式記録では魔力がほぼない。17年間呪いを維持できる力は持っていない。
アルベルト王太子——断罪の場での彼を8回見てきたが、弟に害意がある様子はなかった。どの周回でも。
エミル殿下本人——自分に呪いをかけるのは不可能。
残るのは。
王妃マルグリット。
4周目の記憶が蘇った。
あの周回で、私は王妃を黒幕だと疑った。
証拠を集める前に直接対決を挑んで——返り討ちにあった。
王妃の居室に乗り込んだ時の、あの微笑みを覚えている。
扇で口元を隠して、完璧な宮廷言葉で「まあ、何のことかしら」と言った。
翌日、私は処刑された。証拠不足で。
……あれから4回死んで、ようやくここまで来た。
今度は違う。
呪紋という物的証拠がある。
でも——まだ足りない。
中層の魔力波形だけでは「王族の血統の者」としかわからない。
個人を特定するには、深層まで解読する必要がある。
そして深層に到達するには、もっと時間と魔力が要る。
焦るな。
4周目の二の舞を踏むな。
証拠なしに動けば、また死ぬ。
治療を終え、エミル殿下に結果を簡潔に伝えた。
「呪紋の術者は、かなり高い魔力を持つ人物ですわ。解析はもう少し時間がかかります」
全てを話すわけにはいかない。
「王族」とまでは言えない。エミル殿下を不安にさせたくなかった。
「……わかった。無理はしないでね」
エミル殿下が頷いた。
その時——離宮の正面から、馬車の轍の音が聞こえた。
客人?
この離宮に?
窓から見下ろすと、小さな馬車が一台、止まっていた。
馬車から降り立ったのは——亜麻色の髪の少女だった。
翡翠の瞳。
胸の前で両手を組む仕草。
嘘だろう。
聖女リゼット・フォンティーヌ。
『永遠のティアラ』のメインヒロイン。
全ルートの中心に立つ、この物語の主人公。
なぜ——ここに。
7周目まで、リゼットが離宮を訪れたことは一度もなかった。
どの周回でも。
何が変わった?
……いや。
私が変わったからだ。
1話の断罪の場で、私はリゼットを攻撃しなかった。
過去の7回では必ず何かしらの形でリゼットと衝突していた。ゲームの悪役令嬢として、そうするのが「役割」だと思い込んでいたから。
今回だけ、一切触れずに去った。
リゼットが罪悪感を持つ展開は——私が静かに去った場合にだけ発生するのかもしれない。
8周目にして初めてのルート分岐。
庭に降りると、リゼットが立っていた。
侍女を一人だけ連れて、涙目でこちらを見ている。
「ヴィオレッタ様」
「……リゼット嬢」
「わたしのせいで追放されたのに、わたしは何もできなかった。せめて——せめてお話をさせてください」
困った両手を胸の前で組む癖。翡翠の瞳が潤んでいる。
この子を、7周の間「敵」だと思っていた。
ゲームにおけるヒロインと悪役令嬢。対立するのが当然。そう信じ込んでいた。
でも——どの周回を思い返しても、リゼット自身が私を陥れたことは一度もなかった。
利用されていただけ。
聖女という立場を、誰かに利用されていただけの子。
頭では、わかっている。
けれど——感情は、頭の通りには動いてくれない。
「……お話は明日にいたしませんか。長旅でお疲れでしょう」
冷たい声が出た。自分でもわかった。
リゼットが一瞬、顔を歪めた。でもすぐに頷いた。
「はい……。ありがとうございます」
管理人が客棟に案内していくリゼットの背中を見送る。
小さい。
こんなに小さな背中の子に、私は7回も敵意を向けていたのか。
後味の悪さが胸に残った。
「ヴィオレッタ嬢」
振り向くと、エミル殿下が庭に出てきていた。
リゼットが去った方向を一瞬見て、それから私に視線を戻す。
「聖女様が来たんだね」
「ええ。……驚きましたわ」
「僕も少し話をしたよ」
エミル殿下の声は穏やかだった。でも次の言葉は、静かに鋭かった。
「ヴィオレッタ嬢を傷つけるために来たのなら、僕は聖女であっても許さない——と、伝えておいた」
……え。
「エミル殿下、それは——」
「事実だよ。僕は王子だけど、それ以前にあなたに命を助けてもらった人間だから」
穏やかな微笑み。でもその奥に、揺るがない芯がある。
推しが——推しがゲームのヒロインに釘を刺している。
私を守るために。
しんどい。
嬉しすぎてしんどい。
「……ありがとうございます。でも、リゼット嬢はきっと、悪い人ではありませんわ」
「そうかもしれないね。でも確認するまでは、油断しない」
エミル殿下がそう言って、療養棟に戻っていった。
一人になった庭で、湖を見た。
水面が風で少し波立っている。
穏やかではない。でも嵐でもない。
……王族の血統。
王妃マルグリット。
リゼットの来訪。
エミル殿下の言葉。
何かが動き始めている。
8周目にして初めての——誰も知らないルート。
右耳のイヤリングに触れた。
紫水晶の冷たさが、少しだけ私を落ち着かせてくれた。




