表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢に転生したけど、“破滅エンド”が8周目なので、今回は全部キャンセルして推しを幸せにすることにした  作者: 月代


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/10

第4話「8周分の疲れ」


離宮に来て、10日目の朝。


目を覚ました時、右手が震えていた。


ベッドの中で手を開いて、閉じる。

開いて、閉じる。


かすかな痙攣。

毎日の治療で魔力を注ぎ続けた代償が、指先に出ている。


……大丈夫。このくらい、まだ平気。


着替えて、客棟の食堂に降りた。


管理人の老婦人が用意してくれた朝食。

パンをちぎろうとして——手が滑った。


ナイフが皿にぶつかって、かちゃん、と音を立てた。


「お嬢、大丈夫か」


向かいの席で、クロードが目を細めた。


「少し寝不足ですわ」


嘘ではない。嘘ではないけれど——全てでもない。


クロードは黙ってパンの残りを取り、黙って私の皿に載せた。

何も言わない。でも、その手つきが妙に丁寧だった。


この男は、気づいている。

何にどこまで気づいているかはわからないけれど——私の不調を、見抜いている。


午前中、療養棟へ向かう。


エミル殿下は既に着替えて、書庫から戻ってきたところだった。


10日前のエミル殿下は、ベッドから起き上がるのがやっとだった。

今は一人で歩き、一人で書庫に通い、一人で身の回りのことをしている。


治療は確実に効いている。


「おはよう、ヴィオレッタ嬢」


「おはようございます、エミル殿下」


笑顔。首を傾げる癖。

10日見続けても慣れない破壊力。


今日の治療に入る。


紫水晶のイヤリングに触れ、詠唱を唱える。


呪紋の外層は10日間でほぼ全て剥がした。

今日から中層に入る。


中層の術式は、外層とは質が違った。


外層が「鍵」だとすれば、中層は「鎖」。

より緻密で、より強固で、より——個人的な魔力の痕跡が色濃く残っている。


術者の「癖」。


魔力には指紋のように個人差がある。

呪紋を編んだ人間の魔力のパターンが、中層にははっきりと刻まれていた。


この感覚。

どこかで——感じたことがある気がする。


いつ? どこで?


記憶を探る。

8周分の膨大な経験の中から、この魔力の質に似たものを——


……だめだ。今は思い出せない。


もっと深く読めば——


焦った。


中層の術式を一気に読み解こうとして、紫水晶に魔力を注ぎ込んだ。


多すぎた。


頭の中で何かが弾けた。


視界が白く飛ぶ。

激しい頭痛。脳の芯を杭で打たれたような痛み。


紫水晶の光が暴走して——消えた。


「ヴィオレッタ嬢!」


エミル殿下の声が、遠く聞こえた。


体が傾ぐ。

床が近づいてくる。


——倒れた。


暗い。


何も見えない。


寒い。


違う。これは——記憶だ。


3周目。

石壁の牢獄。国外逃亡に失敗して捕まった。

鉄格子の向こうに、処刑人の影が見えた。

冷たい刃が首筋に触れる感覚。


変わった。


2周目。

宴の席。乾杯のグラスを持ち上げた瞬間、喉が焼けた。

毒だ。

床に倒れながら、天井の装飾が揺れるのを見ていた。


変わった。


7周目。

暗い路地。背中に突き立てられたナイフの冷たさ。

振り返る力もなく崩れ落ちて——


——目が覚めた。


白い天井。

離宮の療養棟。


ベッドの横に、二つの顔があった。


エミル殿下。

クロード。


「ヴィオレッタ嬢……!」


エミル殿下の声が震えていた。


灰青の瞳が濡れている。

怒っているような、泣いているような、その両方が混ざった顔。


「あなた、自分を犠牲にしていたのか」


断定調。

穏やかなエミル殿下が、声を荒らげている。


「毎日の治療で、ずっと——自分の体を削っていたんだね。手が冷たかった。氷みたいに」


私の手を、エミル殿下が握っていた。


いつから握っていてくれたのだろう。


「大丈夫ですわ。少し魔力を使いすぎただけで——」


「大丈夫じゃないよ」


遮られた。


エミル殿下の手に、力がこもる。


「ヴィオレッタ嬢。もう無理な治療はやめてほしい」


推しに怒られた。

推しの怒った顔、初めて見た。


……新規イベントだ。いやそうじゃなくて。


「エミル殿下、私は——」


「嫌だ。あなたが倒れるのは嫌なんだ」


断定調が続いている。

エミル殿下の声が、こんなに強いことを、私は知らなかった。


言い返せなかった。


エミル殿下から目を逸らすと、部屋の隅にクロードが立っていた。


壁にもたれて、腕を組んでいる。

いつもの姿勢。


でも——拳が、白くなるほど握りしめられていた。


何か言いたそうな顔。

でも、何も言わないまま、目を伏せた。


少し落ち着いてから、体を起こした。


手の震えは止まっていない。


8回死んだ記憶は、全部残っている。


3周目の冷たい刃。

2周目の喉の灼熱。

7周目の背中のナイフ。


体は新しくなっても、心は8周分の傷を全部抱えたまま。


……疲れた。


本当に、疲れた。


何回死んでも慣れない。何回蘇っても、痛みは消えない。

忘れたいのに忘れられない。


「ヴィオレッタ嬢」


エミル殿下の声。


顔を上げると、エミル殿下が私の手を——両手で包んでいた。


「僕は、あなたに死んでほしくない」


静かな声だった。


「あなたが僕を救ってくれたように。——僕もあなたを救いたいんだ」


「……なぜ、あなたはそこまで」


「同じだから」


エミル殿下が、微笑んだ。

首を傾げる癖。でも今日のそれは、いつもより少し——寂しそうだった。


「ずっと一人で苦しんでいた人の顔は、僕にはわかるんだ」


その言葉を聞いた瞬間——目の奥が、熱くなった。


涙が、出た。


8周目の人生で、初めて。

他人の前で泣いた。


1周目でも泣かなかった。

3周目の牢獄でも、2周目の毒杯でも、7周目の路地裏でも。


誰の前でも泣かなかった。


なのに——この人の前では。


エミル殿下は何も言わなかった。

ただ、私の冷たい手を、温かい両手で包んだまま。


窓の外を、風が通り過ぎていった。


夜。


客棟の自室で、一人でベッドに横たわった。


天井を見つめる。


8周目で初めて、誰かに手を握ってもらった。


こんなこと、想定していなかった。

私はただ、推しを幸せにして終わるつもりだったのに。


推しの手が、温かかった。


「あなたに死んでほしくない」と言ってくれた。


その言葉が——嬉しかった。


嬉しいと思ってしまった。


私が嬉しいとか。

私が救われるとか。


そういうのは——予定にない。


窓の外に、湖が見えた。

月が水面に映っている。


風が吹いたのか、水面に波紋が広がった。


さざ波が、なかなか消えない。


……自分も救われたいなんて。

そんなこと、思ってはいけないのに。


右耳のイヤリングに触れて、目を閉じた。


エミル殿下の手の温もりが、まだ指先に残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ