第4話「8周分の疲れ」
離宮に来て、10日目の朝。
目を覚ました時、右手が震えていた。
ベッドの中で手を開いて、閉じる。
開いて、閉じる。
かすかな痙攣。
毎日の治療で魔力を注ぎ続けた代償が、指先に出ている。
……大丈夫。このくらい、まだ平気。
着替えて、客棟の食堂に降りた。
管理人の老婦人が用意してくれた朝食。
パンをちぎろうとして——手が滑った。
ナイフが皿にぶつかって、かちゃん、と音を立てた。
「お嬢、大丈夫か」
向かいの席で、クロードが目を細めた。
「少し寝不足ですわ」
嘘ではない。嘘ではないけれど——全てでもない。
クロードは黙ってパンの残りを取り、黙って私の皿に載せた。
何も言わない。でも、その手つきが妙に丁寧だった。
この男は、気づいている。
何にどこまで気づいているかはわからないけれど——私の不調を、見抜いている。
午前中、療養棟へ向かう。
エミル殿下は既に着替えて、書庫から戻ってきたところだった。
10日前のエミル殿下は、ベッドから起き上がるのがやっとだった。
今は一人で歩き、一人で書庫に通い、一人で身の回りのことをしている。
治療は確実に効いている。
「おはよう、ヴィオレッタ嬢」
「おはようございます、エミル殿下」
笑顔。首を傾げる癖。
10日見続けても慣れない破壊力。
今日の治療に入る。
紫水晶のイヤリングに触れ、詠唱を唱える。
呪紋の外層は10日間でほぼ全て剥がした。
今日から中層に入る。
中層の術式は、外層とは質が違った。
外層が「鍵」だとすれば、中層は「鎖」。
より緻密で、より強固で、より——個人的な魔力の痕跡が色濃く残っている。
術者の「癖」。
魔力には指紋のように個人差がある。
呪紋を編んだ人間の魔力のパターンが、中層にははっきりと刻まれていた。
この感覚。
どこかで——感じたことがある気がする。
いつ? どこで?
記憶を探る。
8周分の膨大な経験の中から、この魔力の質に似たものを——
……だめだ。今は思い出せない。
もっと深く読めば——
焦った。
中層の術式を一気に読み解こうとして、紫水晶に魔力を注ぎ込んだ。
多すぎた。
頭の中で何かが弾けた。
視界が白く飛ぶ。
激しい頭痛。脳の芯を杭で打たれたような痛み。
紫水晶の光が暴走して——消えた。
「ヴィオレッタ嬢!」
エミル殿下の声が、遠く聞こえた。
体が傾ぐ。
床が近づいてくる。
——倒れた。
暗い。
何も見えない。
寒い。
違う。これは——記憶だ。
3周目。
石壁の牢獄。国外逃亡に失敗して捕まった。
鉄格子の向こうに、処刑人の影が見えた。
冷たい刃が首筋に触れる感覚。
変わった。
2周目。
宴の席。乾杯のグラスを持ち上げた瞬間、喉が焼けた。
毒だ。
床に倒れながら、天井の装飾が揺れるのを見ていた。
変わった。
7周目。
暗い路地。背中に突き立てられたナイフの冷たさ。
振り返る力もなく崩れ落ちて——
——目が覚めた。
白い天井。
離宮の療養棟。
ベッドの横に、二つの顔があった。
エミル殿下。
クロード。
「ヴィオレッタ嬢……!」
エミル殿下の声が震えていた。
灰青の瞳が濡れている。
怒っているような、泣いているような、その両方が混ざった顔。
「あなた、自分を犠牲にしていたのか」
断定調。
穏やかなエミル殿下が、声を荒らげている。
「毎日の治療で、ずっと——自分の体を削っていたんだね。手が冷たかった。氷みたいに」
私の手を、エミル殿下が握っていた。
いつから握っていてくれたのだろう。
「大丈夫ですわ。少し魔力を使いすぎただけで——」
「大丈夫じゃないよ」
遮られた。
エミル殿下の手に、力がこもる。
「ヴィオレッタ嬢。もう無理な治療はやめてほしい」
推しに怒られた。
推しの怒った顔、初めて見た。
……新規イベントだ。いやそうじゃなくて。
「エミル殿下、私は——」
「嫌だ。あなたが倒れるのは嫌なんだ」
断定調が続いている。
エミル殿下の声が、こんなに強いことを、私は知らなかった。
言い返せなかった。
エミル殿下から目を逸らすと、部屋の隅にクロードが立っていた。
壁にもたれて、腕を組んでいる。
いつもの姿勢。
でも——拳が、白くなるほど握りしめられていた。
何か言いたそうな顔。
でも、何も言わないまま、目を伏せた。
少し落ち着いてから、体を起こした。
手の震えは止まっていない。
8回死んだ記憶は、全部残っている。
3周目の冷たい刃。
2周目の喉の灼熱。
7周目の背中のナイフ。
体は新しくなっても、心は8周分の傷を全部抱えたまま。
……疲れた。
本当に、疲れた。
何回死んでも慣れない。何回蘇っても、痛みは消えない。
忘れたいのに忘れられない。
「ヴィオレッタ嬢」
エミル殿下の声。
顔を上げると、エミル殿下が私の手を——両手で包んでいた。
「僕は、あなたに死んでほしくない」
静かな声だった。
「あなたが僕を救ってくれたように。——僕もあなたを救いたいんだ」
「……なぜ、あなたはそこまで」
「同じだから」
エミル殿下が、微笑んだ。
首を傾げる癖。でも今日のそれは、いつもより少し——寂しそうだった。
「ずっと一人で苦しんでいた人の顔は、僕にはわかるんだ」
その言葉を聞いた瞬間——目の奥が、熱くなった。
涙が、出た。
8周目の人生で、初めて。
他人の前で泣いた。
1周目でも泣かなかった。
3周目の牢獄でも、2周目の毒杯でも、7周目の路地裏でも。
誰の前でも泣かなかった。
なのに——この人の前では。
エミル殿下は何も言わなかった。
ただ、私の冷たい手を、温かい両手で包んだまま。
窓の外を、風が通り過ぎていった。
夜。
客棟の自室で、一人でベッドに横たわった。
天井を見つめる。
8周目で初めて、誰かに手を握ってもらった。
こんなこと、想定していなかった。
私はただ、推しを幸せにして終わるつもりだったのに。
推しの手が、温かかった。
「あなたに死んでほしくない」と言ってくれた。
その言葉が——嬉しかった。
嬉しいと思ってしまった。
私が嬉しいとか。
私が救われるとか。
そういうのは——予定にない。
窓の外に、湖が見えた。
月が水面に映っている。
風が吹いたのか、水面に波紋が広がった。
さざ波が、なかなか消えない。
……自分も救われたいなんて。
そんなこと、思ってはいけないのに。
右耳のイヤリングに触れて、目を閉じた。
エミル殿下の手の温もりが、まだ指先に残っていた。




