第3話「推しが推し返してくる」
離宮に来て、5日目の朝。
毎日1回、エミル殿下の呪紋に魔力を注ぎ、外層の術式を一つずつ剥がしていく。
5日目のエミル殿下は——ベッドの上に座ったまま迎えてくれた初日とは、もう別人だった。
自分で着替えて、自分で椅子に座っている。
頬にうっすらと赤みが差して、灰青の瞳の光が強くなった。
治療は確実に効いている。
「ヴィオレッタ嬢」
朝の治療を終えた後、エミル殿下が窓の外を見つめながら言った。
「外に出てみたいんだ」
「外、ですわ?」
「庭。この窓から見える庭を、自分の足で歩いてみたい」
窓の向こうには、離宮の庭が広がっている。
湖畔に続く緩やかな芝生と、白い石のベンチ。
エミル殿下はずっと、窓越しにしか見たことがなかったのだろう。
断る理由はない。
「クロード、ちょっと」
護衛として廊下に控えていたクロードを呼び、三人で療養棟の外に出た。
階段を一段ずつ下りるエミル殿下の足取りは、まだ少しおぼつかない。
クロードがさりげなく手を貸せる位置に立っていた。あの男は、ああいうところだけは気が利く。
玄関の扉を開けた。
風が吹き込んできた。
エミル殿下が、立ち止まった。
5月の風。
湖から吹いてくる、冷たくて柔らかい空気。
エミル殿下が目を閉じた。
金色の髪が風に流れた。
そのまま、数秒。
目を開けた時——灰青の瞳から、涙がこぼれていた。
「……風って、こんなに気持ちいいものだったんだね」
声は震えていなかった。
泣いているのに、微笑んでいた。
その横顔を見て、私は——
だめだ。
泣く。泣いてしまう。
推しが。
推しが泣きながら笑っている。
推しが17年間閉じ込められていた部屋の外に出て、風を感じて泣いている。
こんなの。
こんなの、耐えられるわけがない。
「お嬢、顔がやばいぞ」
クロードの小声が右から飛んできた。
「やばくないですわ」
「いや、やばい。鼻赤いし」
うるさい。推しの尊さの前では鼻の赤さなど些末な問題だ。
必死に公爵令嬢の微笑みを維持しながら、三人で庭を歩いた。
エミル殿下は一歩ごとに周囲を見回していた。
芝生を踏む感触。木漏れ日。小鳥の声。
全てが、初めて触れるもののような顔をしていた。
湖が見えるベンチに腰を下ろして、少し休む。
エミル殿下が、私に向き直った。
「ヴィオレッタ嬢」
「はい」
「あなたはなぜ、追放されたの?」
来た。
この質問が来ることは予想していた。
「聖女様への非礼を咎められましたの」
簡潔に答えた。嘘ではない。
エミル殿下は少し黙って、それから言った。
「でも——あの式典で、あなたは誰も傷つけていなかった。僕はちゃんと見ていたよ」
まっすぐな目。
嘘も建前もない、真正面からの言葉。
この人は、見ていてくれたのか。
あの大広間の隅で、杖をついて。
私が何をしたか——何をしなかったかを。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「ヴィオレッタ嬢。あなたは僕を助けてくれた」
エミル殿下が、静かに、けれど確かな声で言った。
「——今度は、僕があなたを助ける番だ」
え。
「……は?」
公爵令嬢の仮面が一瞬で剥がれた。
待って。
推しに推されるの、想定外なんですけど。
ゲームにこんなイベントはなかった。
攻略対象ですらないキャラクターに「助ける」と言われるルートなんて、どの攻略サイトにも載っていなかった。
当然だ。エミルは攻略対象じゃないんだから。
8周プレイしてもこの展開は初めてだ。
嬉しい。嬉しいけれど。
そうじゃない。私は推す側。推される側ではない。
「お、お気持ちだけで十分ですわ、エミル殿下」
「気持ちだけじゃ足りないよ」
エミル殿下の語調が変わった。
いつもの穏やかな「だよ」「だね」ではない。
「僕は行動で示すんだ」
断定調。
この人がこんな声を出すところを、8周通じて聞いたことがなかった。
「僕に何ができるかは、まだわからない。でも——必ず見つける」
推しが。
推しが、私のために何かしようとしている。
これは——なんだ。
この感情は、推し活のどのカテゴリーにも収まらない。
「……ありがとうございます、エミル殿下」
それだけ言うのが精一杯だった。
その日の午後。
エミル殿下は離宮の書庫にこもった。
何を調べているのかと覗いてみたら——法律書だった。
「婚約破棄の撤回手続き」「不当追放に対する異議申し立て」。
推しが。
私のために。
法律の本を読んでいる。
何この状況。しんどい。
「エミル殿下、無理はなさらないでくださいまし」
「無理じゃないよ。むしろ、初めて本を読む理由ができた気がする」
首を傾げて笑う。
だめだ。
その笑顔でそういうことを言わないでほしい。
心臓がもたない。
夜。
エミル殿下が療養棟に戻った後、離宮の廊下でクロードと二人になった。
「お嬢、あの王子様に入れ込みすぎじゃねえか?」
クロードが壁にもたれて腕を組んでいる。
「入れ込んでなんかいませんわ。これは推し活ですわ」
「推し活ね。……俺にはわからん世界だ」
クロードが肩をすくめた。
少し沈黙があって、私はずっと気になっていたことを口にした。
「クロード。断罪の夜のこと。あなた、『今回は』って言ったでしょう」
「ん? ああ」
クロードが頭をかいた。
「今回の式典は、お嬢にしちゃ大人しかったって意味だよ。いつもは侯爵家の連中に嫌味の一つも飛ばしてから出てくるだろ。それがなかったから、珍しいなと思っただけだ」
……そういうことか。
「今回は」は、「今回の式典では」。
ループを知っているわけじゃなかった。
当然だ。
この世界でループを知っているのは、私だけ。
少しだけ、孤独を感じた。
「なんだよ、変な顔して」
「何でもありませんわ」
「嘘つけ。まあいいけどな」
クロードは、それ以上は踏み込んでこなかった。
この距離感は、昔から変わらない。
踏み込まない。でも、離れない。
夜も更けてきた頃。
療養棟を訪ねると、エミル殿下がまだ起きていた。
「眠れないの?」
「少しね。——ヴィオレッタ嬢、これ」
エミル殿下が差し出したのは、小さな花束だった。
白百合。
庭に咲いていたものを、数本。
不器用に束ねてあって、茎の長さが揃っていない。
「治療のお礼に。……僕にはこれくらいしかできないけれど」
推しから花を貰った。
推しから。
花を。
貰った。
これは家宝にする。
いや枯れるから押し花にする。
額に入れて飾る。
「——ありがとうございます、エミル殿下」
声が震えなかったのは奇跡だった。
白百合を受け取って、胸に抱えた。
甘い香りが鼻をくすぐる。
窓の向こうに、湖が見えた。
月明かりを受けた水面が、穏やかに凪いでいる。
静かだった。
こんなに静かな夜は、8周の人生で初めてかもしれない。
……でも。
本当に、これでいいのだろうか。
推しを幸せにする。それだけが目的。
推しに何かを返してもらうつもりはなかった。
なのに——この花束が、こんなにも嬉しい。
「自分が幸せになっていいのか」なんて、考えてはいけないのに。
白百合の花びらに、月の光が落ちていた。
客棟に戻ったら、押し花にしよう。
8周目の記念に——たぶん、最初で最後の。
推しからもらった、世界一の花束を。




