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悪役令嬢に転生したけど、“破滅エンド”が8周目なので、今回は全部キャンセルして推しを幸せにすることにした  作者: 月代


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第2話「推しの前では別人」


断罪の夜から一夜。


馬車に揺られたまま眠ってしまったらしい。

目を覚ますと、車窓の向こうに朝靄がかかった湖が広がっていた。


水面が白く光っている。

木々の隙間から、小さな白い館が見えた。


離宮。

第二王子エミル・ルーヴェンスが療養する場所。

私の推しが暮らす場所。


馬車が止まり、御者が扉を開けた。

朝の冷たい空気が頬に触れる。


石畳の道を少し歩くと、離宮の玄関口に白髪の老婦人が立っていた。

管理人だろう。背は小さいが、姿勢がまっすぐで目に力がある。


「ヴィオレッタ・クレティア様でいらっしゃいますね。公爵家からの書状で、お部屋をご用意しております」


公爵家からの書状。


……お父様が手配を?

いや、わからない。公爵家の名を使える人間は父以外にもいる。

深く考えるのは後にしよう。


今はそれよりも。


「あの、エミル殿下は」


「療養棟にいらっしゃいますよ。ご案内いたしましょうか」


心臓がうるさい。


落ち着け。

落ち着きなさい、ヴィオレッタ・クレティア。


あなたは8回の人生を生きた歴戦の悪役令嬢。

7回死んで7回蘇った鋼のメンタル。

今更、推しに会うくらいで——


動揺するに決まっているじゃない。

だって推しだもの。


客棟に荷物を置き、身なりを最低限整えてから療養棟へ向かった。

離宮は質素だが清潔で、白い壁に蔦が静かに絡んでいる。


療養棟は本館から短い渡り廊下で繋がっていた。

管理人に案内され、二階の一室の前に立つ。


扉をノックする指先が、かすかに震えた。


「どうぞ」


穏やかな声。

聞き覚えがある。8周分の記憶に刻まれた声。


扉を開けた。


窓辺のベッドに、少年が座っていた。


淡い金髪が朝日に透けている。

灰青の瞳が、こちらを向いた。

傍らの小さなテーブルに、白百合を活けた花瓶。


エミル・ルーヴェンス殿下。


設定資料集では一行だった。

「病弱な第二王子。離宮で療養中」——それだけ。

立ち絵もボイスもなかったキャラクターが、今、目の前にいる。


朝日に照らされた金髪。白い指。呼吸の音。


画面越しじゃない。本物の、生きている推し。


距離、約3メートル。

全周回通じて過去最短記録を大幅更新。


呼吸を忘れかけた。


「あなたは——昨夜の式典で、兄上に僕のことを頼んでくれた人だね」


エミル殿下が、少し首を傾げて微笑んだ。


あの癖だ。

笑う時に首を傾げる癖。ゲームでは知り得なかった、転生して初めて知った仕草。目の前で見ると破壊力が桁違いだった。


「は、はい。ヴィオレッタ・クレティアと申しますわ」


声が裏返らなかっただけ偉い。自分で自分を褒めたい。


「エミル殿下は、なぜ昨夜の式典に? お体のことを考えれば、無理をなさる場では——」


「ああ、主治医が勧めてくれたんだ。たまには外の空気に触れた方がいいって。僕も、ずっとこの部屋にいるだけだったから」


主治医の助言。

それが理由だったのか。


7周目まで、エミル殿下は一度も断罪の場に現れなかった。

今回だけ主治医が外出を勧めた。

偶然かもしれない。


どちらにせよ。

あの場にいてくれたから、私は最後にこの人の顔を見られた。

それだけで、8周目の断罪に感謝できる。


「それで、ヴィオレッタ嬢。あなたはなぜ、ここに?」


穏やかだけれど、まっすぐな問い。

灰青の瞳がこちらを見つめている。


嘘をつかなければならない。


8周の記憶のことは話せない。ましてや前世の記憶も、ゲームの世界だということも。

呪いのことを知っている理由も、そのままでは説明できない。


私は公爵令嬢の微笑みを貼り付けた。


「エミル殿下のご病気について——偶然、古い文献で似た症例を見つけましたの。お力になれるかもしれないと思い、参りましたわね」


「ね」がついた。


自分で気づいた。「参りましたわね」——嘘をつく時の癖が出ている。

8周生きても、この癖だけは直らない。


エミル殿下が少し首を傾げた。

怪訝な顔、ではない。純粋な不思議そうな顔。


「古い文献に? ……不思議だね。宮廷魔術師も、僕の体質については匙を投げたのに」


「宮廷魔術師の方々は優秀ですわ。ただ——少し、視点が違うだけですの」


これは嘘ではない。

宮廷魔術師が見落としたのは、エミル殿下の症状が「病気」ではなく「呪い」だという点。


ゲームの設定資料集には「病弱」としか書かれていなかった。

呪いだと気づいたのはゲーム知識ではなく、転生後の周回経験だ。

3周目で宮廷魔術師が無能だと気づいた。5周目で独学を始めた。7周目で呪いの構造まで辿り着いた。


前世の知識と、8周分の現地調査。その二つを重ねて、ようやくここに立っている。


「エミル殿下、お手を拝借してもよろしいですわ?」


少し迷ったような間があった。

それから、エミル殿下が細い手首を差し出してくれた。


白い肌。

その下に——肉眼ではほとんど見えない呪紋が潜んでいる。


右耳のイヤリングに触れた。

紫水晶。母の形見にして、魔力を増幅する触媒。


小さく詠唱を唱える。


紫水晶が淡く光り——エミル殿下の手首に、複雑な幾何学模様が浮かび上がった。


青白い光の線。何層にも重なった術式。

外層、中層、そしてさらに奥に深層。


呪紋。


間違いない。これが8周かけて辿り着いた、エミル殿下の「病」の正体。


エミル殿下が自分の手首を見つめていた。

灰青の瞳が大きく見開かれている。


「——これが、僕の体にあるもの?」


声が震えていた。

怯えではない。もっと根本的な衝撃。


自分を17年間蝕んでいたものの正体を、初めて目にした人間の顔だった。


「呪紋と呼ばれるものですわ。これがエミル殿下のお体を蝕んでいる原因です」


「呪い……。僕は、病気じゃなかったの?」


「はい。術式を段階的に解読して上書きすることで、弱体化できます。完全に解除するには術者の特定が必要ですけれど——まず、外側から順に」


「治療を始めてもよろしいですわ?」


「……うん。お願いするよ」


エミル殿下は小さく頷いた。

声はまだ揺れていたけれど、瞳には怯えよりも希望が浮かんでいた。


詠唱を組む。

紫水晶に魔力を通し、呪紋の外層——最も表面の術式に狙いを定める。


魔力が指先から呪紋へ流れ込む感覚。

外層の術式が軋み、ひび割れ、崩れていく。


額に汗が浮かんだ。

外層一つでこの消耗。中層、深層はさらに厳しくなる。


けれど——表情には出さない。


推しの前で弱みは見せない。

これはオタクの矜持だ。


最後のひと押し。

外層の術式が砕けて消えた。


エミル殿下が、小さく息をついた。


「……温かい」


手首をそっと握りしめている。


「ずっと、胸の奥が冷たかったんだ。氷を飲み込んだみたいに、ずっと。——それが、少しだけ溶けた気がする」


その横顔を見た瞬間、私の中で何かが決壊しかけた。


推しが——楽になった顔をしている。

推しの苦痛が、ほんの少し和らいだ。


泣きそうになった。

ゲームの画面越しでは絶対に見られなかった顔だ。転生して、8周かけて辿り着いた場所だった。


「お疲れでしょう。お茶を入れますわね」


逃げるように台所に向かい、棚を開けた。

迷わずカモミールティーの茶葉を選ぶ。


湯を注いで、エミル殿下の元に戻る。


カップを差し出しながら、窓辺の白百合の花瓶の水が少し濁っていることに気づいた。

水を替えよう。替えたついでに花の向きも整えて——エミル殿下は左利きだから、花瓶はベッドの右側に置いた方が視界に入りやすい。


「あ、そうだ。エミル殿下はフェリクス・レーヴェの詩集はお好きですわよね。最近の版には新しい序文が——」


言いかけて、口を閉じた。


エミル殿下がこちらを見ていた。


微笑みはない。

驚きとも違う。


もっと深い何かを見るような目。


「……ヴィオレッタ嬢」


「は、はい」


「僕は初対面の人に、ここまで理解されたことがない」


静かな声だった。


「カモミールティーが好きなこと。白百合が好きなこと。フェリクス・レーヴェの詩が好きなこと。——全部、僕が誰にも言ったことがないことだ」


しまった。


やりすぎた。

オタクの知識をうっかり全開にしてしまった。


カモミールティーも白百合もフェリクス・レーヴェも、ゲームの設定資料集には載っていない。全部、転生してから8周かけて私が見つけた情報だ。


それを初対面で完璧に並べたら、そりゃ怪しい。


「あなたは一体、何者なの?」


灰青の瞳がまっすぐに私を射抜く。


何者か。

ゲームの悪役令嬢に転生した元オタクで、8周分の人生であなたを見続けた変態です、とは言えない。


言えるわけがない。


私は——一瞬だけ迷って、口を開いた。


「あなたの……ファン、ですわ」


エミル殿下が首を傾げた。


「ファン?」


あ。


「ファン」の概念がこの世界にない。

前世の語彙がつい出た。


「え、えっと——応援している者、という意味ですわ。遠くからお慕い申し上げていた、というか」


「応援? 僕を?」


「はい。ずっと——ずっと、応援しておりましたの」


これだけは嘘じゃない。

前世で設定資料集の一行に惹かれた時から、ずっと。

語尾にも「ね」はつかなかった。


エミル殿下は不思議そうな顔のまま、カモミールティーに口をつけた。

一口飲んで、ほんの少しだけ目を細めた。


「……おいしい。この淹れ方、好きだな」


推しに推し活の成果を褒められた。

死んでもいい。いや8回死んでるからもう死にたくないけど。


そこに——階段を上がる足音が聞こえた。


重い革靴の音。

見覚えのある足音。


療養棟の部屋の入口に、黒髪の長身が現れた。


「よう、お嬢。離宮ってのはまた辺鄙なところを選んだもんだ」


クロード。


黒髪を無造作に束ね、口の端を皮肉に吊り上げたいつもの顔。

旅装のまま、剣を腰に提げている。


ゲームでは名前だけのモブ。でもこの世界では、8周全てで私のそばにいてくれた男。


「クロード、あなたまでここに?」


「お嬢、俺も追放されたようなもんだからな。主家が追放されりゃ騎士も同じだ。行くあてもないし、護衛でもさせてくれ」


軽い口調。

でも、その目は笑っていなかった。


クロードはいつもそうだ。

どの周回でも、私が追放されると必ずついてきた。


理由を聞いたことはない。

「主家の騎士だから」——それだけだと、私は思っていた。


「ありがとう、クロード。助かりますわ」


「よせよ、気持ちわりい。お嬢に感謝されると調子が狂う」


クロードがエミル殿下に視線を向けた。


「で、こちらの王子様が例の?」


「例の、とは失礼ですわよ。エミル殿下です」


エミル殿下がベッドの上から小さく会釈した。

クロードも、いつもの皮肉な笑みのまま軽く頭を下げる。


「クロード・ベルティエだ。お嬢の幼馴染で、元クレティア公爵家騎士。……まあ、今はただの用心棒だな」


「よろしくね、クロード」


「おう、王子様」


こうして離宮の住人が三人になった。


追放された公爵令嬢。

病弱な第二王子。

行き場をなくした騎士。


世間的に見れば、見事な負け組の集合だ。


けれど——不思議と、悪い気分ではなかった。


夕暮れ。

客棟の自室に戻り、一人になる。


窓から湖が見えた。

夕陽を受けた水面が、赤く燃えている。


右耳のイヤリングに触れた。


クロードは毎周回、私について来てくれる。


その理由を、私はちゃんと考えたことがない。

「忠誠心」だけでは説明がつかないことに、本当は気づいている。


でも——今は。


今は、推しのことだけを考えさせてほしい。


エミル殿下の「温かい」という言葉が、まだ耳に残っていた。


たった一つ外層を解いただけで、あの顔をしてくれた。

もっと解けば。全部解ければ。


あの人はきっと、もっと笑ってくれる。


その笑顔を見届けることが——この8周目の、私の全てだ。


「……頑張れ、私」


誰に聞かせるでもなく、呟いた。


窓の外で、湖の上を風が渡っていった。

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