第1話「8回目の断罪イベント」
「——ヴィオレッタ・クレティア。貴女の罪を、ここに糾す」
王太子アルベルトの声が、大広間に響き渡った。
高い天井に、シャンデリアの魔導灯が冷たく瞬いている。
卒業式典の華やかな空気は既に消え、貴族たちが私を取り囲むようにして沈黙していた。
知っている。
この配置。この照明。この沈黙。
全部、知っている。
「聖女リゼット・フォンティーヌに対する度重なる侮辱、及び王家への不敬——」
アルベルトが朗々と罪状を読み上げていく。
金髪碧眼、隙のない軍服姿。腕を組んで私を見下ろすその顔には、一片の迷いもない。
……8回目か。
私はそっと息を吐いた。
8回目の人生。
8回目の卒業式典。
8回目の——断罪イベント。
前世の記憶がある。
日本で大学生をやっていた。
乙女ゲーム『永遠のティアラ』が好きだった。推しキャラのグッズを集めて、二次創作を漁って、友達と布教し合う——ごく普通のオタクだった。
交通事故で死んだ。
気がついたら、このゲームの世界にいた。
しかも——よりによって悪役令嬢ヴィオレッタ・クレティアとして。
『永遠のティアラ』におけるヴィオレッタの役割は明確だ。
聖女ヒロインに嫌がらせを繰り返し、卒業式典で王太子に断罪され、婚約破棄のうえ追放される。
いわゆる「断罪イベント」の噛ませ犬。
プレイヤーが王太子ルートをクリアする時、必ず踏む踏み台。
それが——私。
1周目。
転生に気づいた私は、ゲーム知識を総動員して破滅を回避しようとした。
聖女に近づかず、王太子の機嫌を取り、断罪フラグを一つずつ折った。
無駄だった。
ゲームにない理由で断罪され、追放され、街道で暗殺者に殺された。
2周目。
婚約破棄を回避する方向を変えた。聖女と和解しようとした。成功したと思った矢先、毒を盛られた。
3周目。
国外逃亡を試みた。追手に捕まり、牢獄で処刑された。
4周目。
黒幕の存在に気づいて告発した。証拠不足で処刑された。
5周目。
独学で魔術を学んだ。知識だけでは運命は変わらなかった。
6周目。
聖女と和解した。別の罠が発動した。
7周目。
全てを組み合わせた。あらゆる知識と人脈と戦略を投入した。
それでも——死んだ。
あらゆる手を尽くした。
あらゆる選択肢を試した。
全部、ダメだった。
ゲームの運命は、変えられない。
7回死んで、ようやく理解した。
「——以上の罪状により、ヴィオレッタ・クレティアとの婚約を破棄する」
アルベルトの宣告が落ちる。
どよめきが広間を満たした。
ざわめきの中に、嘲笑や同情や好奇心が混じっているのが、音だけでわかる。
これも8回聞いた音だ。
もう何も感じない——と思った、その時。
大広間の隅に、見慣れない姿を見つけた。
柱の影に、杖をついて立つ少年。
淡い金髪。
灰青の瞳。
陶器のように白い肌。
——第二王子エミル・ルーヴェンス。
心臓が跳ねた。
エミル殿下が断罪の場にいる。
7周目までは一度もなかった。
なぜ——。
いや。
理由はどうでもいい。
私の目は、もうエミル殿下から離せなくなっていた。
エミル殿下。
『永遠のティアラ』において、攻略対象ですらないキャラクター。
ゲーム本編には一度も登場せず、設定資料集に「病弱な第二王子。離宮で療養中」と一行だけ書かれていた存在。
立ち絵もない。ボイスもない。イベントもない。
なのに——前世の私は、この一行に心を撃ち抜かれた。
病弱で離宮に隔離された王子。
誰にも顧みられない不遇の存在。
設定資料集のたった一行から、この人がどんな日々を過ごしているのか想像した。
二次創作を書いた。一人だけでは飽き足らず友達を巻き込んだ。グッズがないから自分で作った。
そして転生してからの8周で、ゲームでは知り得なかったことを全部知った。
好きな花は白百合。好きな飲み物はカモミールティー。好きな詩人はフェリクス・レーヴェ。笑う時にほんの少し首を傾ける癖がある。
設定資料集の一行は、こんなにも豊かな一人の人間だった。
推し。
前世から合わせて、ただ一人の推し。
「——ヴィオレッタ・クレティア」
アルベルトの声で我に返る。
「何か申し開きはあるか」
この問い。
7回聞いた。
1周目は泣きながら弁明した。
2周目は冷静に反論した。
3周目は沈黙で返した。
4周目は黒幕の名を叫んだ。
5周目は聖女に和解を申し出た。
6周目は——もう覚えていない。
7周目は、全てを諦めた顔で笑った。
8周目の私は。
大広間の向こう側、柱の影に立つ少年を見た。
そして——口を開いた。
「王太子殿下」
声は静かに響いた。
「一つだけ、お願いがございます」
アルベルトの碧い目がわずかに動いた。
困惑。7回分のどの反応とも違う表情だった。
「——弟君を、大切になさってくださいませ」
大広間が、凍った。
ざわめきが止まった。
アルベルトの腕を組む姿勢が固くなるのが見えた。
私の言葉が予想外だったのだろう。
当然だ。
8回目にして初めて、私は自分のことを一切口にしなかった。
遠くで、エミル殿下が目を見開いたのが見えた。
杖を握る手に力が入ったのか、白い指が強張っている。
それだけで十分だった。
最後に推しの顔を見られた。
それだけで、この8周目に意味がある。
私は深く一礼した。
銀紫の髪が肩から流れ落ちた。
そのまま、大広間を去った。
振り返らなかった。
足音だけが廊下に響く。
窓の外は夜で、月が冷たく光っていた。
ドレスの裾を引きずりながら歩く。
もう、この城に用はない。
「お嬢」
声がした。
廊下の柱に背を預けて、腕を組んだ男が立っていた。
黒髪を無造作に束ねた長身。口の端を吊り上げた、皮肉な笑い。
クロード・ベルティエ。
クレティア公爵家の騎士にして、私の幼馴染。
ゲームでは名前だけのモブだった。立ち絵もなければ台詞もない。
でも転生してみたら、こんなに口が悪くて、こんなに頼りになる男だった。
「今回はずいぶんあっさりだったな」
今回は。
その二文字に、足が止まった。
「……クロード。あなた、今——」
「ん? 今回の式典は、お嬢にしちゃ珍しく大人しかったと言いたかっただけだが。何か変なこと言ったか?」
首を傾げるクロードを見て、私は小さく息を吐いた。
そう。
そういう意味か。
……少し、過敏になっていたらしい。
「それで、行き先は? 修道院か?」
「いいえ」
私は迷わず答えた。
「離宮ですわ」
クロードの眉が上がった。
「離宮? 王都郊外の? ……お嬢らしくねえ選択だ」
「らしくない、ですわね」
足を止めて、窓の外の月を見る。
「でも、もう”らしさ”なんてどうでもいいの」
クロードが一瞬黙った。
何か言いかけて——やめたのが、気配でわかった。
私は歩き出した。
城門に向かって、まっすぐに。
馬車はもう手配されていた。
誰が手配したのかはわからない。けれど、行き先が離宮であることを示す書状が御者の手に握られていた。
不思議に思ったが、今はそれよりも——。
馬車に乗り込む直前、右耳のイヤリングに触れた。
紫水晶。
母の形見。
ゲームにはない設定。転生してから初めて知った、この世界だけの真実。
どの周回でも、これだけは必ず私の手元にあった。
「お母様」
小さく呟いた。
「今回だけは——誰かを幸せにして終わりたいの」
馬車が動き出す。
車窓の向こうで、王都の灯りが遠ざかっていく。
幸せにはなれない。
それはもう、7回の人生で嫌というほど証明された。
ゲームの悪役令嬢に、ハッピーエンドはない。
でも。
推しの笑顔を一度でも見られたら。
画面越しじゃなく、この目で。この世界で。
あの人が、少しでも楽になれたら。
それだけで——8周目の人生に、意味をあげられる。
馬車は夜の街道を走る。
王都の喧騒が消えて、虫の声だけが聞こえた。
目を閉じた。
次に目を開ける時は——離宮。
設定資料集の一行だけのキャラクターが、現実として生きている場所。
私の、たった一人の推しがいる場所。
…………。
……ていうか。
冷静に考えて、推しと同じ屋根の下で暮らすんですけど。
前世で二次創作を300本書いた推しと同じ屋根の下。
8回死んだ経験より、そっちの方がよっぽど怖いんですけど。
心の準備が全然できていないまま、馬車は湖畔へ向かって走り続けた。




