第四話 離縁から一年後
離縁後、私は慰謝料として譲られた南部のルーヴェル荘へ移った。
屋敷は古く、長く使われていなかったため、窓枠には埃が積もり、庭は腰の高さまで草が伸びていた。
けれど、朝になると東向きの窓から柔らかな光が入り、遠くには葡萄畑が広がっている。
私は使用人たちと一緒に家具を運び、傷んだ壁紙を剥がし、少しづつ手を入れる。
領民から話を聞き、放置されていた水路を修繕し、冬に備えて共同倉庫へ穀物を積んだ。
屋敷の一角は、夫や父親を失った女性が働ける縫製所として開放した。
領内にあった古い修道院を改修し、孤児や行き場を失った子どもたちのための施設も設けた。
忙しい日々。
朝から晩まで歩き回り、夜は疲れて寝台へ倒れ込む。
けれど、胸に空洞が開くことはなかった。
自分で選び、自分で決めた日々だからだ。
「こちらの水路は、アシュフォード領まで繋がっています。修繕するなら、向こう側とも工期を合わせた方がよろしいかと」
家令の言葉を受け、私はアシュフォード公爵家へ書状を送った。
数日後、返事だけでなく、レオンハルト本人が視察へ訪れた。
「公爵様ご自身がお越しになるとは思いませんでした」
「君が作った工事計画が、私の家臣が出したものより詳しかったのでね。誰が書いたのか確かめたくなった」
「私が書きました」
「やはり」
レオンハルトは僅かに笑った。
「以前の備蓄会議でも、君だけが避難民の人数だけでなく、乳児の数と必要な薪の量まで計算していた」
「覚えていらしたのですか」
「君は、自分が思っているより目立つ」
胸が小さく鳴った。
彼は私を、裏切られた哀れな女として見ていない。
私が何を考え、何をしてきたかを覚えている。
それからレオンハルトは、水路工事や物資の輸送について協議するため、たびたびルーヴェル荘を訪れるようになった。
訪れるたび、彼は孤児院へ足を運び、子どもたちの名前を覚えた。
厨房で働く女性が意見を述べても遮らず、畑の作業をしている老人にも自分から声をかける。
ある日、子どもたちにせがまれて木馬を直していた彼の袖へ、木屑がびっしりと付いていた。
「近衛騎士団長に、何をさせているのですか」
「剣より難しい」
「代わりましょうか」
「いや。ここまでやった以上、完成させる」
真剣な顔で小さな車輪と格闘する姿に、私は声を立てて笑った。
笑った後、自分でも驚いた。
誰かの前で、これほど無防備に笑ったのはいつ以来だろう。
レオンハルトが顔を上げる。
「やっと笑ったな」
「私、普段も笑っております」
「社交用の笑顔ではなく」
頬が熱くなった。
彼は追及せず、再び木馬へ視線を戻した。
その横顔を見つめながら、胸の内側へ温かなものが広がっていくのを感じた。
離縁から一年後。
私はレオンハルトのエスコートで、王宮の夜会へ出席した。
淡い青銀色のドレスに袖を通し、彼の腕へ手を添える。
大広間へ入った瞬間、多くの視線が集まった。
好奇。
同情。
値踏み。
扇の陰から、声を潜めた囁きが聞こえる。
「夫に捨てられた方が、今度はアシュフォード公爵様に取り入ったそうよ」
「お気の毒だから、憐れみをかけていらっしゃるのでしょう」
「一度離縁された女性を、公爵夫人に迎えるはずがありませんわ」
以前の私なら、聞こえないふりをしただろう。
けれど、今は違う。
私は足を止め、扇を持った婦人たちへ向き直った。
「訂正させてくださいませ。私は夫に捨てられたのではありません。夫と妹の不貞を暴き、出生記録と爵位継承の偽装を企てた男を、私から切り捨てました。今後、私についてお話しになる際は、どうぞ事実をお間違えになりませんように」
婦人たちの顔が強張り、周囲の会話が止まった。
「レティシア」
「何でしょう」
「私が口を挟む必要はなかったな」
「私自身のことですもの」
「その通りだ」
隣に立つレオンハルトの声は、どこか楽しげだった。
彼は婦人たちへ視線を向けた。
「もう一つ、誤りを訂正しておこう。私はレティシアに憐れみをかけているのではない。彼女の判断力と行動力を尊敬し、一人の女性として心から好ましく思っている」
婦人たちの顔色が変わる。
私は息を止めた。
「レオンハルト様」
「続きは、二人きりの場所で話そう」
彼は何事もなかったように腕を差し出す。
夜会が終わった後、レオンハルトは私を王宮の中庭へ連れ出した。
春の夜気には、咲き始めた薔薇の香りが混じっていた。
「先ほどの言葉についてですが」
「取り消すつもりはない」
彼は私の正面へ立った。
「私は、以前から君を知っていた。夫の隣で黙って微笑む姿ではなく、備蓄表の間違いを指摘し、避難所へ毛布を追加させ、誰も気に留めなかった者の名前を覚えている君を」
胸の奥が強く脈打つ。
「審問の後、君は誰かに寄りかかるのではなく、自分の足で新しい場所へ立った。私は、その姿に惹かれた」
「私は一度、夫という人を見誤りました」
「知っている」
「また同じことになるのではないかと、怖くなることがあります」
「当然だろう」
レオンハルトは、安易に否定しなかった。
「傷を消せるとは言わない。過去をなかったことにするつもりもない。君が歩いてきた三年間も、そこから立ち上がった時間も、すべて君のものだ」
彼の指先が、私の手へ触れる。
喉の奥が熱くなる。
強引に掴まず、離れようと思えば離れられるほどの触れ方だった。
「私は、その時間ごと君を大切にしたい」
「すぐに答えを求めるおつもりですか」
「いや。君が自分で選んだと言えるまで待つ」
「では、今、お答えします」
レオンハルトの目が見開かれた。
「私は、あなたと生きてみたい」
声が震えた。今度は恐怖ではない。
差し出された未来へ、自分から手を伸ばす緊張だった。
「私も、レオンハルト様をお慕いしています」
彼はゆっくりと息を吐き、私の手を両手で包んだ。
「レティシア。私と結婚してくれるか」
「はい」
月明かりの下で、深い青色の石が嵌められた指輪が、私の指へ収まった。
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