第二話 夫と妹の企み
結婚三年目の春。
フィオナが、朝食の席へ姿を見せなくなった。
「少し気分が悪いだけよ。季節の変わり目だから、身体がついていかないのだと思うわ」
寝台の上で、フィオナは青ざめた顔を逸らした。
「侍医を呼びましょう」
「必要ないわ」
「顔色がよくないもの。診てもらった方が安心でしょう」
「放っておいて!」
突然上げられた声に、私は目を瞬いた。
フィオナはすぐに口元を押さえる。
「ごめんなさい、お姉様。少し、苛立ってしまって」
「……分かったわ。けれど、続くようなら必ず診察を受けなさい」
部屋を出た後も、違和感は消えなかった。
吐き気。
食欲の変化。
きつく締めた衣装を嫌がるようになったこと。
まさか、と思った。
けれど、そのまさかを確かめる勇気が、私にはない。
決定的な瞬間が訪れたのは、それから半月ほど経った雨の夜。
隣領との治水協議が予定より早く終わり、私は一日早く王都の屋敷へ戻った。
玄関で出迎えた侍女へ唇の前に指を立てる。
「皆を驚かせたいの。マルクス様には、まだ知らせなくてよいわ」
濡れた外套を預け、廊下を歩いた。
屋敷の奥にある小居間から、灯りが漏れている。
聞き慣れた男の声と、妹の声。
扉へ近づいたところで、マルクスの言葉が耳に届いた。
「もう少しの辛抱だ。腹が目立つ前に、別邸へ移ればよい」
「でも、お姉様に気づかれたら」
「レティシアには療養を理由に領地へ向かわせる。出産の時期だけ重なるよう、侍医に記録を書かせればいい」
「本当に、この子をお姉様の子として届け出せるの?」
「ああ。辺境伯家の嫡子として育てる。君も乳母としてそばにいれば、離れずに済む」
指先から体温が消えた。
息を吸っても、肺へ空気が入ってこない。
扉の隙間から見えたのは、ソファに並んで座る二人だった。
マルクスはフィオナの肩を抱き、もう片方の手を、まだ膨らみの目立たない腹部へ添えている。
「この子は私たちの子だ。必ず守る」
三年間、どれだけ望んでも私には一度も向けられなかった声。
優しく、甘く、慈しみに満ちている。
胸の奥で何かが砕けた。
けれど不思議と、涙は出なかった。
私は静かに扉を開けた。
「その計画を、もう一度、初めからご説明いただけますか」
二人が弾かれたように振り返る。
フィオナの顔から血の気が引き、マルクスは立ち上がった。
「レティシア。なぜ、ここに」
「協議が早く終わりましたので、一日早く戻りました」
部屋の中へ入り、扉を閉める。
「今のお話は、すべて聞きました。フィオナの産む子を、私が産んだことにするおつもりなのですね」
「誤解だ」
「どの部分が誤解なのでしょう。私を領地へ追いやり、フィオナを別邸で出産させ、侍医に偽の記録を書かせる。そう仰っていましたわ」
「声を抑えろ」
「なぜですか。誰かに聞かれては困るお話だからでしょうか」
私は壁際へ歩き、呼び鈴の紐を強く引いた。
「何をしている」
「証人を呼びました」
「人払いをしろ、レティシア」
「いいえ。三年間、あなたの望みを尊重してまいりました。今度は、私の望みを聞いていただきます」
私はマルクスをまっすぐに見据えた。
ほどなくして、家令と侍女長が駆けつけた。
「奥様、お呼びでしょうか」
「二人とも、こちらへ。扉を閉めてください」
「出ていけ」
「留まりなさい」
相反する私とマルクスの命令に、家令は一瞬迷った後、私の背後へ立った。
この屋敷を三年間切り盛りしてきたのは私だ。使用人たちは、誰が女主人であるかを理解していた。
「マルクス様。フィオナの子を、私の産んだ嫡子として届け出るおつもりだったのですね」
「今ここで話すことではない」
「では、否定なさるのですか」
「私は、家の将来を考えて」
「否定なさるのかをお答えください」
私はもう一度問いかけた。
同じ問いを重ねると、マルクスの眉間に深い皺が寄った。
「君との間に子を成すことはできなかった。だが、跡継ぎは必要だ。フィオナが私の子を宿した以上、最善の方法を選ぶしかないだろう」
「姉である私を偽りの母親に仕立てることが、最善なのですか」
「君も子を欲しがっていただろう。望みを叶えてやろうとしたのだ」
「私が望んでいたのは、自分を欺いた夫と妹の子を抱くことではありません」
唇は震えていなかった。
声も乱れない。
三年間、妻として、辺境伯家の次期当主夫人として身につけてきたものが、皮肉にも私を支えていた。
「フィオナ。あなたも、この計画に同意していたのですね」
妹は胸元を押さえ、涙を浮かべた。
「だって……仕方がなかったの。私、マルクス様を本当にお慕いしてしまったのよ」
「それは、姉の夫と関係を持つ理由にはなりません」
「お姉様とは白い結婚だったのでしょう?マルクス様は、お姉様には触れられないと仰っていたわ。だったら、私がこの方の子を産んでもいいじゃない」
「よいわけがありません」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
白い結婚だったことまで、マルクスは話していた。
私が誰にも知られまいと守り続けた秘密を、二人は寝室で笑いながら分け合っていたのだろうか。
「私は三年間、この方の言葉を信じてきました。子を抱く友人を羨ましく思っても、夫婦にはそれぞれの形があるのだと自分を納得させた。あなた方は、その時間をすべて踏みにじったのです」
「大袈裟だ」
マルクスが苛立ったように吐き捨てた。
「悟られなければ、誰も不幸にはならなかった。君は嫡子の母となり、フィオナは子のそばにいられる。私は跡継ぎを得る。皆が望むものを手に入れられた」
「私だけが、真実を知らされないまま一生を過ごすのですね」
「知らなければ傷つかずに済んだ」
その言葉で、最後に残っていた迷いが消えた。
「家令」
「はい」
「この部屋にある手紙、帳簿、薬の領収書をすべて回収し、鍵の掛かる書庫へ運びなさい。マルクス様とフィオナの部屋にも人を向かわせて。何一つ持ち出させてはなりません」
「承知いたしました」
「侍女長は、今聞いたことを記録してください。ほかに事情を知る使用人がいれば、名前を控えるように」
「はい、奥様」
マルクスが私の腕を掴もうとすると、私は一歩下がりその手を避ける。
「レティシア、待て。何をするつもりだ」
「グランディエ公爵家と王宮へ報告いたします」
「夫婦の問題だ」
「いいえ。王家が認可する出生記録と、辺境伯家の継承を欺こうとした問題です」
マルクスの顔が、初めて明確に青ざめた。
「頼む。それだけはやめてくれ。父上に知られれば、私は」
「あなたは今、失うものが怖いのですね。けれど、もう遅いのです」
三年間、私が何を失ってきたかなど、一度も尋ねなかった男が。
私は家令へ視線を向けた。
「公爵家へ早馬を。それから王宮の婚姻監察官へ、出生記録偽造の企てを発見したと伝えてください」
「レティシア!」
「二人を別々の部屋へ。許可なく面会させないように」
背後でマルクスが私の名を叫んでいた。
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