第一話 三年間の白い結婚の始まり
「私は、君と子を持つ気はない」
結婚式の夜、寝室へ入るなり、マルクスはそう言い放った。
「これは政略結婚だ。グランディエ公爵家との縁を繋ぐためのものであって、それ以上でも以下でもない。悪いが、君に閨で触れるつもりはない。離婚さえしなければ、互いに不都合はないだろう」
私、レティシア・フォン・グランディエは、当時二十一歳。
国境防衛を担うエルンハルト辺境伯家の跡取り、マルクス・フォン・エルンハルトとの縁談は、王命に近い形で決まった政略結婚だった。
剣と兵を持つエルンハルト辺境伯家。
宮廷内で強い発言力を持つグランディエ公爵家。
両家の結びつきは、王国にとって重要な意味を持っていた。
恋を望んでいたわけではない。
それでも夫婦になる以上、互いを尊重し、いつか家庭と呼べる場所を築いていくのだと、私なりに覚悟を決めていた。
だから、子を持つつもりはないと告げられたとき、返す言葉が見つからなかった。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「君に瑕疵があるわけではない。ただ、私はそうした関係を望んでいない。分かってくれ」
私は膝の上で指を組み、爪が食い込むほど強く握った。
「このことを、両家は承知しているのですか」
「わざわざ知らせる必要はない。夫婦の寝室のことだ」
「跡継ぎは」
「弟か、傍系の者を養子に迎えればよい」
あまりにも淡々とした口調だった。
私が何を諦めることになるのか、考えてすらいないのだろう。
「承知いたしました」
唇から出た声は、自分のものとは思えないほど静かだった。
政略結婚なのだから、愛を求めてはいけない。
夫婦の形は一つではない。
互いの務めさえ果たせばよい。
そう自分に言い聞かせた。
そして私は、その夜の言葉を三年間信じ続けた。
マルクスは、社交界では評判のよい夫だった。
舞踏会では必ず私をエスコートし、誕生日には宝石やドレスを贈る。屋敷の切り盛りにも口を挟まず、領地経営に関する私の提案にも耳を傾けた。
人前では穏やかに微笑み、私の肩へ手を添える。
けれど、寝室だけは別だった。
手を握られたことも、抱き締められたこともない。
夜会から戻った後、互いに礼を告げ、それぞれの部屋へ引き上げる。それが私たち夫婦の日常だった。
「マルクス様には、ほかに想う方がいらっしゃるのではありませんか」
親しい友人から尋ねられたこともある。
「いいえ。あの方は誰よりも品行方正な方ですもの。もしそのような女性がいれば、どこかで噂になっているはずですわ」
そう答えながら、胸の奥には冷たいものが沈んでいた。
本当に女性を求めない人なのだろうか。
それとも、私だけが求められていないのだろうか。
答えを知るのが怖くて、疑問ごと呑み込んだ。
友人たちが懐妊し、子を腕に抱くたび、羨ましいと思った。
祝福の言葉を贈りながら、自分の腹部へ無意識に手を添えた夜もある。
それでも私は、マルクスを責めなかった。
彼が最初に示した条件を受け入れたのは自分だ。
これが私たちの夫婦の形なのだと、何度も心へ言い聞かせてきた。
私には二つ下の妹、フィオナがいた。
明るく愛嬌があり、欲しいものを素直に口へ出せる娘だった。
幼い頃から、両親は私よりもフィオナを可愛がった。
姉なのだから譲りなさい。
フィオナはまだ小さいのだから我慢なさい。
何度そう言われたか分からない。
フィオナが私の髪飾りを欲しがれば渡し、気に入っていた菓子を欲しがれば皿ごと譲った。
私は姉だから。
私は公爵家の長女だから。
聞き分けのよい娘でいなければならない。
そうして育った私とは対照的に、フィオナは欲しいものを欲しいと言えば、誰かが与えてくれることを疑わない娘になった。
結婚からニ年目。
二十一歳になっても良縁が決まらないフィオナを心配した両親から、私の屋敷で預かってほしいと頼まれた。
「王都にあるエルンハルト家の屋敷なら、社交の機会も増えるでしょう。あなたの話し相手にもなるはずよ」
母はそう言った。
断れば、冷たい姉だと思われる。
何より、実の妹が困っているのだ。姉である自分が手を差し伸べるべきだと考えた。
「マルクス様。フィオナをしばらくこちらへ置いてもよろしいでしょうか」
「君の妹なら、私は構わない」
マルクスは快く了承した。
フィオナは私付きの女官という名目で、屋敷に移り住んだ。
最初のうちは、何の問題もなかった。
食事を共にし、流行のドレスについて話し、夜会にも連れていった。
「お姉様が羨ましいわ。こんなに立派なお屋敷で、素敵な旦那様と暮らしているのですもの」
「見えているものだけが、すべてではないのよ」
私が笑って返すと、フィオナは首を傾げた。
白い結婚について、妹にも話したことはなかった。
夫婦の事情を外へ漏らすべきではないと考えていたからだ。
今思えば、フィオナは屋敷へ来て間もない頃から、私とマルクスの関係を探っていたのだろう。
「お姉様とマルクス様は、あまりお二人で過ごされないのね」
「互いに務めがありますもの」
「寝室も別なのでしょう?」
「どうして、そのようなことを聞くの」
「侍女たちが話しているのを聞いただけよ」
窘めると、フィオナは悪びれもせず笑った。
それから一年ほど経った頃、マルクスの様子が変わり始めた。
遠征や視察の日程を短く切り上げ、屋敷で過ごす時間が増えた。
以前なら夕食に間に合わない日も多かったのに、フィオナが屋敷へ来てからは、日が暮れる前に帰宅することも珍しくない。
フィオナも身なりを気にするようになった。
朝から髪を結い直し、新しい香水を欲しがり、マルクスが好む色のドレスを選んで着た。
二人が会話しているときに私が近づけば、話が不自然に途切れる。
視線が重なり、すぐに逸れる。
胸に生まれた疑念を、私は何度も打ち消した。
マルクスは子を持つつもりがない人だ。
私に触れない男が、妻の妹へ手を出すはずがない。
そう思い込まなければ、三年間信じてきたものが崩れてしまう。
私は気づかないふりを続けた。
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