第9話 主取り
8月第3週。北海道市場。午前8時。比較展示。
仮設の馬房が並ぶ建物の通路に、馬の顔がずらりと並んでいる。
扉ごとに名簿番号の札が下がっていて、その前を購買者がゆっくり歩いていく。
紙の束をめくる音と、蹄が床を掻く音。知らない馬の匂いが通路いっぱいに溜まっている。
「元税理士です。帳簿なら見られます」
「歯並びだけは昔から褒められるんすよ」
「元板前。包丁は握れねえけど、立ち姿なら負けねえ」
「前世で公務員試験に2回落ちた。今回は受かりたい」
面接会場か、ここ。
久世牧場の札は通路のまんなかあたりだ。
札の下で源さんが首を高く上げている。
「兄ちゃん。今日の客は目が肥えてるぞ」
「はい」
「見る奴が見りゃ、俺の良さは分かる。脚の長え1歳なんざ、そうはいねえ。おまけに内を回れる」
「はい」
「1,000万だ。忘れんなよ」
5月のあの夜から3か月。11歳の夏だ。
「立ち方も完璧だぞ。毎朝の引き馬で、2日で覚えた」
源さんが前脚をちょいとずらした。客の側から4本の脚が全部見える。
自分の売り方も分かってる、と豪語するだけのことはある。
「すみません。歩かせてもらえます?」
帽子をかぶった男が札の前で足を止めた。
父さんが黙って頷いて、引き綱を取った。
通路を向こうの端まで歩いて、戻ってくる。
早足の大人の速さ。馬の肩の横に父さんの肩が並ぶ。
去年、葦毛を420万にした歩き方だ。
止まる。
源さんが前脚をずらして、4本の脚を客に見せた。
非の打ちどころがない。
帽子の男は前に回って、横に回って、それから後ろへ回った。
「おい、後ろ行くな。見えねえだろうが」
源さんが首をひねる。
目が顔の横についていても、真後ろだけは見えないらしい。首を回せば、今度は頭絡ごと父さんの引き綱に引き戻される。
「じっとしてろ」
父さんの低い声。
帽子の男は源さんの尻のあたりでしばらく黙った。
連れの男が横から紙の束をのぞき込む。
「脚は長いね」
「胴が詰まってる」
「父がな……もう種付けやめたんだろ」
「らしいな。この父じゃ、先が続かない」
「どうも、ありがとうございました」
帽子の男が父さんに軽く頭を下げて、隣の札へ移っていった。
源さんの父親が種馬をやめるかもしれない、という話は前から耳にしていた。
噂は本当になったらしい。
「……おい」
源さんが体ごと隣の札のほうを向こうとして、また引き綱に引き戻された。
「トモ見てねえだろ、あいつ。尻の後ろで突っ立って、何見てたんだ」
「胴だと思います」
「種馬の話もすんじゃねえよ。親父が何頭種付けしようが、走るのは俺だ。俺を見ろ、俺を」
次の客は札を見ただけで通り過ぎた。
その次の作業着の男が通りかかったところで、俺は「僕」の顔を作った。
「あの。この子、まっすぐ走るんです。内も回れます」
「おう、坊やのとこの子か。偉いねえ」
男は俺の頭を一度撫でて、札は見ないまま隣の札で足を止めた。
頭は撫でてもらえた。源さんは見てもらえなかった。
「兄ちゃん。内を回れるは、いちばん先に言え」
源さんの鼻息が少しずつ大きくなっていく。
「おい、そこの眼鏡の。見てけって。この脚だぞ。ラチ沿いをぴったり回れる1歳が、この通路に何頭いると思ってんだ。俺は手前も替えられる。2週間で覚えた。予想紙なら◎はつかなくても、△は打つとこだ。穴なら俺だろ、普通」
人間の耳には、ブルル、ブルルと鼻を鳴らすだけの1歳馬だ。
「元気な子だねえ」
眼鏡の男は通り過ぎざまに笑って、そのまま行ってしまった。
自己PRが全部人間に届いていない。
「兄ちゃん。今のは褒められたのか」
「元気、とは言われました」
「元気は値段になんねえんだよ……」
源さんがため息みたいに長く鼻から息を吐いた。
そのとき、通路の向こうが少しざわついた。
人が自然に両側へ寄って、道が1本空く。
白髪まじりの短髪。銀縁の眼鏡。
仕立てのいいジャケットの下は、俺と同じ長靴だった。
その人はまっすぐ歩いてこなかった。
通路に引き出された馬の後ろを通るたびに、反対側までふくらんで、ゆっくり通り過ぎる。
ほかの人は馬のすぐ後ろを平気ですり抜けていく。
その人だけが毎回大回りだ。
町の噂だと、牧場に来るときも車を道の端に止めて歩いてくる人らしい。
「……大回りしやがった。分かってる奴の歩き方だ」
源さんの声が少しだけ低くなった。
その人は連れの男と2人で歩いてくる。
連れの男が紙の束を指で弾きながら源さんを見た。
「鷹司さん、この栗毛は」
鷹司。
うちの隣の席と、同じ名字だ。前髪は似ていない。
「ああ」
その人は源さんを一度見た。
札を見て、それから父さんを見た。
「そちらは結構でしょう。久世さんのところは、ほら、ほどほどの牧場ですから」
怒っている声ではなかった。
天気の話をするくらいの声だ。
父さんが帽子を取って、黙って頭を下げた。
それだけだった。
2年生のとき、隣の席で同じことを言われた。
「君の家は、ほら、ほどほどの牧場だろう?」
ほら、の位置まで同じだ。
親子で間の取り方が似るらしい。
その人の目が父さんの横の俺で止まった。
「君が噂の、馬が分かる子かね」
眼鏡の奥の目が少しだけ細くなる。笑ったらしい。
「……分かんないです。僕、子供なんで」
「そうかね」
噂の出どころは言わなかった。
「うちの馬も見てほしいものだね」
軽く笑って、その人はまた歩き出した。
次の馬の後ろで、また通路の反対側までふくらむ。
見てほしいものだね、は前世でいう「今度ぜひ」だ。だいたい来ない。
去年の9月の、蒼真の伝言を思い出した。
父様が、なぜか君に一度会ってみたいそうだ。
一度は今ので済んだらしい。
「……なんだあいつ」
ブルル、と源さんが鼻を鳴らした。
隣の札の鹿毛が何事かとこっちに顔を向ける。
「大回りする奴が、俺を一度しか見ねえのか」
「……一度は見てましたよ」
父さんにも聞こえないくらいの声で返す。
「一度で分かるかよ。俺は40年、パドックの2周目を見てきたんだぞ」
父さんが帽子をかぶり直して、引き綱を短く持った。
顔はさっきと何も変わらない。
場内の放送が、11時30分からのセリの始まりを告げた。
午後。セリ場。
すり鉢みたいな客席の底を、馬が1頭ずつ回っては出ていく。
1頭、2分もかからない。
源さんの番が近い。
待機の列で、父さんが源さんの頭絡の留め具を指で確かめた。
「いいか兄ちゃん。下見は前座だ。ここからが本番だ」
「はい」
「セリはな、テレビで何べんも見た。最初の声がかかりゃ、あとは勝手に上がってく。客ってのは、誰かが手を挙げると欲しくなるもんなんだよ」
「はい」
「見てろよ」
源さんの目は、もう丸い場所のほうを向いている。
前の馬が出ていった。隣の札にいた鹿毛だ。手が何本も挙がって、売れた。
「見たか兄ちゃん。客ってのはこうなんだよ」
父さんが歩き出す。源さんが続く。
俺は出口側の通路の端に立った。
ここからなら丸い場所の半分が見える。
ここまで源さんの声は届かない。
「……ハナコの2025。牡、栗毛。300万から」
父さんが決めて、母さんが書いた数字だ。
源さんの言い値の3分の1もない。去年の葦毛の420万にも届かない。
手が挙がれば、そこから10万円ずつ上がっていく。出がけに母さんがそう教えてくれた。
「いかがでしょう」
誰も挙げない。
源さんが回る。
父さんの肩が源さんの肩の横に並んでいる。早足の大人の速さ。
客席の前のほうで、誰かが冊子をめくった。
「次、例の牝系だろ」
「上は1,500行ったってよ」
「いかがでしょう」
鑑定人が同じ数字をもう一度読み上げた。
マイクの声が天井に当たって、戻ってくる。
掲示板の数字は300のまま動かない。
源さんが丸い場所のまんなかで止まった。
前脚をちょいとずらす。客席の側から、4本の脚が全部見える。
朝から一度も崩れていない、きれいな立ち方だ。
誰も挙げない。
飛び込みで入ったフロアで、誰ひとり顔を上げなかったことがある。
電話の音と、キーボードの音だけがした。
ここには電話もない。
「主取り」
鑑定人の声は、ほかの馬のときと同じ高さだった。
主取り。誰も買わないから、うちが連れて帰る。
源さんが丸い場所に入ってから、1分もたっていない。
父さんが引き綱を引いて出口へ向かう。
次の馬が、もう入口に見えている。
出口の通路で、俺は2人を待った。
これで、源さんはよその馬にはならない。
……今それ考えるか、俺。
父さんの長靴の音が近づく。その少し後ろに、源さんの蹄の音。
源さんは下を向いていなかった。
前も見ていない。
ただ、父さんの肩の横を歩いてくる。
俺の前を通る。
言い訳を待った。
展開のアヤも、乗り役がヘタも来ない。
源さんの声がしたのは、通路の角を曲がってからだった。
「……俺、売れ残りか」
小さい声だった。
この建物の中で、この声を拾える人間は俺しかいない。
父さんは歩く速さを変えない。
「トラック、こっちです」
それしか出てこなかった。
源さんは返事をしなかった。
帰りのトラック。夕方の国道。
父さんはラジオをつけなかった。
ウインカーのかち、かち、という音だけがする。
ハンドルを握る父さんの手の甲に、引き綱の跡が赤く残っている。
後ろの箱の源さんの声は、運転席までは届かない。
言うことを3つ考えた。前世で、商談が流れた先輩にかけてきた言葉だ。
1つ目。「相場が悪かったですね」。隣の鹿毛は売れた。
2つ目。「いい経験になりましたね」。父さんにとって何回目の夏だと思ってる。
3つ目。「源さん、実は内を回れるんです」。知ってる。毎朝見てた。
3つとも捨てた。
左手に海が見えて、そのうち見えなくなった。
家に着いたのは暗くなってからだった。
今年は母さんが牧場に残る番だった。結果は会場から父さんが電話で一言だけ伝えてあったらしい。
母さんがテーブルで帳簿を開いている。
「おかえり」
ボールペンが1行ぶんだけ動いた。
主取り手数料。
その横の数字は見ないことにした。
「今年からなんだって、これ。数万でも、取るとこは取るのよね」
流しの横に、ニンジンが1本だけ出してある。
「ハル。それ、あの子の分。今日だけね、毎日やったら太るから」
父さんは帳簿をちらりとのぞいて、何も言わずに風呂場へ行った。
夜の厩舎には、昼の熱がまだ残っている。
源さんは馬房の奥で横になっている。
目を閉じている。
寝ている馬の息は、もっとゆっくりだ。11年この牧場にいれば、それくらいは分かる。
「源さん。ニンジンです」
返事がない。
扉の上から、ニンジンを飼い葉桶に落とした。ころん、と乾いた音がする。
源さんの鼻先が少しだけ動いた。
それきりだ。
俺は扉にもたれた。
黙った相手には、別の話題を振る。営業の癖で、口が先に動いた。
「源さんの家族は、源さんがここにいるって知ったら」
「知るかよ」
すぐだった。
目は閉じたままだ。
源さんの尻尾が寝藁を払った。
40年。
「源さんの予想、40年――」
そこで止めた。
続きは、「当たらなかったのが、また外れただけです」だった。
言えば、このおっさんはたぶん笑う。
笑ったあとで、今よりもっと黙る。
俺は飼い葉桶のニンジンをもう一度見て、厩舎の明かりを消した。
夜中に目が覚めた。
時計を見ると、とっくに日付が変わっている。
窓を開ける。8月でも夜の風は冷たい。
厩舎の入口に明かりがついている。
俺が消したはずの明かりだ。
開いた入口の奥に、人がひとり立っている。
父さんだ。
源さんの馬房の前。
右手が扉の上に置かれている。
ここからは何も聞こえない。
父さんの口が一度動いた。
それから、そこを動かなかった。
たぶん源さんには全部聞こえている。




