第8話 手前を替えろ
源さんは、まっすぐ走れない。
正確には曲がれない。
11歳の4月。雪の溶けた放牧地は、朝から土の匂いが濃い。
年が明けて、源さんは1歳になった。馬は正月にまとめて歳をとる。俺は先週、11歳になった。
冬のあいだ、源さんはときどき東の柵の前に立った。鷹司ファームのある方角だ。何を見ているのかは聞いていない。
同い年の連中が門の前に横一列に並んでいる。
スタートは門柱。柵沿いに走って、奥の角を右へ曲がる。ゴールは水桶。
誰が決めたのか知らないが、毎朝これをやる。
俺は登校前に、柵の外から見ている。
誰かが短くいなないたのが合図で、全員が飛び出した。
直線は悪くない。
源さんは脚が長い。一歩が大きいから、並んで走っても見劣りしない。
問題は角だ。
みんなが柵に沿って右へ曲がる。
源さんだけが外へ流れる。
柵からどんどん離れて、大きな弧を描いて、戻ってきたときにはいちばん後ろにいる。
毎回だ。
水桶の前で、同い年の連中が振り返った。
「おっさん遅ーい」
「はい周回遅れー。減点ねー」
「おっさん、また遅刻ー。始末書ー」
「しゃべるのは速いのにねー」
うちの学校の昼休みと、だいたい同じ音がする。
源さんが最後に水桶まで戻ってきた。鼻の穴が広がって、白い息が2本出ている。
「……今のは展開のアヤだ」
「アヤ」
「外枠からの発走で、前に壁がなかった。行きたがるのを我慢して、脚を溜めて、3コーナーで外に持ち出した。そこは差しだろ、普通。あれで届かねえのは、前が止まらなかったからだ」
「枠、ないです。柵です」
「……」
「3コーナーもないです。角が一つです」
源さんが耳を後ろに倒した。
同い年の連中はもう草を食べに散っている。負けた馬の講釈を最後まで聞く1歳はいない。
「……分かってんだよ」
源さんが角のほうを見た。
「手前が逆なんだ。右回りは右手前。そんなもん、40年、毎週新聞で読んでた。右に曲がるのに左手前のまんまじゃ、外にふくれるに決まってる」
知っているのは本当だと思う。
講釈だけなら、40年分ある。
「知ってて、脚が言うこと聞かねえ」
源さんの首が東の柵のほうへ向いた。
「……2,000万の種は、曲がれんだろうな」
右の前脚が持ち上がって、地面を叩いた。
とん。とん。とん。
ぬれた土に、蹄の跡が3つ並んだ。
しばらく、そのまま地面を見ている。
「……兄ちゃん、どうやったら替えられんだ、あれ」
質問だ。このおっさんから、俺に。
「知りません」
「……だよな」
「持ち帰って検討します」
「役所かよ」
役所じゃない。営業だ。
その夜。居間の本棚の、いちばん下の段。
背表紙の日に焼けた競馬の本が3冊ある。父さんのだ。俺が生まれる前からここにある。
「手前」は2冊目の索引にあった。
走るとき、左右の前脚のどちらを先に出しているか。右前脚が先なら右手前、左前脚が先なら左手前。
右回りは右手前。左回りは左手前。逆のままコーナーに入ると、外へふくれる。
替えるのはコーナーに入る前、直線のうちに。
母さんのタブレットで用語解説も開いた。だいたい同じことが書いてある。
源さんの講釈と、ほとんど一字一句同じだ。
違うのは一点。
どうやって替えるのかはどこにも書いてない。
乗る人向けの本だからだ。馬向けの教科書はまだ誰も書いていない。
自由帳を開いた。
前世の会社では、できない新人に「頑張れ」とは言わなかった。
できない理由を分解して、一つずつ潰す。潰れたかどうかは数で確かめる。
新しいページの1行目に書いた。
源さんが曲がれない理由。
2行目はまだ書けない。本人に聞かないと分からない。
◇
翌朝。6時。
柵の杭が手に冷たい。
源さんに一度だけ走ってもらって、角から3歩手前の杭を数えた。
そこに、黄色いビニールテープを巻いた。
「走ってるとき、今どっちの脚が先か、分かります?」
「……分かんねえ」
源さんが首を下げて、自分の前脚をのぞこうとした。
うまくのぞけない。目が顔の横についているから、鼻先の真下は死角になるらしい。
「見えづれえんだよ、こっから。走ってる最中なんざ、なおさらだ」
「いつ替えようとしてます?」
「曲がるときだろ」
「本には、曲がる前って書いてありました」
「……知ってるよ。知ってて間に合わねえんだ」
「あと、走りながら何かしゃべってますよね」
「実況だ」
「実況」
「自分でやってんだよ。『さあ源三、外から並びかける』ってな。気分が乗るだろ」
「それ、やめてください」
自由帳に書き足した。
1.今どっちの脚が先か、分かっていない
2.替えようとするのが、角に入ってから
3.走りながら実況している
源さんが首を伸ばして、自由帳をのぞき込んだ。
字は読める。中身が52歳なので。
「……新人研修かよ」
「新人研修です」
「52のおっさんに、11の子供が研修すんのか」
「34です。中身は」
「余計に腹立つな」
文句を言いながら、源さんは門の前へ歩いていった。
「1個ずつやります。今日は2番だけです」
「2番」
「テープのところで『右』って言います。聞こえたら、右の前脚を前に出す。それだけです」
「それだけって、おめえ」
「1本走るごとに数えます。ふくれなかったら、替わったってことにします」
どっちの脚が先かは俺にも見えない。
でも、ふくれたかどうかなら柵の外からでも分かる。
1日目。8本走って、8本ふくれた。
「兄ちゃん、右って言うのが遅えんだよ」
「テープのとこで言ってます」
「声が小せえ」
「耳、いいんですよね」
「いいよ。向こうの厩舎でおふくろたちが俺の悪口言ってんのまで聞こえる」
「じゃあ、聞こえてます」
「……ちっ」
2日目の朝は前の晩の雨で門の前がぬかるみになった。
同い年の連中は泥をはね上げてまっすぐ突っ切っていく。
源さんだけがぬかるみの縁をぐるっと大回りした。
長靴の俺と、同じ道を通っている。
その日は10本走ってゼロ。
源さんは帰りがけにまた右の前脚で地面を3回叩いた。
3日目。
1本目、ふくれる。2本目、ふくれる。
実況はもう聞こえない。代わりに、蹄の音だけが近づいてくる。
9本目。
源さんがテープの杭に差しかかった。
「右」
源さんの耳がくるっとこっちを向いた。
蹄の音が一瞬だけ崩れた気がした。
たたん、と詰まって、また揃う。
そのまま、源さんは角を曲がった。
柵から離れない。
柵沿いをぐるっと回って、水桶の前まで戻ってきた。
ふくれなかった。
源さんが首を振りながら、こっちへ歩いてくる。鼻息が荒い。
「……今の、替わったか」
「ふくれませんでした」
「替わったんだな」
「右って聞いてから脚を出すまで、迷いませんでしたね。そこがよかったです」
結果じゃなくて、やったことを褒めろ。結果は毎回出ねえから。
新人研修の講師の口癖だった。言われてた新人が俺だ。
「……まぐれだ」
源さんがそっぽを向いた。
「いいか兄ちゃん。競馬ってのはな、まぐれが3回続いて、やっと実力って言うんだ。1回じゃ何も分かんねえ。ダービー馬だって、新馬戦じゃ取りこぼす。だから今のは、まあ、なんだ」
「はい」
「……もう1本走る」
10本目はまたふくれた。
10本で1本。
自由帳の数字が初めてゼロじゃなくなった。
◇
2週間後の朝。
門の前で、同い年の連中が並んでいる。
源さんの隣はいちばん体の大きい鹿毛だ。
胸が厚くて、源さんより首の付け根の位置が高い。
この2週間、ほとんどこいつが勝っている。
スタートの前に、源さんが首だけこっちに向けた。
「兄ちゃん。今日は言うな」
「はい」
俺はテープの杭の横に立った。
誰かの鼻息が合図になって、全員が飛び出した。
直線。
鹿毛が前に出る。源さんは半馬身くらい後ろ。
ここまではいつもと同じだ。
テープが近づく。
俺は何も言わなかった。
源さんの耳がそれでもこっちを向いた。
たたん。
蹄の音が一拍詰まって、揃い直す。
角。
鹿毛は大きい体のぶん、少しだけ外へ流れた。
源さんは流れない。柵に体をすりつけるみたいにして、内側を回っていく。
角を出たとき、2頭の頭が並んだ。
水桶まで、あと少し。
鹿毛が首を伸ばす。源さんも首を伸ばす。
ゴール。
首一つ。
源さんが前だった。
水桶の前が一瞬だけ静かになった。
「……は?」
「おっさん勝った?」
「内ずるーい」
「ずるくないでしょ、柵沿いなんだから」
「もう1回!もう1回!」
負けた鹿毛だけが何も言わずに、水桶に首を突っ込んだ。
源さんがこっちへ駆けてくる。速い。さっきより速い。
「見たか兄ちゃん!!内だ、内!!ラチ沿いぴったりだ!!」
「……首一つでしたね」
「首一つで十分なんだよ!!ダービーだってハナ差で決まんだ!!」
「今日は言ってないですよ、右」
「……言うなっつったのによ。兄ちゃんの『右』が、まだ耳に残ってやがんだよ」
源さんが鼻を鳴らして、首を高く上げた。ヒヒン、と鳴く。
向いている先は俺じゃなかった。
母屋のほうだ。
水桶のほうへ歩きかけて、母屋の窓に気づいた。水桶から台所の窓までは、柵一枚ぶんしかない。
台所の窓が開いている。
父さんが立っていた。マグカップを持っている。湯気は、もう出ていない。
いつからそこにいたのかは分からない。
父さんはコーヒーを口に運ばないまま、放牧地の源さんを見ている。
「……あいつ、脚変わったな」
低い声だった。窓が開いていなければ、たぶん聞こえない。
「そう?」
後ろを洗濯かごを抱えた母さんが通っていった。窓の外には目もくれない。
「ハル、バス」
母さんの声だけが窓から飛んできた。
源さんがもう一度、ヒヒン、と鳴いた。
父さんにはただの鳴き声だ。
中身は「見たか」だと、教えるわけにはいかない。
その日の夕飯。
味噌汁が熱い。
「……毎朝、柵んとこで何やってる」
父さんの声だった。顔は皿のほうを向いたままだ。
「見てます」
父さんが箸を置いた。
「8月のサマーセール、ハナコの仔も出す」
焼き魚をほぐす手を止めずに、母さんが骨を1本、皿のふちに置いた。
「今決めたの?」
「決めてた」
「はいはい。申込はやっとく」
母さんが魚に戻った。
「言っとくけど、去年の420は、去年の子の分だからね。今年もそうだと思わないで」
「……分かってる」
俺は黙って味噌汁を飲んだ。
売れたら、源さんはよその馬になる。
味噌汁は、もう熱くなかった。
寝る前に、懐中電灯を持って厩舎へ行った。
寝藁の匂いがする。
源さんの馬房の前に立つと、扉の上から首が出てきた。
「おう兄ちゃん。どうした、こんな時間に」
「8月のサマーセールに、源さんを出すそうです」
源さんの耳が両方とも前を向いた。
「……セリか」
「父さんが決めました」
「そうか」
源さんの目が暗い厩舎の奥へ向いた。
「鷹司んとこのは、名前、決まったか」
「まだみたいです」
「そうか」
それから、首をぐっと前に突き出した。
「兄ちゃん。今日の、見たろ」
「見ました」
「内を回れる1歳だ。脚が長え。トモもある。気性は、まあ、いい。何より中身が40年パドックを見てきた男だ。自分の売り方も分かってる」
「はい」
「1,000万はつくぜ」
懐中電灯の明かりの中で、源さんの目が光った。
「うちの最高、去年の420万です」
「去年の葦毛は、ラチ沿い回れたか」
「……知りません」
「回れねえよ。俺は回れる」
源さんは満足そうに寝藁を踏んで、馬房の奥へ引っ込んだ。
1,000万。
俺は懐中電灯を消した。
源さんのダービーの予想、40年間当たってないんだよな。




