第7話 1億円の同い年
「いいか兄ちゃん、馬はな、まずトモを見るんだよ」
源三が乳から口を離した。
7月の放牧地。草の匂いがもう夏の濃さになっている。
生まれて3か月で、おっさんは乳を飲みながら講釈するようになった。
「トモってのは尻だ。後ろ脚の付け根の肉な。あそこが馬のエンジンなんだよ」
言うだけ言って、また首を突っ込む。
仔馬が乳を飲むのは大仕事だ。前脚を開いて、首をねじって、母親の腹の下に頭を潜らせる。
手が使えないので、全部首でやる。
「……首が、攣る」
「じゃあ黙って飲みな」
ハナコの声が上から降ってきた。
源三は聞いていない。腹の下から片目だけ出して、柵の向こうを見ている。
「あの鹿毛の牝。あれは前が勝ちすぎだ。胸ばっかり立派で、トモが寂しい。ああいうのは千二で終わる」
「……千二って?」
「1,200メートル。短距離だ。で、こっちの栗毛。歩様がいい。踏み込みが深え。ああいうのは化けるぞ」
ほよう。歩き方のことらしい。
競馬のことは何も分からない。分からないが、このおっさんの声には迷いがない。
40年、外し続けた人の声とは思えない。
そのとき、柵の向こうから声が飛んできた。
「ちょっと。前が勝ちすぎって何よ」
鹿毛の仔馬だった。耳をこっちに向けて、きっちり怒っている。
「言い方ってもんがあるでしょ。こっちは生まれて3か月なんですけど」
「化けるって、それ褒めてんの?けなしてんの?」
栗毛の仔馬まで寄ってきた。
源三の口が乳の手前で止まった。
ゆっくり腹の下から頭を抜いて、俺を見た。
「……おい兄ちゃん」
「はい」
「あいつらも中身入ってんのか」
「全員です」
「全員?」
隣の放牧地から、母馬たちが一斉に顔を上げた。
「あら、今ごろ気づいたの」
「ようこそ久世牧場へ!!」
「新しい人ね。転入の届け、出しといてね」
「歓迎会の費用は、経費では落ちませんので」
4月から同じ牧場にいて、3か月気づかなかったらしい。
源三は乳を放り出して、柵まで跳ねていった。
生まれた夜に5回転んだ脚が、今は普通に跳ねる。
「おい、そこの栗毛の姐さん。あんた何やってた」
「経理です。課長補佐でした」
ウメだった。丁寧に答えている。
「経理か。じゃあオッズの計算なんざお手のもんだろ。今度の日曜のメイン、一緒に買い目を」
「馬券の精算は受け付けておりません」
即答だった。
「……じゃあ、あんたは」
「競輪!!」
「競輪か!そりゃいい、脚は分かってんじゃねえか。あんた、トモがいいもんな。現役のころは先行か、捲りか」
「捲り!!牝馬だけど!!」
「捲りか。いいねえ。じゃあ4コーナーで外を回るときの」
「坊や、この人いくつ?」
区役所に38年いた母馬が、源三の講釈を横から切った。
「52です」
「あら、うちの長男と同じ。長男の下の子がね、今年小学校に上がって」
「孫の話はいい。俺はコーナーの話を」
「ランドセルが赤でね」
源三が黙った。
講釈が、孫に負けた。
「あんた」
ハナコがのっそり歩いてきた。
一回り大きい体が源三の横に並ぶ。それだけで源三が半歩下がった。
上司より年上の新入社員も、母親にだけは頭が上がらない。
「よその母さんに絡んでないで、乳飲みな。食べな、ほら」
「飲んでるだろ、さっきから」
ぶつくさ言いながら、源三はハナコの腹の下へ潜り直した。
「それと」
ハナコが首を伸ばして、源三の顔をのぞき込んだ。
「おふくろじゃなくて、母ちゃんって呼びな」
「……52のおっさんに無茶言うな」
「52でも息子は息子だよ」
源三が答えなかった。
ハナコの腹の下で、首の向きが半分だけ止まる。
1秒か、2秒。
「……それよりパドックの話だ。兄ちゃん、パドックってのはな、周回の2周目を見るんだよ。1周目は馬も客も落ち着いてねえ」
戻った。
ハナコは前歯で源三のたてがみを軽く噛んだ。
俺は柵から体を起こした。
「源さん」
「なんだ」
「来月、セリに出す1歳馬がいるんですけど」
源三の耳がぴんとこっちを向いた。
「源さんなら、どう見せます?」
腹の下から、源三の顔がゆっくり出てきた。
「……兄ちゃん。それを先に聞けよ」
◇
同じ週の土曜日。厩舎の前。
朝の日差しはもう白くて強い。
父さんが1歳馬を引いている。
尻尾の短い葦毛の、去年の3月の仔だ。母親と同じ灰色の毛で、春から少しずつ白くなってきた。
父さんのやり方は毎年同じだ。
のんびり歩かせて、厩舎の軒下の日陰で止める。4本の脚をまっすぐそろえて立たせる。
俺は長靴で砂利を蹴りながら、その横に立った。
頭の中で、しわがれ声がまだ鳴っている。
「引くときは急がせるな。かといってだらだら歩かせんな。人が早足で歩くくらいだ。馬の肩の横に、人間の肩を並べろ」
「立たせるときはな、客の側から脚が4本全部見えるようにしろ。手前の脚をちょいとずらすんだよ」
「葦毛は日陰に入れるな。光を横から当てろ。毛が光って白く見える。……あと、引いてる人間が下を向くな。客は人間も見てる」
最後のは、父さんには言えない。
「父さん」
「ん」
「その子、日陰だと灰色っぽいね」
父さんの足が止まった。
「……そうか」
「あっちの、日が当たるとこだと白く見えるかも。横から日が当たると、なんかきれい」
理由は言わない。言えば、誰に聞いたかになる。
父さんは何も聞かなかった。
引き綱を持ち直して、1歳馬を日向へ出した。
横から朝日が当たる。灰色の毛が一段白くなった。
確かに、白い。
「あと、前の脚、ちょっとずらしたほうがかっこよくない?こっちから見て、4本見えるように」
父さんが1歳馬の前脚を見た。
しゃがんで、蹄の少し上を持つ。手前の脚を拳一つ分ずらした。
1歳馬は文句も言わずに立った。
4本の脚がちゃんと4本に見える。
馬の具合の話なら、父さんはもう聞く。
4年前の逆子から、ずっとそうだ。
でもこれは、具合の話じゃない。セリの見せ方は商売の話だ。
父さんは商売の話を10歳に聞いている。
「……歩かせるときの速さは」
父さんが前を向いたまま言った。
聞かれた。
「えっと、もうちょっと速いほうが、元気そうに見えるかも。でも走らせないくらい」
父さんが歩き出した。
さっきより速い。早足の大人の速さだ。1歳馬の肩の横に、父さんの肩が並んでいる。
「ちょっと、2人して何やってんの」
母さんが事務所の窓から顔を出した。
帳簿を開いたままの手で、こっちを指さしている。
俺は日向の1歳馬を指さし返した。
「今年の子、高く売れるかもしれないよ」
「で、いくら?」
そこから入るのが母さんだ。
父さんは引き綱を握ったまま黙っている。答えるのは俺らしい。
「……さあ」
「さあ、じゃないの。うちの1歳はね、いい年で300万ちょっと。悪いと200万台。期待すると、あとで帳簿が泣くからね」
「はい」
「立たせ方変えたくらいで値段が上がるなら、どこの牧場も苦労しないの」
窓がぴしゃりと閉まった。
母さんの正論はだいたい数字で殴ってくる。
「……ねえ」
小さな声がした。
厩舎の横の小さな放牧地で、葦毛の母馬が柵に顔を寄せている。尻尾の短い、いちばん端の母馬だ。
「あの子、きれいに見える?」
「白いです。すごく」
小声で返した。父さんは前脚に夢中だ。
「そう」
母馬はしばらく、日向の我が子を見ていた。
「……あの子、もう働いてるはずなの」
一瞬、1歳馬の話かと思った。
違った。
「……あの年に受かってればね」
俺が3つのときの夜に、この人に聞かれたことがある。
前世の娘が、今年受験なの。受かったかどうか、知る方法ないかな。
今も答えは知らない。調べる方法もない。
「受かってる、に一票」
それ以上は何も足さなかった。
母馬が小さく笑った。笑い声も小さい。
「……じゃあ、そういうことにしとくね」
それきり、母馬は柵から顔を離した。
日向で、娘じゃないほうの我が子が白く光っている。
◇
8月。
その1歳馬は420万円で売れた。
帰ってきた夜、母さんは台所のテーブルで明細を2回読んだ。
3回目に電卓を叩いた。
「……420」
数字を言い直した。
「よんひゃく、にじゅう」
「300から始まって、止まんないんだもん。下見のとき、『写真より白いな』って言ってた人がいたの」
4年前に聞かないと決めた人が、明細と俺を交互に見ている。
でも、やっぱり聞かなかった。
父さんは玄関で長靴を脱いでいた。
片方脱いだところで、手が止まった。
顔だけがこっちを向く。
父さんが俺を一度だけ見た。
長かった。
それから、もう片方の長靴を脱いだ。
「……来年のも、立たせ方はお前が見とけ」
それだけ言って、風呂場へ歩いていった。
決裁が、一つ下りたらしい。
◇
9月。4年1組の教室。
「久世君」
朝の会の前に、隣の席から声がした。
鷹司蒼真。定規で測ったような黒い前髪は、2年生のときから1ミリも変わらない。
「君のところでも、この春に仔馬が生まれたそうだね」
「生まれたね」
「うちのファームにも生まれたのだよ。同じ春に。牡だ」
蒼真が椅子ごとこっちに体を向けた。茶色い革のブーツが床をこする。
「父は種付け料2,000万円。今いちばん人気の種牡馬だ。母はGⅠ馬」
「へえ」
「来年のセレクトセールに出せば、億は下らないと言われているのだよ」
前の席の男子が振り向いた。
「億!?」
「うちのトラクター、何台買えんの」
「鷹司んち、また馬に億かよ」
教室が一気にうるさくなった。
蒼真が少しだけ顎を上げる。
「ちなみに、君のところの1歳は、いくらで売れたのかね」
「420万」
蒼真のまばたきが一回だけ遅れた。
「……桁を一つ書き忘れていないかね」
書き忘れていない。
俺の頭の中で、勝手に電卓が動いた。
源三の父親の種付け料は50万円。母さんの帳簿で見た。
2,000万を、50万で割る。
40倍。
同じ春に、同じ胆振で生まれて、仕入れ値が40倍違う。
相見積もりにもならない。
「……で、名前は」
「まだだ。父様が決める。父様は、名前は走る顔を見てから付ける主義なのだよ」
そこはちょっと分かる。顔を見ないで結んだ契約は、だいたい後で揉める。
「あ、それと」
蒼真が前髪を指で直した。
「父様が、なぜか君に一度会ってみたいそうだ。……僕は反対したのだがね」
「やだ」
「馬鹿かね!?父様の誘いだぞ!?」
朝の会のチャイムが鳴った。
蒼真は最後まで、前髪を直し続けた。
夕方。放牧地。
源三は草を食べている。
3か月前は乳が主食だった口で、器用に根元から草をちぎる。
「おう兄ちゃん。420だってな」
口をもぐもぐさせたまま、胸を張る。
「だから言ったろ、俺の見立てだ。葦毛は横から光。40年パドックで鍛えた目に狂いはねえんだよ」
「馬券は40年外したって聞きましたけど」
「馬券と見立ては別もんだ。……で、学校はどうだった。まだ九九か」
「4年生なんで、もう割り算です」
「そうか。いいか兄ちゃん、割り算はな、オッズで覚えりゃ早えんだよ。単勝の払い戻しってのは」
「鷹司のとこに、源さんと同い年の牡がいるそうです」
源三が草をちぎった。
「おう、鷹司な。隣町のでかいとこだろ。金持ちの馬なんざ、どうせ見てくれだけだ」
「父親の種付け料、2,000万です」
「2,000万の種でも、走らねえのはごまんといる。俺は40年見てきたんだ。いいか、血統なんてのは」
「母親はGⅠ馬だそうです」
「……」
「来年のセレクトセールなら、億は下らないって話です」
源三の口が止まった。
ちぎりかけの草が口の端から垂れている。
「源さんの父親は、50万」
「……知ってる」
源三が顔を上げた。
俺じゃなく、柵の向こうを見ている。
放牧地の東。山を一つ越えた先に、鷹司ファームがある。
講釈が来ない。
いつもなら、ここから4文は続く。
草が、ぽとりと落ちた。
おっさんが、初めて真顔になった。
「……そいつの名前、決まったら教えろ」




