第6話 競馬場じゃねえのか、ここ
「顔がうちの亭主に似てたんだよ。それだけさ」
同じ答えだった。
去年の6月から数えて、これで4回目になる。
4月の終わりの夜。風呂上がりに長靴を突っかけて、ハナコの馬房の前に来ている。予定日の週は毎晩こうだ。
俺は先週10歳になった。
ハナコの腹は横に張り出して、寝藁を踏む音まで重い。予定日は今週だ。
「4回聞いても同じなんだけど」
「同じこと聞くからだよ」
「父さん、血統表も見ないで決めたんだよ。俺の一言で」
「いい親父さんじゃないか」
そういう話はしていない。
相手の栗毛は種馬場のいちばん奥にいた馬だ。重賞1勝で、産駒は走っていない。
去年いっぱいで種牡馬をやめる、という噂まであった。
「亭主って、どんな人だったの」
「鍋振ってた。30年」
「顔は」
「面長でね。目がとろんとしてて、まつ毛が長くて。笑うと歯茎が出るんだよ」
それは馬だ。
「……それ、馬に似てたってことじゃないの」
「逆だよ。あの馬が、うちのに似てたんだ」
そこは譲らないらしい。
「常連に言われてたよ。大将、競馬場で走ってそうな顔だって。本人も笑ってさ。じゃあ俺が走ったら単勝買えよ、ってね」
ハナコの片耳がくるっと回った。
「……で、買ってくれた?」
「買うもんかい。うちの人、走らないもの。カツ丼の鍋から3歩以上離れない人でね」
ハナコは鼻を鳴らした。
笑ったのか、ため息なのか、馬の顔だと分からない。
顔が似ていたから。それだけで、産駒の走らない馬を選んだことになる。
商談なら、こういう即決にはだいたい別の理由がある。
でも、ここから先は聞くと値段が上がる。
前世の課長の教えだ。役に立ったことはほとんどない。
「それよりね、坊主」
ハナコが首を下げて、自分の腹のほうを見た。
「この子、なんか落ち着きがないんだよ」
「蹴るの?」
「蹴るのは普通さ。そうじゃなくて、ずっとブツブツ言ってる」
「……腹の中で?」
「腹の中で」
聞いたことがない。
俺の耳でも、さすがに腹の中までは聞こえない。
「何て言ってるの」
「分かんないよ。こもってて。でも、あれは客の顔だね。注文の多い客。カウンターの端に座って、頼む前から文句言うタイプ」
腹の中の顔が見えている。
「……仕込みの段階で客の質が分かるの、すごいね」
「30年やってりゃね」
ハナコの尻尾が一度だけ上がって、下りた。
しばらく黙っていた。
それから、寝藁の上で前脚をそろえて、低い声で言った。
「……来るよ、坊主。親父さん起こしな」
父さんは1時間前に寝たばかりだ。
牧場の朝は早いので、夜も早い。
俺は母屋に走った。
生まれたのは夜中の3時半だった。
そこまで5時間かかった。
ハナコが寝藁に横になって、父さんが馬房の中、母さんと俺は柵の外。並び方は4年前と同じだ。
違うのは父さんの腕まくりだ。肘で止まっている。
「どうだ」
父さんがハナコから目を離さずに聞いた。
「大丈夫だって」
「……そうか」
それで終わった。
4年前の夜は父さんの怒鳴り声で始まった。今夜はこの2往復で全部だ。
ハナコの声も落ち着いていた。
「はいはい、出るよ。大盛りだよ」
出産を出前みたいに言わないでほしい。
前脚が2本。そろって出てきた。それから鼻先。逆子のときはここまでで1時間かかった。
今夜は10分だった。
父さんが前脚を軽く持って、ハナコのいきみに合わせて引く。
ずるっと、全部出た。
寝藁の上に、濡れた仔馬が横たわっていた。
「……牡だ」
父さんの声が少しだけ緩んだ。
ヘッドライトの明かりの中で、毛が赤く光っていた。栗毛だ。額のまんなかに、指先で押したくらいの白い星が1つ。
脚が長い。
長いのに、胴が妙に詰まって見える。寝藁の上でたたんだ脚が、体からはみ出していた。
仔馬は頭を持ち上げた。
ぐらぐらしながら、首を左右に振る。
柵を見て、天井の裸電球を見て、父さんの長靴を見た。
それから、口を開けた。
「……競馬場じゃねえのか、ここ」
しわがれた、おっさんの声だった。
隣の馬房から、首がいくつも出てきた。
「生まれたかい!?」
「今の声、男だよ!」
「競馬場だってさ」
「生まれた瞬間から場所に文句言ってるよ、この子」
「坊や!教えてやんな!」
夜中の3時半に、全員起きている。
「……牧場です」
口から出ていた。
母さんが振り向いた。
「ハル?誰と話してんの」
「……仔馬」
「はいはい」
母さんはそれ以上聞かなかった。
4年前に、聞かないことに決めた人だ。
「元気な子だねえ。さっきからずっと鳴いてる」
鳴いてるんじゃない。
しゃべっている。
仔馬がゆっくり首を回して、俺を見た。
生まれて1分の目なのに、焦点が合っていた。
「…………おい」
仔馬の目が細くなった。
「今、返事したか?そこのガキ」
父さんはへその緒が切れたのを確かめると、馬房を出た。
「立って、飲んだら呼べ」
それだけ言って、母屋のほうへ歩いていった。
居間のモニターで見るんだと思う。4年前、あれで寝落ちした人だ。
母さんも「あと4時間で学校だからね」と言って戻った。寝癖がもうひどい。
厩舎の通路に、俺と、ハナコと、ずぶ濡れのおっさんが残った。
「で、兄ちゃん……いや、ガキか。どっちだ」
「どっちでもいいです」
「よくねえよ。いいか、俺は源三ってんだ」
仔馬は寝藁に腹をつけたまま、胸を張ろうとして横に倒れた。
そのまま続けた。
「52で死んだ。トラック転がしてた。で、競馬歴40年だ」
自己紹介の順番がおかしい。職歴より趣味のほうが長い。
「パドックの見方なら誰にも負けねえ。馬見りゃ分かる。トモの張り、歩様、目つき。全部だ」
「はあ」
「……で、なんで俺が見られる側なんだ」
それは俺も知りたい。
源三が前脚を突っ張った。後ろ脚が付いてこない。
腰が上がったところで、前脚が開いて崩れた。
「今のは前脚の着地が早え」
自分で解説した。
「あと、あれだ。脚が長えのに胴が詰まってる。バランス悪いな、俺」
「見えるんですか、自分の体」
「見えなくても分かんだよ。パドックで40年見てきた形だ。こういうのは人気にならねえ」
自分の馬体に厳しい。
セリの前の自己評価としては、たぶん正確だ。
もう1回。今度は後ろ脚から上がって、前がつんのめった。
「……脚が4本あるんだよ。順番が分かんねえ。なんだこれ、右前の次はどれだ」
「知らないです」
「首も重てえ。頭に米袋載ってんのか」
ハナコが上から、ぬっと顔を寄せた。
「泣くんじゃないよ」
「泣いてねえ。しゃべってんだ」
「どっちでもいいよ。あんた、口より先に脚動かしな」
源三が母親を見上げた。
見上げて、ちょっと固まった。
「……でけえな、おふくろ」
「あんたの母親だよ。でかいに決まってるだろ」
「……52で母親ができるとは思わなかった」
「あたしだって、52の息子は初めてだよ」
中身が他人同士の親子が、生まれて20分で揉めている。
ハナコが鼻を鳴らした。
今度のはたぶん笑っている。
「で、ガキ」
4回目に転んだあと、源三は寝藁に顎をのせたまま俺を見た。
「お前、なんで馬の声が分かる」
「生まれたときからです。前世の記憶もあります」
「前世?」
「34歳の営業でした。過労で死にました」
源三が黙った。
しばらく俺の顔を見ていた。
「……なんだ、兄ちゃんじゃねえか」
呼び方が決まったらしい。
ガキから兄ちゃんに昇格した。18も年下なのに。
「じゃあ俺は」
「源さんで」
「おう。それでいい」
名刺交換より先に、呼び方が決まった。
名刺はお互い持っていない。
「源さん、家族は?」
何気なく聞いた。
前世の話をする馬は、だいたいここで長くなる。区役所にいた母馬は孫の話、ハナコは食堂の常連。
「……それより兄ちゃん、今年のダービーの1番人気はどこだ」
「知らないです」
「は?」
「競馬、全然分からないんで」
「牧場の倅だろ!?」
「牧場の倅です」
「なんで知らねえんだよ!?」
なんでと言われても困る。前世と合わせて44年、誰にも教わっていない。
源三はしばらく文句を言って、5回目に挑んで、また転んだ。
外が白んできた。
厩舎の窓の向こうで、カラスが1羽鳴いた。
6回目。
源三は後ろ脚から上げた。今度は前脚を開かずに、まっすぐ下ろした。
前脚。後ろ脚。
ぐらっと揺れて、そのまま止まった。
立った。
「…………よし」
源三が鼻から長く息を吐いた。
脚が4本とも、細かく震えている。
それでも、首だけはまっすぐ俺のほうを向いた。
「兄ちゃん」
「はい」
「俺を走らせろ」
しわがれた声だった。
さっきまでの講釈とは、声の高さが違った。
「ダービー獲らせてやる」
「ダービーだってさ」
「この牧場から?」
「出たこともないよ。1頭も」
「ハナコの上の子だって、200万ちょっとだったじゃないか」
社外の温度感がだいぶ低い。
「うるせえ。だから獲るんだろうが」
源三が首を振った。振った勢いで、また脚が震えた。
「……走らせるかどうか決めるの、父さんなんですけど」
「じゃあ親父を落とせ。兄ちゃん、営業だったんだろ」
痛いところを突かれた。
決裁権のない担当者に、決裁を迫ってくる客。前世でいちばん面倒なやつだ。
「俺はな、40年ダービー買って、一度も当てたことがねえ。本命も、穴も、外れた。最後の年まで外れた」
源三が鼻を鳴らした。
「だから当てるのはもういい。今度は俺が走って獲る。いいか兄ちゃん、この脚の長さは東京の長え直線向きだ。胴が詰まってんのは、まあ、気にすんな。あとはな、負けたら乗り役がヘタなんだよ」
負けたときの言い訳まで、もう決まっている。
ダービー。
名前くらいは知っている。毎年、5月の終わりか6月の頭にテレビでやっている。父さんが黙って見ているやつだ。
あれを見ているときの父さんは、話しかけても返事をしない。
ハナコが何も言わずに、源三の首を鼻先で押した。
源三はよろけた。それでも倒れなかった。
生まれて40分。
おっさんはようやく立った。
脚は震えている。
乳の場所も分かっていない。
さっきから鼻先で、ハナコの前脚の付け根を探している。
そこじゃない。
ダービーまで、あと3年。
10歳の春。
俺の相棒は52歳のおっさんだった。
「……まずは乳を飲んでから言ってください」




