第5話 久世の倅は、馬が分かる
獣医の牧野が久世牧場に呼ばれるのは、今年に入って4回目だった。
電話は誠一からだった。
「ウメの仔。右の後ろ。蹄の裏を見てくれ」
それだけ言って切れた。
あの男の電話はいつも用件しかない。
それにしても、蹄の裏まで指定してくる生産者は珍しい。
5月の土曜。朝の8時。
牧野は厩舎の前に四駆を止めて、往診鞄をつかんだ。
鞄の口は開いている。閉めると次に開けるのが面倒なので、ここ20年ずっと開けっぱなしだ。
小さいパドックに、栗毛の1歳が1頭立っていた。
白いソックスが4本。目が細い。草も食わずに、眠そうな顔で突っ立っている。
牧野は柵にもたれて、しばらく歩かせ方を見た。
右の後ろも、ちゃんと地面についている。
「……どこも痛がってねえじゃねえか」
誠一は答えずに、1歳の無口をつかんで引いてきた。
その後ろに子供が一人ついてくる。
緑の長靴に、学校のジャージ。久世の倅だ。
名前はハル。先月9つになった、と奥さんから聞いた。
牧野は1歳の右の後ろ脚を持ち上げた。
蹄を返して、裏を見る。泥と寝藁が詰まっている。鉄の爪で掻き出していく。
真ん中のV字の溝の、脇。
小石が1つ、深く食い込んでいた。
小指の爪くらいの、角の立った石だ。周りがわずかに黒ずんでいる。
「……おい」
鉗子で抜くと、奥から少し膿が出た。
1歳がブルル、と鼻を鳴らした。
「まだ跛行も出てねえぞ。蹄の裏の石なんざ、普通は脚を引きずり出してから見つけるもんだ」
消毒して、包帯を巻く。
手は勝手に動く。頭のほうが追いつかない。
「あと2日もすりゃ膿が回って、脚つけなくなってたぞ。誠一さん、どこで気づいた」
誠一は答えなかった。
代わりに、目だけが動いた。
息子のほうに。
6年前と同じだ。
ウメが腹を痛がった日。腸がねじれる手前の疝痛を見つけたのは、奥さんだった。ということになっている。
あのときも誠一は黙って、3つの息子を見ていた。
3年前とも同じだ。
夜中の3時に叩き起こされて、ハナコの逆子を引っぱり出した。息をしていなかった黒い仔が咳き込んだ後、誠一はやっぱり息子を見ていた。
坊は柵の外に、長靴も履かずに立っていた。
今年に入ってからは、2月が歯で、3月がお産の日。どっちも坊だ。
4月はワクチンだった。これは普通の仕事だ。
「……坊、なんで分かった」
ハルは1歳の首の横に立っていた。
1歳が細い目で坊を見下ろして、坊が1歳を見上げている。
坊は一度だけ、誠一を見た。
誠一が小さく顎を引いた。
「本人が言ってた」
「本人」
「うん。右の後ろが痛いって。あと、これ労災おりますかって」
牧野は吹き出した。
「ろ、労災って、お前」
9つの子供の口から出る単語じゃない。テレビの見すぎだ。
「本人ってのは、この馬か」
「うん」
1歳がまた鼻を鳴らした。
ちょうど返事みたいな間だった。
「そうかそうか。馬が言ったか」
牧野は笑いながら包帯の端を留めた。
冗談のうまい子だ。誠一の息子とは思えない。
その誠一は笑っていなかった。
鞄を持って立ち上がる。開いた口から聴診器がはみ出した。
「坊。前にも言ったけどな、大きくなったら獣医になれ」
6年前は「やだ」だった。
坊は少しだけ考える顔をした。
「持ち帰って検討します」
「……どこで覚えたんだ、そんな言葉」
帰りの車で、牧野はずっと蹄の裏の石のことを考えていた。
跛行もない。熱も持っていない。外から見て分かるところは、どこにもなかった。
それを、どうやって当てる。
当てずっぽうなら、右の後ろの、しかも蹄の裏までは言わない。
赤信号で止まって、無精ひげを掻いた。白いのが混じりだして、もう何年になるか。今年で56だ。
青になっても、後ろの車に鳴らされるまで気づかなかった。
◇
月末の金曜。農協の2階の会議室。
生産部会の総会が終わると、長机が壁に寄せられて、そのまま懇親会になる。
缶ビールと乾き物。誰かの奥さんが握ってきたおにぎり。
町の馬を診る獣医は3人しかいない。牧野は毎年、来賓の端っこに座らされる。
今年は誠一を拾って来た。誠一の軽トラは奥さんが買い物に乗っていった。
缶が2本目に入った頃、隣の島から声が上がった。
「なあ。聞いたか、久世んとこの倅」
「倅?あのおとなしい子か」
「馬が分かるんだと」
「は?」
「当てるんだってよ。腹痛いのも、お産の日も、歯も」
「子供の当てずっぽうだろ。当たった分だけ噂になってんだよ」
最後のは繁殖を12頭持っている大きい牧場の親父だ。
ほかの何人かも鼻で笑った。
「先生、どうなのさ。久世んとこ診てんだろ」
矛先がこっちに来た。
牧野はビールを置いた。
「今月な。1歳の蹄の裏に、石が刺さってた」
「よくあるだろ、そんなの」
「跛行が出る前に、坊が当てた。右の後ろの、蹄の裏って」
島が静かになった。
「……マジで?」
「出る前に?」
「うちの若いの、引きずってても気づかねえぞ」
「蹄の裏って、そこまで言ったのか」
「うちの繁殖も見てもらえねえかな。今年3頭、止まんねえんだよ」
止まらない、というのは種付けしても受胎しないという意味だ。
12頭の親父だった。
さっき鼻で笑った口で言っている。
「いくら払えば来てくれんだ、あの子」
「小遣いでいいんじゃねえか」
「座敷わらしみたいなもんだろ」
「ああ、それだ」
「座敷わらしな」
「だから久世んとこ、潰れねえんだ」
「売れもしねえけどな」
島じゅうが笑った。
牧野はおにぎりをかじった。
梅だった。
「誠一さん。本当なの」
誰かが会議室の端に声を飛ばした。
誠一は一人で壁際のパイプ椅子に座って、ウーロン茶の缶を持っていた。
「……たまたまだ」
「たまたまで蹄の裏まで当たるかい」
「……たまたまだ」
同じ顔で、同じことを言った。
それ以上は何も出てこない。
「たまたまにしちゃ、うちの1歳が寄っていきましたけどね」
入口のほうから声がした。
紺のポロシャツの胸に、鷹の小さな刺繍。日に焼けた40代の男が、缶を片手に笑っている。
鷹司ファームの場長だ。
隣町の、GⅠをいくつも勝っている大手の、いちばん現場の人間。こういう寄り合いに顔を出すのは珍しい。
「去年の春の見学でね。うちの自慢の1歳が、坊ちゃんの前を素通りして、あの子のとこに行ったんですよ」
場長は缶を持ち直した。
「……坊ちゃんには内緒で。代表も、あの子に興味を持ってますよ」
それだけ言って、場長は誠一に軽く頭を下げた。
誠一は缶を持ったまま、頭を下げ返した。
「……鷹司が?」
12頭の親父が缶を置いた。
「玲司さんか。セリで2億出した」
「馬を驚かすからって、車を道の端に止めて歩いてくる人だろ」
「座敷わらしどころじゃねえな」
「……たまたまだ」
誠一が言った。
3回目だった。
懇親会がお開きになる頃には、牧野は缶を5本空けていた。
壁際のパイプ椅子に、どかっと座る。誠一の隣だ。
「なあ誠一さん」
「……ん」
「もう5月も終わりだぞ。ハナコ、まだ付けてねえだろ。何晩通帳とにらめっこしてんだ」
誠一は返事をしなかった。
ウーロン茶の缶を両手で包んでいた。
帰りは代行を呼んだ。
知らない若いのが牧野の四駆を運転して、後ろに牧野と誠一が並んで座る。
久世牧場は牧野の家に帰る道の途中にある。
国道に街灯はほとんどない。ヘッドライトの先に、ときどき鹿の目が光る。
代行の若いのはラジオもつけない。牧野も、しゃべる気力はビールで使い切っていた。
うとうとしかけた頃だった。
「……ハナコは、あの栗毛にする」
「あの?」
「種馬場の、いちばん奥の」
牧野は目を開けた。
知っている。何年か前に重賞を1つ勝って種牡馬になった栗毛だ。
産駒はさっぱり走っていない。今年の申し込みは7頭だと聞いた。今年いっぱいで用途変更かもしれない、とも。
「なんでまた」
誠一は毎年、血統表と通帳を何晩も並べてハナコの相手を決める男だ。その年の予算で届く、いちばんいい種牡馬を付ける。
去年ハナコに付けたのは、あの栗毛の3倍取る馬だった。
「予算か」
「違う」
「あの馬の仔、セリで値がつかねえぞ」
「知ってる」
「じゃあ、なんだ」
誠一は窓の外を見ていた。
暗くて何も見えないのに、見ていた。
「……息子が、ハナコがそっちがいいって言ってるって」
牧野は笑った。
笑ってから、隣を見た。
誠一は笑っていなかった。
「……血統表は」
「見てねえ」
あの誠一さんがだ。
「……本気か」
「あいつが言って、外れたことがない」
運転席の若いのが、ルームミラーでちらっとこっちを見た。
「さっきは、たまたまだって言ってたろ」
「人前ではな」
牧野は座席に深くもたれた。
鹿がまた1頭、道の脇でこっちを見ていた。
◇
6月の頭。ハナコはその栗毛に付けられた。
3週間後、牧野はハナコの腹にエコーを当てた。
白黒の画面の真ん中に、小さな丸い影が1つ。
受胎だ。
「止まったぞ」
誠一は頷いただけだった。
柵の外で、坊がハナコの顔を見上げていた。
「……ほんとに、それだけ?」
何の話かは分からない。
ハナコが鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
事務所に戻って、牧野は手帳を開いた。
後ろのほうの、来年の4月のページ。
下旬の欄に、ボールペンで書き込む。
久世・ハナコ。
字が少し曲がった。
その仔馬がのちに日本中を騒がせることになる。




