第4話 隣町の王子様
「君の家は、ほら、ほどほどの牧場だろう?」
始業式の次の日だった。
隣の席から、やけに通る声がした。
色白の男子が椅子ごとこっちを向いている。
黒い前髪は定規で測ったみたいにきっちり分けてあって、足元は茶色い革のブーツ。乗馬用らしい。
小学校に。
鷹司蒼真。
学区の反対の端、隣町との境にある鷹司ファームの息子だ。
1年のときは別のクラスだった。2年のクラス替えで、なぜか隣の席になった。
「うん。ほどほど」
「…………」
鷹司は口を半分開けたまま止まった。
否定されると思っていたらしい。
否定する材料がない。売れもしないし潰れもしない。それがうちだ。
あの逆子の夜から2年。
俺は8歳になった。
逆子で生まれたハナコの仔は、去年の夏に1歳のセリに出た。
値段は200万円ちょっと。
父さんは黙って書類にハンコを押した。母さんは「まあ、そんなもんよ」で夕飯の支度に戻った。
ほどほどの牧場の、ほどほどの値段だ。
◇
翌週の月曜。休み時間。
「聞き給え、諸君」
鷹司が教卓の前に立った。
誰も呼んでいないのに、立った。
「日曜の桜花賞、父様の牧場の馬が勝ったのだよ。GⅠだ。今年2つ目だ」
「すげー!!」
「テレビで見た!!ピンクの帽子のやつ!?」
「鷹司んち、金持ちだもんな!!」
「それ馬関係ある!?」
教室が沸いた。
ここは馬産地の小学校だ。
親が牧場か、牧場に餌を卸してるか、牧場の車を直してるか。GⅠの話は、天気予報くらいの距離にある。
鷹司がこっちを見た。
明らかに、こっちを見た。
「久世君の家の馬は、GⅠを勝ったことはあるかね?」
「ない」
「ふっ。そうだろうね」
「すごいね」
「…………」
鷹司の眉が寄った。
悔しがる顔が見たかったらしい。
悪いけど、前世では取引先に毎週マウントを取られてきた身だ。
8歳の自慢くらいでは、こっちの温度感は1度も上がらない。
「……では、見学会で本物を見せてあげよう」
鷹司が前髪を指で直した。
「今週の木曜、まちたんけんは鷹司ファームだ。父様が許可してくださったのだよ。覚悟しておき給え」
覚悟の要る見学ってなんだよ。
◇
木曜日。
バスを降りたら、柵が白かった。
どこまでも白い。
うちの柵は木の色だし、去年父さんが直したところだけ色が違う。
「ようこそ、鷹司ファームへ」
鷹司が先頭に立って両手を広げた。引率の先生より前にいる。
横では案内役のスタッフのお兄さんがにこにこしていた。出番は全部取られている。
「あちらが屋内の坂路コースだ。全長600メートル。雨でも雪でも調教ができるのだよ」
「あれがウォーキングマシン。馬が自動で歩く。一度に6頭だ」
「スタッフは40人いる。久世君の家は何人かね?」
「2人」
「2人!?」
クラスの何人かが笑った。
笑われても、2人は2人だ。父さんと母さん。俺を入れても2人半。
しかし、坂路に屋内馬場に40人。
福利厚生が手厚い。うちの会社に見せてやりたかった。
鷹司はそのまま厩舎の説明に移った。空調がどうとか、床の素材がどうとか。
正直、半分も聞いていなかった。
放牧地のほうがうるさかったからだ。
「来た来た来た、ガキの群れ!!」
「坊ちゃんもいるぞ!!」
「うわ、今日もニンジン見せびらかしに来たのか!?」
「見せるだけで食わせないんだよなあいつ!!」
「写真のときだけ寄ってくるのやめてほしい!!」
白い柵の向こうで、1歳馬が5頭、首をこっちに伸ばしていた。
全員、毛艶がいい。
うちの馬が普通に見える。いや、うちの馬は普通だ。
ここの馬も、中身は元人間らしい。
で、坊ちゃんの評判はだいぶ悪い。
◇
「さあ、諸君。僕の自慢の1歳を見せよう」
鷹司が柵に手をかけた。
視線の先にいたのは、5頭の中でいちばん大きな鹿毛だった。
首が長くて、脚がすらっとしている。素人目にも高そうな馬だ。
「おいで、ジュエル!」
「誰がジュエルだ」
鹿毛は動かなかった。
ジュエルではないらしい。
隣の芦毛が口を挟んだ。
「坊ちゃんが勝手につけてんだよ。正式な名前、まだないから」
「ジュエル!こっちだ!ほら!」
鷹司が上着のポケットを叩いた。
中からニンジンの先がのぞいている。
「出た!!出すだけのやつ!!」
うるさい。
でも、言っていることは分かる。
見積もりだけ取って発注しない客。いた。毎週いた。
俺は柵の端にいた。
鷹司から5メートルくらい離れたところ。先生にもクラスにも聞こえない声で、鹿毛に言った。
「……ニンジンの件、伝えときます」
鹿毛の耳がくるっとこっちを向いた。
「……今の、坊主か?」
「そう」
「え、今の坊主!?」
「聞こえてんの!?マジで!?」
「坊ちゃんより話通じるじゃん!!」
「俺の前世の話も聞いて!!税理士だったんだけど!!」
窓口、出張対応はしてないんだけど。
鹿毛がこっちに歩いてきた。
鷹司の前を素通りして。
「ジュエル!?」
鹿毛は俺の前で止まって、柵の上から鼻先を下ろした。
干し草の匂いのする、生温かい鼻息。
「伝えといてくれ。マジで頼む。俺、前世ホストだったんだけど、指名だけして延長しない客がいちばん嫌いでさ」
「分かります」
「馬鹿かね!?そっちは久世君だぞ!?」
鷹司の声が裏返った。
一拍おいて、クラス中が笑った。
引率の先生まで口元を押さえている。
「ジュエル、浮気された!!」
「久世、何したんだよ!?」
「何もしてない」
してない。伝言を預かっただけだ。
預かっちゃったし。
俺は笑い声の中を歩いて、鷹司の横に立った。
「鷹司。そのニンジン、あげたら来ると思うよ」
「なっ……」
鷹司がポケットを押さえた。
「な、なぜ僕のポケットのニンジンのことを知っているのかね!?」
「見えてるから」
半分だけ本当だ。
鷹司はしばらく黙っていた。
それから、ポケットのニンジンを柵の向こうに差し出した。
腕がまっすぐすぎる。ちょっと怖いらしい。
鹿毛は3秒考えてから、ニンジンをかじった。
「……食べた」
鷹司が小声で漏らした。
そこは嬉しいんだ。
「……まあ、今日のところはな」
「あの子、馬の扱い上手いね」
後ろで、スタッフのお兄さんの声がした。
奥から、年配のスタッフが顔を出した。
「あいつ、うちの新人が呼んでも来ないのに。どこの子だ?」
「久世さんとこの子だそうです」
「久世の……へえ。代表に言っとくか」
「久世んち、2人なのに!?」
「40人より2人のほうが強いじゃん!!」
鷹司の耳が赤くなった。
耳から頬へ、頬から首まで、順番に赤くなった。
「……久世君」
「なに」
「君は今日から、僕のライバルだ」
「やだ」
「拒否は認めないのだよ!!」
認めてほしい。
帰りのバスで、鷹司は一度もこっちを見なかった。
そのくせ、降りるときだけ振り返って「次は負けないのだよ」。
……まあ、いっか。
◇
その月の終わり。
「ハル。起きろ」
夜中の0時過ぎに、父さんの声がした。
目を開けると、部屋の入口に父さんが立っていた。作業着に、ヘッドライト。
「ウメだ」
それだけで、父さんは廊下に出ていった。
あの夜から、父さんは出産のたびに俺を起こす。
理由は一度も聞いていない。聞かれてもいない。
緑の長靴に足を入れる。3足目だ。小さくなるたびに、父さんが何も言わずに枕元に置く。
厩舎の通路に入ると、手前の馬房からハナコが首を出した。
「なんだい坊主、また呼ばれたのかい」
「ウメさん」
「ああ、あの子なら大丈夫だよ。段取りのいい子だから」
ウメはもう寝藁の上に横になっていた。
「……あ、ハルくん。夜分にすみません」
「ウメさん、大丈夫?」
「ええ、まあ。慣れてますので。これ、労災おりますかね」
「おりないと思う」
「ですよね」
出産中の母馬と労災の話をしている。
父さんは馬房の外で腕を組んで、黙って見ていた。
前の逆子のときみたいに飛び込む様子はない。
俺も柵の外に立った。
今回は何も言うことがなかった。
ウメの声は落ち着いていて、痛いとも苦しいとも言わない。
「はい、来ます」
「……はい、いったん休憩です」
「はい、もう1回来ます」
実況か。
30分くらいで、前脚が2本出た。
それから鼻先。頭。
あとは一気だった。
寝藁の上に、濡れた仔馬が出てきた。
栗毛の牝だった。4本の脚の先は母親と同じに白い。
仔馬は寝藁の上でしばらくぼんやりしてから、立ち上がろうとした。
転んだ。
もう1回。転んだ。
3回目。前脚が開きすぎて、また転んだ。
4回目でようやく立って、ふらふらしながら天井を見上げた。
目が細い。眠そうだ。
生まれたばかりなのに、もう眠そうだ。
「……どうだ」
父さんが仔馬から目を離さずに聞いた。
仔馬のことか、ウメのことか。たぶん両方だ。
「元気だって」
「……そうか」
父さんは頷いた。
それで終わった。
前世で、こんなに通る稟議はなかった。
ウメが首を起こして、仔馬の匂いを嗅いだ。
「お疲れさまでした。……かわいい」
それから、ちらっと俺を見た。
「……今のは、帳簿には載せないでくださいね」
「載せない」
父さんがヘッドライトを消した。
厩舎の中が裸電球の色だけになる。
時計は1時を回っていた。
ハナコの仔は生まれてから丸1日黙っていた。
こいつは1時間ももたなかった。
仔馬がふらつきながら、こっちを向いた。
細い目で俺を見て、天井を見て、また俺を見た。
「……これ、残業ですか」
母娘そろって経理っぽい。




