第3話 逆子と父の背中
3月14日。午前1時40分。
「坊主、起きな」
声で目が覚めた。
子供部屋の窓は指2本分だけ開けてある。相談窓口になってから2年、夜の受付はここでやっている。
母さんには「風邪ひくでしょ」と毎晩閉められる。母さんが寝てから、また開ける。
外は氷点下だった。3月の胆振はまだ冬の顔をしている。
厩舎は母屋の隣で、窓から20歩もない。
「……ハナコさん?」
「起きたね。いいかい、よく聞きな」
ハナコの声は低かった。
いつもの、店の常連の話をするときの声じゃない。
「まずい。逆さだ。脚じゃなくて尻が先に来てる」
「……え」
「7回産んでんだ。どっちが先かくらい分かるよ。水も出ちまった」
5歳の頭で、その意味を考えた。
ハナコは出産の予定日が近い。今夜あたりだと、夕飯のときに母さんが言っていた。
尻が先。
逆子だ。
「人を呼びな。早く」
俺は布団を蹴った。
パジャマのまま廊下に出る。床が冷たい。靴下を履く時間は惜しかった。
◇
居間のテレビ台の横に、モニターが置いてある。
分娩監視カメラの画面だ。この時期は毎晩、父さんがこの前で番をする。
父さんはソファで腕を組んだまま、首を落としていた。
寝ている。
出産シーズンの父さんは、朝4時半から働いて、夜は馬の番をする。いつ寝てるのかと思っていたが、ここで寝ていた。
「とうさん」
肩を揺すった。
父さんの目が開く。焦点が合うまで3秒かかった。
「……なんだ」
「ハナコが、くるしいって。あかちゃん、さかさまだって」
父さんがモニターを見た。
画面の中のハナコは、馬房の真ん中に立っていた。
ただ立っているだけに見える。白黒の画面だと、汗も息も分からない。
「立ってるだろ」
「でも」
「夢見たんだろ。寝ろ」
父さんはまた腕を組んだ。
通らなかった。
分かってはいた。「馬がそう言ってる」で動く大人はいない。2年前の昼、母さんで学んだ。
ただ、あのときと違うのは、今が夜中で、相手が父さんだということだ。
母さんは自分の目を信じる。父さんはたぶん自分の目しか信じない。
その目も、ついさっきまで閉じてた。
「とうさん。しんじなくていいから」
父さんの片目が開いた。
「それ、まきもどして。1ぷんでいいから」
「……」
「とうさん、ねてたでしょ」
父さんの眉が少しだけ寄った。
前世なら、商談中に寝てた先方に「寝てましたよね」とは言わない。
5歳なので言う。
「ハナコ、さっきから、3かい、ねて、おきた」
「しっぽ、ずっと、あげたまま」
「それで、みずみたいなのが、ざーって、でたって」
父さんの手が止まった。
組んでいた腕がほどけていた。
「……水」
「うん」
父さんがリモコンを取った。
録画を巻き戻す。画面の隅の時刻が、1時38分、1時30分、1時20分と戻っていく。
1時25分あたりで、ハナコが寝藁に倒れ込んだ。すぐに起きる。
また寝る。起きる。
3回目に起き上がったとき、尻尾が上がったままだった。
1時21分。ハナコの後ろ脚の間から、水が落ちた。白黒の画面でも分かるくらいの量だった。
父さんが早送りする。
1時21分から、今の1時41分まで。
ハナコの尻の下には、何も出てこない。
20分。
俺には意味が分からない数字だった。父さんの顔を見たら、分かった。
父さんは立ち上がっていた。
「澄子!」
寝室に向かって怒鳴る。5年生きてきて、父さんの大きい声は初めて聞いた。
「先生呼べ。ハナコだ。破水して20分、脚が見えねえ」
父さんは長靴に足を突っ込んで、玄関を出ていった。上着は着ていなかった。
◇
厩舎の明かりがついた。
「誠一さん、先生20分で来るって!」
母さんが携帯を握ったまま走ってくる。寝癖がひどい。
俺は母さんの後ろについて、ハナコの馬房の前まで行った。柵の外だ。それ以上は入れてもらえない。
「ハル、そこから動かない。いい?」
「うん」
馬房の中で、父さんが腕まくりをしていた。
肩まで消毒液をかけて、ハナコの後ろに回る。そのまま、腕を中に入れた。
ハナコが鼻を鳴らした。
「……尻だ」
父さんの声は短かった。
「尻尾が先にある。脚がねえ」
「どうするの」
「待てねえ」
母さんと父さんの会話は、それで終わった。
「坊主、聞こえるかい」
ハナコの声が来た。
息が荒い。片耳だけが俺のほうを向いていた。
「聞こえる」
小さい声で答えた。母さんは父さんの手元を見ている。
「あたしの相談、今日だったよ」
「そのうちって、言ってたじゃん」
「そのうちが今日なんだよ。……来る。押すよ」
ハナコの腹が波打った。
「とうさん、いま、おすって」
父さんは返事をしなかった。
ただ、腕を止めた。ハナコの波が引くまで、じっと待っていた。
「……引いた。今なら動かせる。右だ。右の後ろ脚が、奥で曲がって引っかかってる」
「みぎのあし、おくで、ひっかかってるって」
母さんが俺を見た。
父さんは見なかった。黙って、腕の角度を変えた。
前世で、こういう上司はいなかった。報告の出どころを聞かずに、中身だけで動く人は。
「そう、そこ。蹄だよ。手で包んで、こっちに……」
ハナコの声に合わせて、俺は言葉を短く切って父さんに渡した。
「いま、まって」
「いま、いい」
「ひだりも、おなじだって」
父さんの額から、汗が顎まで落ちていった。
寒い厩舎の中で、父さんの背中だけが湯気を立てていた。
やがて、ハナコの後ろから、小さな蹄が2つ出た。
後ろ脚だ。普通とは逆向きの。
「出た!」
母さんの声が裏返った。
通路の両側の馬房から、首が全部こっちに伸びていた。
「ハナコ、いける!!」
「今の脚、いい脚だった!!」
「呼吸!!ひっひっふーだよ!!」
「それ人間のやつ!!」
「あたしの時は22時間かかった!!」
応援なのか思い出話なのか分からない。
車の音がしたのは、そのすぐ後だった。
獣医の先生が、往診鞄を開けたまま走ってきた。寝間着の上にジャンパーを羽織っている。
「誠一さん、状況!」
「逆子。後ろ脚は2本出した」
「よし。上出来だ。ロープ」
先生が仔馬の脚に産科用のロープを掛ける。父さんと二人で、それを握った。
「尻から来る仔は、へその緒が先に潰れる。もたもたしてると、中で息が止まるぞ」
「分かってる」
「次の陣痛で一気に行く。奥さん、頭のほう押さえて」
母さんがハナコの頭に回った。
俺は柵の外にいた。
陣痛がいつ来るのか、人間には見ても分からない。
でも俺には聞こえる。
「……来るよ、坊主。来る、来る」
「くる」
自分で思ったより、5歳の声は厩舎によく通った。
先生が一瞬こっちを見た。
父さんは見なかった。
「引け」
父さんが言った。
二人がロープを引く。ハナコが唸る。
後ろ脚が伸びて、腰が出て、濡れた背中が出て――
仔馬が寝藁の上に落ちた。
全部が出るまで、5秒かからなかった。
黒い仔馬だった。
額のところに、大きなまだらの白い模様がある。
動かなかった。
胸が上下していない。
「……息してねえ」
先生が寝藁をひとつかみ取って、仔馬の胸をこすり始めた。強く、何度も。
父さんが仔馬の鼻に指を入れて、詰まった膜をかき出す。
母さんは何も言わなかった。
さっきまでうるさかった通路の馬たちも、全員黙っていた。
俺は耳を澄ませた。
馬の声なら聞こえる。生まれたばかりでも、中身は人間だ。何か言うはずだ。
何も聞こえない。
前世の終電の駅で、名刺入れを握っていた手を思い出した。あのとき俺の周りでも、誰かがこんなふうに――
いや。
今はいい。
「戻ってこい」
父さんが言った。
仔馬の顔に向かって、低い声で。
「戻ってこい。まだ何もしてねえだろ」
先生が胸をこする。
父さんがもう一度、鼻の膜を拭う。
仔馬の脇腹が、ぴくっと動いた。
次の瞬間、仔馬が咳き込んだ。
げほっ、と。人間みたいな咳だった。
黒い胸が大きく膨らんで、しぼんで、また膨らんだ。
「……よし」
先生が寝藁を放り投げた。
「よし、よし。息した。こいつ、息したぞ」
母さんがその場にしゃがみ込んだ。
通路の両側から、嘶きが一斉に上がった。
人間の耳には、ただの大騒ぎだ。
俺の耳にも、ただの大騒ぎだった。全員が同時にしゃべるので、一つも聞き取れない。
先生が手を洗いながら、父さんのほうを向いた。
「……誠一さん。破水して20分で俺を呼んだよな」
「……」
「破水して20分で呼ばれて、間に合った逆子。俺の30年で何頭もいねえぞ。普通は脚が見えねえって気づいた時には、もう遅い」
「……」
「なんで分かった?」
父さんは答えなかった。
ロープを巻きながら、一度だけ、柵の外の俺を見た。
先生が父さんの視線を追った。俺と目が合う。
「……また坊か」
父さんは答えない。ハナコの首を撫でている。
先生は無精ひげを掻いて、それ以上は聞かなかった。
「で、先生。今日の、いくら?」
「奥さん、夜中の3時だぞ」
「夜中の3時だから聞いてんの」
母さんの声は、まだ少し震えていた。
それから母さんは、柵の外の俺を見た。
「……ハル。あんた、また言ってたね」
「うん」
母さんはそれ以上聞かなかった。聞かないことにしたらしい。
窓の外が白んできた。
仔馬は寝藁の上で、まだ立てずにいた。ハナコがその背中を舐めている。
「窓口、夜間もやってんのかよ!!」
「坊主に一票!!」
「何の選挙だよ!!」
「脚には自信ある!!牝馬だけど!!」
最後のは、この前も聞いた。
「坊主」
ハナコが顔を上げた。
「よくやったね。あんたの通訳、いい出汁が出てたよ」
「……ぼく、しゃべってただけ」
「それでいいんだよ。泣くんじゃないよ」
「ないてない」
「あっそ」
ハナコはまた仔馬を舐め始めた。
泣いてない。
たぶん。
◇
夜明けの厩舎の前は、息が白かった。
俺は入口の段差に座っていた。足の裏が冷たい。靴下を履いてくればよかった。
隣に、父さんがしゃがんだ。
作業着の袖が、肘までハナコの色に汚れていた。
しばらく、父さんは何も言わなかった。
父さんが何も言わないのはいつものことなので、俺も何も言わなかった。
「……なんで分かった」
父さんの声は、厩舎の中で聞いたのと同じくらい低かった。
ごまかす言葉は、いくつか思いついた。夢で見た。音が聞こえた。なんとなく。
どれも5歳児が言って不自然じゃない。
眠かった。
「ハナコさんが言った」
そのまま言った。
父さんは何も言わなかった。
厩舎の中で、ハナコが鼻を鳴らした。
長い間があった。
父さんの手が、俺の頭に乗った。
大きくて、消毒液の匂いがした。
「……次も言え」
それだけ言って、父さんは立ち上がった。そのまま厩舎に戻っていった。
頭が消毒液くさい。
……決裁、下りたらしい。
◇
次の日の朝。
目を覚ますと、枕元に長靴が置いてあった。
子供用の、緑色の長靴だった。
誰が置いたのかは、聞かなくても分かった。母さんならまず「いくらだった」と言うし、こんなに黙って置かない。
履いてみた。
長靴は少し大きかった。
来年にはちょうどよくなる。
その長靴で、厩舎まで歩いた。20歩もなかった。
ハナコの馬房では、黒い仔馬が4本の脚で立っていた。ハナコの腹の下に頭を突っ込んで、乳を探している。
生まれてから丸1日、こいつは一言もしゃべらなかった。ハナコが話しかけても、鼻を鳴らすだけだった。
仔馬がこっちを見た。
額のまだらの白斑ごと、首をぐいっと持ち上げて。
生まれて初めての声だった。
「……リングはどこだ」
中身、絶対ボクサーだろ。




