第2話 定時で上がらせてください
3歳になった。
あの夜、俺はハナコに頷いた。首がすわっていなかったので、正確には頷けていない。
でも伝わったらしい。
それから3年。ハナコとは毎日しゃべる仲になった。
しゃべるといっても、俺の口が回り出したのは最近で、それまでは一方的に聞かされていた。
主に、ハナコの店の常連の話を。
「だからね、未練ってのは鍋の焦げみたいなもんさ」
6月の朝。放牧地の柵の前だった。
ハナコは柵の向こうで草を食みながら、口だけこっちに向けてしゃべる。器用な馬だ。
「こびりついて取れないやつ。そういうのを残して死んだのが、馬になる」
「なんで、うま?」
「知らないよ。あたしが決めたんじゃないし」
説明が雑だった。
3年聞いてきて分かった。ハナコの説明は全部この調子だ。
カツ丼の作り方を聞いても「卵は気分で落としな」で終わるタイプ。
「じゃあ、みんな、まえのこと、おぼえてる?」
「覚えてるよ。全部。死んだ日に何食べたかまで」
「ハナコさんは?」
「店のまかない。肉じゃがの残り」
即答だった。
つまり、こういうことになる。
この牧場の馬は全員、なにか案件を抱えたまま退職した人たちで、しかも引き継ぎ資料を1枚も残していない。
そりゃ毎日うるさいわけだ。
「それとね、坊主」
ハナコが草から顔を上げた。片耳だけがくるっとこっちを向く。
「人間に生まれ直したのは、あんたが初めてだよ」
「……はじめて?」
「種付けに行った先でも、セリの控えでも、そんな話は聞いたことないね。馬の噂は早いんだよ。食堂のおばちゃんの噂と同じくらい」
前例がない。
前世でいちばん聞きたくなかった言葉だ。
「なんで、ぼくだけ」
「だから知らないって。食べな」
ハナコが鼻先で、柵の下の草を俺のほうへ押した。
3歳児は草を食べない。
「昔ここにいた子たちも、みんな面白かったよ。サチって子がいてね。前は保育士でさ、仔馬の世話がそりゃうまくて」
ハナコは楽しそうに続けて――
そこで止まった。
草を噛む音も止まった。
よく動く片耳が前を向いたまま動かない。
「……サチさん、いまは?」
「さあね」
それだけだった。
ハナコはまた草に顔を戻した。さっきより少し強く、根元から引きちぎっていた。
先方の机の写真立てに触れたら、空気が変わるやつだ。
「それよりさ」
ハナコが鼻を鳴らした。
「ウメがさ、朝から変なんだよ」
◇
ウメの馬房は通路の真ん中あたりにある。
艶のある栗毛で、4本の脚の先だけが靴下を履いたみたいに白い。
まつ毛がやたら長くて、伏し目がちに見える。牧場でいちばん上品な顔の馬だ。
足元では、今年生まれた仔馬が丸くなって寝ていた。
「あ、ハルくん。おはようございます。……ハナコさんから伺ってます。聞こえるんですよね」
情報管理がざるだった。
ウメは前世で経理部の課長補佐だった。最後の月は残業200時間。
俺が生まれた日に、通路の向こうから自己申告していた。
「ウメさん、どうしたの」
「いえ、大したことでは」
ウメは長いまつ毛を伏せた。
前脚で寝藁をざりっと掻いた。
「……すみません。正直に申し上げます」
「うん」
「お腹が痛いです。定時で上がらせてください。もう乳が出ません」
足元の仔馬が寝ぼけた声を出した。
「おかあさん、ごはん……」
「本日の業務は終了しました」
「えー……」
仔馬は不満そうに、また寝た。
「いつから?」
「朝から張ってる感じはありました。はっきり痛くなったのは、1時間くらい前からですね」
「どのへん?」
「左のほうです。お腹の、奥の」
ウメは首を曲げて、自分の脇腹を振り返った。
馬は腹を手で押さえられない。手がない。
「本当は横になって転がりたいんですけど、転がるとまずい気がして我慢してます。前の会社でも、腹痛で倒れたら次の日には席がなくなってたので」
ざりっ。
また前脚が寝藁を掻いた。
「ごめんなさい、これ、勝手に出ちゃうんです。手があれば押さえてるんですけど。ないので、掘ってます」
発症時刻、部位、自覚症状、本人の対処。
問題はこの報告を受け取れる人間が、この牧場に3歳児しかいないことだった。
通路の端で、母さんが一輪車に寝藁を積んでいた。
俺は走った。短い足で。思ったより進まない。
「かあさん」
「はいはい、どした」
「ウメ、おなかいたいって」
「お腹すいたの?もうすぐお昼だからね。ちょっと待ってて」
流された。
秒で。
「ちがう。ウメが」
「ウメもお腹すいてるねえ。みんなすいてるよ。はい、どいてどいて」
母さんの一輪車が俺の横をすり抜けていった。
うん。
今の俺の語彙は「おなか」と「いたい」しかない。
喉の奥が熱くなった。
泣くつもりはなかった。3歳の涙腺は決裁を待たない。
「うええ」
「あらら、お腹すきすぎた?はいはい、おいで」
抱っこされた。
違う。そうじゃない。
背中をとんとんされながら、俺は母さんの肩越しにウメの馬房を見ていた。
ざりっ、という音がまた聞こえた。
◇
昼飯は焼きそばだった。
俺が麺と格闘していると、母さんの携帯が鳴った。
「はい久世です。……ああ、飼料屋さん。……で、いくら?」
箸を持ったまま、母さんの眉間にしわが寄る。
「先月より上がってるじゃない。……配達日?ごめん、今それやってる暇ない。また夕方かけ直す」
切った。
30秒かかっていない。
そういえば、この3年で母さんがいちばん口にした言葉は「で、いくら?」で、2番目が「今それやってる暇ない」だった。
金と手間。
それと、自分の目。母さんは業者の「大丈夫ですよ」より、自分で触った飼い葉の湿り気を信じる人だ。
窓の外から、厩舎の音がかすかに聞こえる。
ざりっ。
「ウメがおなかいたいって言ってる」は通らない。さっき通らなかった。
だったら、通訳はしない。
母さんが自分の目で確かめられることだけを言う。
昼の片付けが終わったところで、俺は母さんのエプロンを引っぱった。
「かあさん」
「ん?」
「ウメ、さっきから、まえあしでガリガリしてる」
母さんの手が止まった。
「……ガリガリ?」
「うん。こう」
俺は床を片足で掻いてみせた。たいして迫力はない。
「あと、おなかのほう、なんかいも、ふりかえってる」
「……」
「ねころがりそうで、ねころがらない」
舌が回らない。「寝転がりそう」が「ねころがりしょう」になりかけて、言い直した。
営業トークを3歳児の語彙に圧縮するのは、思ったより骨が折れる。
母さんが俺の顔を見た。
それから、何も言わずに長靴を履いた。
ウメは前脚で寝藁を掻いていた。
ざりっ。ざりっ。
首を曲げて、脇腹を振り返る。膝が一度かくんと折れかけて、また踏ん張る。
母さんが長靴のまま馬房に入った。
「……疝痛だ」
疝痛。馬の腹痛のことらしい。母さんがポケットから携帯を出すまで、2秒かからなかった。
「先生?久世です。ウメが疝痛っぽいの。前掻きして、脇腹見てる。……うん、すぐ。お願いします」
電話を切るなり、母さんはウメの顔に無口を掛けた。
無口というのは、馬の顔に掛けるベルトのことだ。名前のわりに、父さんよりは役に立つ。
「ハル、そこにいて。動かないで」
「うん」
通路に引き出されたウメの横に、どこからか父さんが走ってきた。
放牧地から全力で来たらしく、作業着が草だらけだった。
「澄子、歩かせろ。転がすな」
「分かってる」
父さんが反対側の手綱を取った。
会話は1往復で終わった。前に聞いたときより、さらに1往復少ない。
「すみません、ご迷惑を……」
ウメは引かれながら、両側の人間に謝っていた。誰にも聞こえていない。
獣医の先生は30分で来た。
白髪まじりの無精ひげで、往診鞄の口が最初から開いている。
聴診器を当て、口の中を見て、脇腹を押す。ウメの長いまつ毛がぴくっと震えた。
「詰まりかけてるな。腸がねじれる手前だ」
鎮痛剤が打たれる。首に針が入って、点滴の袋が柱に吊るされた。
先生が手を洗いながら言った。
「奥さん、よく気づいたな。半日遅かったら危なかったぞ。ねじれてたら開腹で、そうなったら助かるかどうかも五分五分だ」
開腹。
俺でも分かる。金額も手間も、桁が変わるやつだ。
「……で、先生。今日のは、いくら?」
「開腹よりは安いよ」
「そりゃそうでしょ」
母さんは息を吐いて、それから柱に寄りかかった。
少し間があった。
「……この子が」
「ん?」
「この子が、見つけたの。前脚でガリガリしてるって。お腹振り返ってるって」
先生が俺を見た。
子供を見る目にしては、ずいぶん長かった。片方の眉が上がっている。
「坊が?」
「……ぼく、みてただけ」
俺は母さんの足の後ろに隠れた。
ここで「経理出身の母馬から発症時刻と部位の自己申告がありまして」と言うわけにはいかない。
「見てただけ、ねえ」
先生が無精ひげを掻いた。
「前掻き見て腹だって分かる奴、牧場で働いてる若いのでも半分いねえぞ。脇腹振り返るのまで見てたなら、なおさらだ」
「でしょ?」
母さんがなぜか胸を張った。さっきまで「お腹すいたの?」と言っていた人だ。
ウメの手綱を持ったまま、父さんがこっちを見ていた。
俺の顔を見て、頷く。
5秒かかった。
前は3秒だった。2秒長い。
「坊。大きくなったら獣医になれ」
「やだ」
即答したら、先生が笑った。
鞄を閉めながら、最後にもう1回こっちを見た。
夕方には、ウメの前脚は止まっていた。
点滴の管をぶら下げたまま、ウメが長いまつ毛をこっちに向けた。
「ハルくん。ありがとうございます。本当に」
「よかった」
「ひとつ伺ってもいいですか」
「なに?」
「これ、労災おりますかね」
おりない。
たぶん。
◇
その夜。
夜飼いに出る母さんが、長靴を履きながら言った。
「ハル。……また、なんか変だったら言ってね」
冗談半分の声だった。
残りの半分は聞かないことにした。持ち帰って検討します、ってやつだ。
俺は「うん」とだけ答えて、母さんのあとについて厩舎に入った。
入った瞬間だった。
「来た!!」
「坊主が来た!!」
「ねえ聞いて、ブラシの角度がさあ!!毎回逆なんだって!!」
「リンゴ!リンゴの交渉して!!」
「隣のいびきなんとかして!!こっち3年寝不足なんだけど!!」
「脚には自信ある!!牝馬だけど!!」
最後のは相談じゃない。
通路の両側から、首が全部こっちに伸びていた。
母さんには、今夜はやけに馬が鳴くねえ、くらいにしか聞こえていない。
「噂は回るのが早いって言ったろ」
奥から3つ目の馬房で、ハナコが片耳をくるっと回した。
「定食屋とおんなじさ。うまい店はすぐ広まる」
うまい店になった覚えはない。
広めたのはあんただろ。
「あたしの相談は、そのうちね」
ハナコはそれだけ言って、飼い葉桶に顔を突っ込んだ。
ウメの馬房は静かだった。
点滴の外れた首を下げて、仔馬に乳をやっている。
業務、再開したらしい。
その横を通りながら、俺は両側からの相談を全部聞いた。ブラシの角度。リンゴ。いびき。
いちばん端の、尻尾の短い葦毛だけは小さい声だった。
「……前世の娘がね、今年受験なの。受かったかどうか、知る方法ないかな」
それにはすぐに答えられなかった。
メモは取れない。3歳なので。
全部覚えた。
その日から、俺は牧場の馬全員の相談窓口になった。
受付時間の案内はない。定休日もない。
3歳児に何させる気だ。




