第1話 転生先、牧場の息子でした
《さあ最後の直線!先頭は内で粘る鹿毛、リードは2馬身!》
《外から一頭!大外から栗毛が飛んでくる!》
《セリで誰も手を挙げなかった栗毛だ!》
《カミノイッテ!カミノイッテだ!》
《差が詰まる、1馬身、半馬身――》
《並ぶか!並ぶか!》
……まあ、それは13年後の話で。
13年前の俺は、まだ首もすわっていなかった。
◇
干し草の匂い。
目を開けると、天井に太い梁が通っていた。
知らない天井だ。
いや、そういうのはいい。
問題は首が動かないことだった。
手を上げようとする。上がった。視界の端に、やたらと小さい手が見える。
ぷくぷくしている。指が短い。爪が紙みたいに薄い。
……誰の手だ、これ。
握ってみる。握れた。
俺の手らしい。
最後の記憶を探す。
終電の駅の階段。34歳。食品卸の法人営業。月末の数字が足りなくて、握った名刺入れだけがやけに重かった。
中には1枚だけ、誰かの名刺が残っていた気がする。誰のだったかは思い出せない。
階段の途中で、膝から力が抜けた。名刺入れは離さなかった。
そこまで。
その先はたぶんない。
「あー」
声を出してみた。
あー、しか出なかった。
なるほど。
理解は早かった。営業は状況把握が9割だ。残りの1割は愛想。
俺は赤ん坊になっている。
「あら、起きた?」
覗き込んできたのは、30歳くらいの女の人だった。
日焼けした頬。後ろで一つに束ねた髪に、白いタオルを巻いている。笑うと目尻に細いしわが寄る。
「ハル、おはよう」
ハル。
俺の名前らしい。
前世の名前より画数が少ない。それはいい。
その肩の後ろから、もう一人が顔を出した。
背が高い。無精ひげ。くたびれた作業着の袖から、ごつい手首が出ている。こっちは笑わない。俺の顔を3秒ほど見て、それだけで頷いた。
「この子、あんまり泣かないね」
「……そうか」
「そうかって。もうちょっと何かないの」
「……行ってくる」
男の人は長靴を鳴らして出ていった。
あれが父親か。
会話が2往復で終わった。営業なら初回の商談で「持ち帰って検討します」と言われて、二度と連絡が来ないタイプだ。
壁の時計。
4時半。
朝の。
……4時半に、行ってくる?
台所のラジオが天気予報を流していた。
『胆振地方、今日は晴れ。朝の最低気温は2度の見込みです』
胆振。北海道だ。
窓の外は白い柵と草地で、その奥を茶色い大きなものがゆっくり歩いている。北海道で馬ってことは、まあ牧場なんだろう。ここは。
前世の俺は定時で帰れる人生に憧れていた。一度でいいから、明るいうちに家に着いてみたかった。
生まれ変わった先の始業時刻、4時半。
定時の概念、ない。
……まあ、いっか。
赤ん坊だし。
「さ、ハルも行こうね。馬さんにご挨拶」
母親は俺を抱っこ紐で胸にくくりつけ、そのまま長靴を履いた。
赤ん坊を抱いたまま仕事に出るのが、この家の普通らしい。
外の空気は冷たかった。4月なのに。
◇
厩舎は細長い建物で、通路の両側に馬の部屋が並んでいた。
中は思ったより暖かい。獣の体温と、藁と、少しだけ糞の匂い。
母親がバケツを置いて、手前の扉の閂を外した。
「ねえ、今日のエサ、ちょっと少なくない?」
……ん?
「気のせいでしょ」
「いや少ないって。昨日より一掴み少ない」
「奥さん最近痩せたもんねえ。寝てないんだよ」
「少ないなら少ないなりに食べな。文句は腹が膨れてから言いな」
奥のほうから、低い声がひとつ飛んで、通路が一瞬だけ静かになった。
「赤ん坊連れてきたよ」
「え、どれどれ」
声がした。
人間の声だった。
しかも、おばちゃん。
母親を見上げる。母親は鼻歌まじりに、飼い葉桶へ穀物をあけている。通路にほかの人間はいない。
いるのは馬だけだ。
「目つき悪っ」
「中身おっさんみたいな顔してる」
「生まれたてであの顔はないよねえ」
おっさんで悪かったな。
いや、待て。
今、誰がしゃべった。
一番手前の栗毛が、飼い葉桶に顔を突っ込んだまま、もぐもぐと口を動かしている。
「んー、やっぱ少ない」
しゃべってる。
馬が。
母親が栗毛の首をぽんと叩いた。
「はいはい、鳴かない。量はちゃんと量ってます」
鳴いてる、ことになっている。
母親にはブルル程度にしか聞こえていないらしい。
俺の耳には給料日前のおばちゃんの愚痴に聞こえる。
疲れてるのか。生後1週間で。
「それよりさ、今年の仔、いくらで売れると思う?」
「去年のは300万ちょいだったって」
「ほどほどだねえ」
「ほどほどだよ、この牧場は。売れもしないけど潰れもしない」
「旦那さんがまじめだからね。口はきかないけど」
「口きかないのは、あたしらに対しても一緒でしょ」
「……今年の子は、350いってほしいなあ」
母親が飼い葉桶を覗きながら、ぼそっと言った。
馬と話が噛み合っている。本人は気づいていない。
横で聞いている俺の頭に、勝手に数字が並ぶ。
1頭300万ちょい。この通路にいる母馬が6頭。全部が毎年売れるわけじゃないだろうし、エサ代も獣医代もかかる。
……利益率、低そうだな。
生後1週間で家業の決算を心配している。
「でもさあ、赤ん坊ってかわいいよね。あたし前は孫が3人いたんだよ」
「あたしもいたよ。区役所勤めの頃は毎年年賀状が来てさ」
「区役所って窓口?」
「住民課。38年」
「長っ」
「私なんて経理で、最後の月は残業200時間でしたよ」
「あたし来月予定日なんだけど!!誰か代わって!!」
「中身は元競輪選手だぞ!!脚には自信ある!!牝馬だけど!!」
同窓会か。
「あたしなんか、死ぬ前の日まで店に立ってたよ」
低くて、よく通る声だった。
奥から3つ目の馬房。艶のある濃い茶色の体に、黒いたてがみ。額から鼻先まで、白い筋がまっすぐ1本流れている。片方の耳だけがくるくるとよく動く。
ほかの馬より一回り大きい。そこにいるだけで、通路の真ん中に座っているような馬だった。
「ハナコさんは食堂だもんね」
「大衆食堂。カツ丼が名物でね。……まあ、昔の話だよ」
「昔っていうか、前世ね」
「そうそう。ここにいる全員、元は人間だもんねえ」
……は?
前世。
元は、人間。
さっき聞いた単語が、頭の中で勝手に並ぶ。
区役所。住民課38年。大衆食堂。孫3人。
職務経歴書か。
いや、そういう問題じゃない。
馬の前世ってなんだ。
というか、全員って言ったか。今。
通路の両側にずらっと並んだ馬が、全員。中身は人間で、全員が自分の前世を覚えていて、全員がエサの量に文句を言っている。
俺は赤ん坊で、首もすわっていなくて、それを黙って聞いている。
……状況把握が9割とか言ったの、誰だ。
「で、結局エサ少なくない?前世の給食より少ないんだけど」
栗毛がもう一度言った。
だめだった。
「きゃっ、きゃっ」
笑ってしまった。赤ん坊の声で。
「あら!ハル、笑った!初めて笑った!」
母親がはしゃいでいる。そのまま栗毛の首まで叩いて、栗毛に嫌がられている。
違う、母さん。
今のは馬のギャグで笑った。
奥の馬房で、ハナコの片耳がこっちを向いたのが見えた。
◇
夜中に目が覚めた。
腹が減っている。それから、おむつが重い。
赤ん坊にできる意思表示は一つしかない。
泣いた。
仕事として泣いた。
「はいはい、起きたねえ……」
母親が寝ぼけた声で起きてきて、一通りの世話を済ませる。手際がいい。完全に目が開いていないのに、手だけ動いている。
「……ついでに見回り、行こっか」
夜中の何時か知らないが、母親は俺を抱いたままジャンパーを羽織った。
夜の厩舎は裸電球が一つだけ点いていた。
馬たちはほとんど寝ている。立ったまま寝ているのもいる。
「……だから、住民票はさあ……」
寝言まで言う。
母親は1頭ずつ覗いて、水桶の量を確かめていく。
奥から3つ目で、足が止まった。
ハナコが起きていた。
「ハナコ、起きてたの。どうしたの」
ハナコは母親ではなく、抱っこ紐の中の俺を見ていた。
大きな黒い目だった。電球の光が丸く一つだけ映っている。
「……昼間の坊主だね」
独り言みたいに言う。
俺は寝たふりをすることにした。
聞こえていることがばれたら、どうなるのか分からない。分からないことは、とりあえず黙っておく。持ち帰って検討します、ってやつだ。
赤ん坊だけど。
薄目だけ開けておく。
「ねえ坊主。あたしはね、若い頃は商店街のミスコンで3年連続1位だったんだよ」
ぶふっ。
鼻から変な音が出た。
出してしまった。
3年連続は盛りすぎだろ。
「あらま、また笑った。ハナコが好きなの?」
母親は呑気だ。
ハナコは何も言わなかった。
片耳だけを、ぴたりと俺のほうに向けたまま。
しばらく、ずっと。
ハナコが母親のほうに首を伸ばして、ブルル、と鼻を鳴らした。
「はいはい、おやすみ」
母親はハナコの額を撫でて、背中を向けかける。
届いていない。
それを確かめてから、ハナコの鼻先が俺のほうへすっと寄ってきた。
干し草と温かい息の匂い。
「……あんた、聞こえてんのかい」




