第10話 俺の名義で走らせる
「で、いくらかかるの?」
母さんが電卓を引き寄せた。
主取りの3日後。夕飯のあとの台所だ。
父さんが「ハナコの仔、うちで走らせる」と言ってから、1分もたっていない。
母さんが帳簿を開いた。
「預託料。美浦の厩舎なら月70万」
電卓を叩く音だけが台所に響く。
「年に840万」
母さんは計算結果を父さんのほうへ向けた。数字はきっちり揃っている。
父さんは腕を組んだまま、電卓の数字を見た。
「……分かってる」
短かった。
母さんが電卓の横にペンを置いた。
「今年の1頭はもう決まってるでしょ」
父さんは答えなかった。
父さんが腕を解いて、テーブルの端に両手をついた。
「……そっちは脚元がな」
それだけ言った。
母さんがペンを置いた手をそのままに、もう一言足した。
「それに今のうちの数字だと、この先ずっと続けられるかも怪しいけどね」
父さんは顔を上げなかった。
うちは毎年1頭だけ父さんの名義で走らせている。
「10月のオータムセールに回す手もあるよ」
母さんは電卓を引き寄せ直した。
「でもね」
電卓の数字を消して、また叩く。
「秋の相場は300万台。また主取りの可能性もある」
主取り。
3日前に聞いた言葉が、台所にもう一度落ちた。
母さんは数字を父さんのほうへ向けない。自分の手元に置いたままだ。
父さんがテーブルから手を離した。
椅子を引いて、座った。
「分かってる」
さっきと同じ言葉だ。
母さんは電卓を閉じて、帳簿の上に置いた。
「分かってるなら、いいけど」
それだけ言って、流しのほうへ行った。
父さんはしばらく座ったままだった。
俺は茶碗を重ねるふりをして、二人の顔を見ないようにした。
数字は全部出ている。
出ているのに、決めるのは父さん一人だ。
「あの子は絶対走る」
気づいたら口から出ていた。
台所の空気が一瞬止まった。
母さんが流しからこっちへ振り返る。布巾を握ったまま、目だけ細くした。
「絶対って言う人ほど信用できない」
はい。
前世でも言われた。決裁は数字で下りる。熱意で下りた試しがない。
「脚が長いし、内も回れる。セリでは誰も見てなかったけど、僕は毎朝見てる」
「毎朝見てるのはあんたでしょ。あんたが走るわけじゃない」
母さんの言い方は早口で、包丁の音みたいに粒が揃っている。
父さんはまだ座ったままだった。
俺は茶碗を置いた。
「絶対、は取り消す」
母さんが手を拭きながら、ふうんとだけ言った。
父さんがこっちを見た。
「父さん。今年の1頭、脚元で見送りでしょ」
父さんの眉が少しだけ動いた。
「……ああ」
認めた。
母さんが流しに布巾を掛ける。背中を向けたままだ。
「新馬戦で勝ったら、今の条件で780万」
台所の空気が、さっきと違う。
数字は静かだ。
「馬主は8割。620万。預託料の9か月分弱」
母さんの背中が止まった。
「あと生産牧場賞が47万」
父さんは腕を組んだ。
「お前、どこで覚えた」
「JRAのサイトに書いてあった」
「秋のセリに出し直しても、300万で売れるかどうか」
俺は続けた。
「売れても、手数料と運賃を引いたらほとんど残らない」
母さんが振り返った。
こっちを見ている。
「母さんが言ったとおり、主取りもある」
台所に、冷蔵庫の音だけが残った。
父さんは腕を組んだまま動かない。
母さんは電卓に目を落としている。
俺は台所の隅の棚から、自分の通帳を取り出した。
ゆうちょの、青い表紙の通帳だ。
テーブルの真ん中に置いた。
「これ、僕のお年玉の貯金です」
母さんの視線が通帳に落ちた。
「12万円」
父さんの眉が、さっきより少しだけ上がった。
「預託料の1か月分にもならない。分かってる」
俺は通帳を母さんのほうへ押した。
「でも、出せます」
母さんが通帳を開いた。
指で1行ずつなぞって、最後のページの残高を見る。
「12万3,451円」
読み上げた。
それから吹き出した。
「足りないわよ」
笑い声が台所に広がる。腹を抱えるようにして笑っている。
「足りないわよ。月70万よ?12万で何ができるの」
はい。
数字は正しい。反論の余地がない。
「預託料1か月分にも足りないって自分で言ったそばからこれよ」
母さんは笑いながら通帳を閉じた。
青い表紙をテーブルの上で一度叩いて、それから俺のほうへ押し戻す。
「でも」
笑い声が急に小さくなった。
「気持ちは受け取った」
通帳が俺の前に戻ってくる。
母さんは流しに戻って、蛇口をひねった。
水の音が台所を埋める。
父さんはまだ腕を組んだまま座っている。
母さんが皿を洗いながら背中で言った。
「決めるのはあんた。私は数字を出しただけ」
父さんは電卓を見たまま動かない。
決裁は下りていない。
出た数字は全部テーブルの上にある。
それでも父さんの手は動かない。
父さんが腕を解いた。
「……俺の名義で走らせる」
母さんの手が止まった。
蛇口から出る水の音だけが続く。
母さんは振り返った。
溜め息をついた。
長い溜め息だった。
「1年だけね」
父さんは電卓を見たままだった。
「1年やって、ダメだったら降りる。それでいい?」
父さんが顔を上げた。
「……ああ」
短かった。
母さんは流しに戻って、蛇口を止めた。
水の音が消えると、台所はしんと静かになった。
「ハル。通帳しまいなさい」
はい。
俺は通帳を棚に戻した。
青い表紙が、さっきより少しだけ重く感じた。
父さんは椅子から立ち上がった。
「風呂、先に入る」
そう言って台所を出ていった。
廊下を歩く足音が遠くなる。
母さんは皿を洗いながら、独り言みたいに言った。
「1年よ」
◇
9月。厩舎の前に、1台の軽トラが止まった。
軽トラのドアが、きしんで開いた。
運転席から降りてきたのは、小柄な爺さんだ。
日焼けした禿頭に、色の褪せたキャップ。
手の甲に、古い蹄の傷が白く残っている。
父さんが厩舎から出てきた。歩く速さを変えない。
梶先生だ。
美浦の調教師、梶重蔵。68歳。
父さんの古い付き合いだ。
「よお」
梶先生は片手を上げた。
「ハナコは元気か」
厩舎の入口で、梶先生が中をのぞく。
「変わりない」
父さんの答えは短い。
「そうか。あの歳であの体型なら、上等だ」
梶先生がキャップを脱いで、禿頭を拭いた。
9月の日差しはまだ強い。
「ところがな、久世さん」
梶先生が急に早口になった。
この人の中身はここからだ。
「うちの厩舎、預託馬が減ってるんだよ。先月2頭、今月1頭。みんなよその厩舎に移っちまった」
指を3本立てる。
「理由はな、簡単だ。俺が年寄りだからだ。馬主は若い調教師に預けたがる。当たり前だ。俺が馬主でもそうする」
自分で言って、自分で笑う。
父さんは黙って聞いている。
梶先生は構わず続ける。
「ハナコの仔、ブチカマシな」
急に名前が出た。
ハナコの仔。源さんの半兄。
「あれがな、まだうちにいる」
梶先生がキャップをかぶり直した。
「気性がな、最後まで抜けなかった。返し馬で暴れる。パドックで暴れる」
2つ指を折る。
「調教は走るんだ。時計も出る。だがレースに行くと、全部パドックで使っちまう」
父さんは何も言わなかった。
梶先生も、慰めを求めてるわけじゃない。
ただの報告だ。
梶先生は、今度は俺のほうを見た。
初めてだ。
「坊主。お前、馬が分かるんだってな」
「……少しだけです」
「少しでいい。少し分かる大人は、この業界にそういない」
梶先生はそれだけ言って、また父さんのほうへ向き直った。
俺は源さんの馬房のほうを、ちらりと見た。
扉の上から、栗毛の耳が2つこちらを向いている。
まだ、声はしない。
「で、見せてもらおうか。ハナコの仔を」
梶先生がキャップのつばを上げた。
父さんが黙って厩舎の中へ入る。
馬房の留め具が外れる音。
蹄が土を踏む音が2つ、3つ。
源さんが出てきた。
扉の前で一度止まる。
首を上げて、知らない爺さんを正面から見た。
「お、威嚇もせんのか。ハナコの仔は気が荒いと聞いてたが」
梶先生が笑う。
「ハナコは荒くない」
「母親の話はしてないよ、久世さん。ブチカマシのほうだ」
源さんの半兄の名前だ。
源さんは動かない。
耳だけが梶先生のほうを向いている。
「歩かせてみろ」
父さんが引き綱を取る。
厩舎の前の砂利道を、向こうの端まで歩く。
梶先生は動かない。
その場に立ったまま、目だけで追っている。
戻ってくる。
父さんの肩の横に源さんの肩が並ぶ。早足の大人の速さ。
止まる。
砂利を踏む音。蹄鉄はまだ履いていない。素の蹄だ。
「ふむ」
梶先生がようやく歩き出した。
源さんの前にしゃがむ。
前脚を持ち上げる。
手つきは速い。
見ているようで見ていない、慣れた手だ。
前脚を下ろすと、今度は後ろへ回った。
源さんの真後ろに立つ。
源さんの耳が後ろを向く。
「後ろは嫌いか」
梶先生が笑いながら、右の後脚を持ち上げた。
飛節。管。球節。
「脚は長い。長いが細くはない。骨の通りもいい」
左の後脚も同じ順で触る。
それから立ち上がって、源さんの胴に手を当てた。
肋骨の1本1本を数えるように、指を滑らせる。
「胴は詰まってる。胴が詰まってると、たいてい息が続かん」
父さんが頷いた。
梶先生は続ける。
「だがな、久世さん。ここからが本題だ」
胸の深さを、手の幅で測る。
「心臓がでかい」
手を動かさない。
「長いところで化けるかもしれん」
父さんは何も言わなかった。
梶先生は手を離して、キャップをかぶり直した。
「調教で時計を出して、それからだ。まだ何も言えん」
正直な爺さんだ。
褒めるときも、必ず次を付ける。
梶先生は源さんを見た。
源さんは黙っている。
鼻も鳴らさない。
尾も振らない。
俺は馬房の影からそれを見ていた。
40年ぶんの講釈を飲み込んで、この馬は今、じっと立っている。
「いいか、坊主。お前はどう思う」
梶先生がこっちを見た。
「……手前は2週間で替えました。右も左もです」
「ほう」
梶先生は何も言わなかった。
源さんの耳が、俺のほうを向いた。
次の瞬間だった。
「兄ちゃん。今の言い方じゃ足りねえぞ」
源さんが首を上げた。
梶先生の胸のあたりに鼻先を突き出す。
「聞け、爺さん。俺の胴が詰まってるのは欠点じゃねえ」
鼻息が梶先生のジャンパーにかかる。
「ラチ沿いをぴったり回って、直線で外に出る。これができる1歳が、今年の市場に何頭いたと思う。俺の脚を見ろ。この長さだ。胴が詰まってるんじゃねえ、詰まらせてるんだ。余ったぶんが前に出てるんだよ」
ブルル、ブルル。
「それからな、息が続かねえって言ったな。心臓がでけえんだろ。でけえ心臓が詰まった胴の中にあるんだ。長いとこで切れるわけがねえ。俺は40年、そういう馬を何百頭も見てきた」
梶先生は動かなかった。
源さんの鼻先が、梶先生のキャップのつばに当たっている。
「……よくしゃべる馬だな」
梶先生がようやく言った。
「うちの厩舎でいちばんうるさい馬でも、ここまで鳴かん」
父さんが引き綱を短く持った。
源さんが渋々といったふうに首を引く。
「手前を2週間で替えた1歳に、この心臓だ」
「来年の春、うちで預かろう」
梶先生がキャップをかぶり直した。
梶先生は軽トラのほうへ歩き出した。
3歩で振り返った。
「坊主」
「はい」
「さっきの答え、覚えとけ」
俺は頷いた。
軽トラのドアが、きしんで閉まった。
エンジンがかかる。
砂利を踏んで、軽トラは門を出ていった。
源さんは馬房の前で立ったまま、排気ガスの残る道のほうを見ている。
「兄ちゃん」
「はい」
「あの爺さん、分かってる」
「そうですね」
源さんが右前脚で地面を3回叩いた。
乾いた音が3つ、厩舎の前に落ちた。
その夜。
厩舎の明かりの下で、父さんが俺を呼んだ。
馬房の前で父さんが立っていた。
手に、白い紙を1枚持っている。
競走馬登録の申込書だ。馬名の欄が空欄になっている。
「名前はお前が決めろ」
それだけ言って、紙を俺に渡した。
前世で言えば、稟議書の決裁欄を空けて部下に回すようなものだ。
いや、もっと重い。
この牧場の看板を背負う名前だ。
「僕がですか」
「お前が毎朝見てる馬だ」
父さんはそれだけ言うと母屋のほうへ歩いていった。
俺は馬房の前にしゃがんだ。
源さんが扉の上から顔を出している。
「兄ちゃん。決まったか」
「まだです。今から決めます」
「俺の名前だぞ。いいか、候補はもう考えてある」
源さんの耳が両方こっちを向いた。
「まず1つ目。バケンオヤジ」
「却下です」
「はええよ」
「馬名はカタカナ2文字から9文字です。意味も審査されます」
「意味はあるぞ。馬券で食ってきたオヤジだ」
「JRAが通りません」
「ちっ。じゃあ2つ目。ゲンサンダイショウ」
「それも却下です」
「なぜだ。立派なもんだろ」
「自分の名前をそのまま入れるのは格好悪いです」
「格好は関係ねえ。強けりゃいいんだよ」
「強い名前がいいなら、もっと別のがあります」
「じゃあ兄ちゃんは何にするんだよ」
「考えます」
「今考えろ」
「今考えてます」
紙の上で鉛筆を止めた。
「なあ兄ちゃん」
「はい」
「名前の話は置いとくとしてだな」
「置いとくんですか」
「俺は昔な、一度だけ神の一手ってのを打ったことがある」
源さんの耳が両方こっちを向いた。
鼻先が扉の縁に乗っている。
「神の一手」
「ああ。もう20年も前だ」
「その日の俺はな、午前中の3レースで財布が軽くなってた。だから最後の1レースに全部乗せた」
「当てにいったんじゃねえ。取り返しにいったんだ。これが違うんだよ。当てにいく馬券は死なねえ。取り返しにいく馬券は死ぬ」
「はい」
「俺の本命はな、4コーナーで3番手。直線で抜け出した。残り200で2馬身。これはもう俺の金だと思った」
「思った」
「ゴール前でひっくり返った」
「……」
「12番がな、外から飛んできやがった。ハナ差だ。ハナ差」
「ハナ差」
「あのな、兄ちゃん。ハナ差ってのはな、あるんだよ。写真を見ても分からねえくらいの差で、金が俺の手から離れてった」
源さんが右前脚で地面を3回叩いた。
乾いた音が3つ。
「それ以来な、俺はあれを神の一手って呼んでる」
「負けた馬券を神って呼ぶんですか」
「当たってたら神じゃねえ。ただの儲けだ。最後の直線まで当たってて、ゴール前でひっくり返ったから神なんだよ」
俺は鉛筆を持ったまま、その言葉を紙の上でなぞった。
カミノイッテ。
6文字。
カタカナ2文字から9文字。条件に合う。
「源さん」
「なんだ」
「カミノイッテ、はどうですか」
源さんが鼻を鳴らした。
「……ダサくねえか」
「バケンオヤジよりは」
源さんの耳が片方だけ後ろに倒れた。
「そりゃそうだが」
「由来も説明できます。最後の直線まで当たってた馬券です。ゴール前で負けた」
「負けの話を名前に入れるか、普通」
「普通じゃないから覚えられます」
「そういうもんかね」
「そういうもんです」
源さんはしばらく黙った。
尻尾が寝藁を1回払った。
俺は鉛筆を紙の上に置いた。
馬名の欄に、カタカナで6文字。
「カミノイッテ」
書いた。
字はうまくない。11歳の字だ。
それでも、欄は埋まった。
カミノイッテ。
馬主、久世誠一。
生産者、久世牧場。
預託先、美浦・梶厩舎。
馬房の扉の上から、源さんがそれを見ている。
「……悪くねえな」
さっきダサいって言ってた。




