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馬の声が聞こえるようになったと思ったら実は馬は全員元人間だった。  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第2章「売れ残りの馬券おやじ」

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第11話 入厩




 茨城県、美浦トレーニング・センター。


 1歳の秋から冬にかけて、源さんは牧場と近くの育成場で人を乗せる練習を積んだ。


 背中に鞍を置いて、最初はゆっくり、そのうち速足で。


 2歳の4月、源さんは美浦の梶厩舎に入厩した。


 ゴールデンウィーク。


 俺と父さんは北海道から美浦まで来ていた。


 トレセンの正門で車を降りた。


 広い。


 まずそれだ。


 厩舎が並んでいる。厩舎の向こうにも厩舎。その向こうにも厩舎。


 番号の札がずらりと続いて、道はどこまで行っても厩舎だ。


「……工業団地だ」


 思わず口に出た。


 工場の代わりに馬がいる。それ以外はだいたい工業団地だ。


 父さんが地図を見ながら歩き出す。


 俺はそのあとに続いた。


 厩舎のあいだの道。芝のコース。奥には坂路。


 プールの建物まで見えた。


 馬が泳ぐ専用のプールだ。


 うちの牧場の水桶とは規模が違う。


「兄ちゃん」


 声がした。


 振り返る前に、梶厩舎の馬房の窓から栗毛の首がにゅっと出ているのが見えた。


「ここが俺の新しい職場か」


 源さんの声は弾んでいる。


「職場って言うんですか」


「そうだろ。ここで走って金を稼ぐんだからな」


「金を稼ぐのは馬主です」


「細けえことはいいんだよ。それより見ろよ、兄ちゃん。坂路だぞ。坂路」


 源さんの鼻先が窓の外に出たり引っ込んだりしている。


「40年通った競馬場の裏側に、まさか自分が入るとはな」


 茶色いウッドチップが斜めに奥へ伸びている。奥へ行くほど急になる坂だ。


「あの坂路で何頭の馬券が死んだと思ってる」


「死んでるんですか」


「死んでる。俺の金がな」


 源さんは馬房の中で足踏みを始めた。


「JRAはな、坂路を公開してんだ。調教の時計も発表する。俺らはそれを見て印を打つ。この坂を登り切れねえ馬は切る。登った馬は買う。40年それでやってきた」


「今日は登ってないですよ」


「分かってる。だがな、見ろよあの角度だ。テレビで見るのと全然違う。画面の向こうの坂路に今俺がいるんだぞ」


「いるのは馬房です」


「細けえことはいい」


 源さんの尻尾が扉を叩いた。バタン、バタン。


 そのとき厩舎の入口が開いた。


 キャップの爺さんが出てくる。梶先生だ。


「よお」


 梶先生は片手を上げた。父さんが軽く頭を下げる。


「久世さん。はるばるご苦労さんだ」


「ああ」


 父さんの返事はそれだけだ。


 梶先生は構わず続ける。


「坊主も来たか。北海道からよく来たな」


「はい。お世話になります」


「礼儀正しい坊主だな。うちの厩舎にはいない」


 梶先生はキャップを脱いで禿頭を拭いた。


「いいか坊主。ここはな、美浦だ。JRAのトレセンは美浦と栗東の2つしかねえ。ここに入るだけで金がかかる。馬運車がな、北海道から1頭運ぶのに十何万だ」


 指を立てる。


「だからな、入った馬は走らせなきゃならん。走らせて元を取る。厩舎ってのはそういうとこだ」


「はい」


「だがな」


 梶先生がキャップをかぶり直す。


「うちの厩舎は今、馬房が半分空いてる」


「半分」


「そうだ。20ある馬房のうち9つが空きだ。おとといも1頭出ていった。馬主が若い先生に替えるってよ」


 父さんは何も言わない。


 梶先生は自分の厩舎のほうを見た。長い建物だ。扉が並んでいる。


 数えると、半分近くの扉に名札がない。札が外れた跡だけが白く残っている。


 梶先生は厩舎の扉を順に指で示していく。


「久世さんとこの生産馬でうちが預かってるのは、ほかに2頭ある」


 指を2本立てる。


「1頭はウメの仔のミスオフィス。4歳の牝馬だ」


「ウメ」


 父さんが小さく頷く。


「もう1頭はハナコの上の仔。ブチカマシ。6歳」


 源さんの半兄の名前だ。


「この2頭は今、外の牧場に放牧に出してる」


「放牧」


「だから今この厩舎にいる久世さんの馬は、カミノイッテ1頭だけだ」


「はい」


「寂しいもんだろ。うちの厩舎はいつもこんなもんだ」


 梶先生は自分で言って、自分で笑った。


 源さんが馬房の窓から鼻を鳴らした。


「兄ちゃん。ブチカマシの野郎、まだ外にいるのか」


「放牧だそうです」


 源さんの耳が片方だけ後ろに倒れた。


 梶先生がキャップのつばを直した。


「で、だ。坊主」


「はい」


「お前さん、カミノイッテの担当に会っとけ」


 梶先生は厩舎の奥のほうへ声をかけるように、少しだけ首を伸ばした。


「紹介する」


 厩舎の中から、誰かが歩いてくる気配がした。


 厩舎の奥から、女の人がひとり出てきた。


 キャップの後ろから、黒い髪が一つに束ねて出ている。


 日焼けした頬。


 袖をまくった厩舎ジャンパー。


 手にはホース。


「担当の戸川だ」


 梶先生が俺の背中を軽く押した。


「戸川です。よろしくお願いします」


 戸川さんは短く頭を下げた。


 それだけだった。


 挨拶は3秒で終わって、そのまま源さんの馬房の前まで歩いていく。


「脚元冷やしますね」


 声は俺にではなく、たぶん父さんに向いていた。


 ホースの先から水が細く出る。


 戸川さんは片膝をついて、源さんの右前脚に水をかけ始めた。


 手際がいい。


 水の角度を少しずつ変えて蹄の上から球節、管と順に冷やしていく。


「あの」


 俺は一歩近づいた。


「坊ちゃん、そこ蹴られますよ」


 戸川さんはこっちを見なかった。


 声だけが飛んできた。


 丁寧だけど、距離がある。


 営業で言うなら、アポなし訪問の受付の人だ。


「蹴りませんよ。この馬」


「馬は蹴ります」


 戸川さんは片膝をついたまま、水の角度を変えた。


 それから一度だけ顔を上げて、源さんを見た。


 右前脚の球節に、細い水が当たっている。


 源さんは動かない。


 さっきまで窓から首を出して坂路の講釈を垂れていた馬が、ぴたりと黙っている。


「源さん」


 聞こえないように小声で呼んだ。


「この人、どうですか」


 返事がない。


 源さんの耳は戸川さんのほうへ向いている。


 鼻も鳴らさない。


 尻尾も振らない。


 坂路の話は3回聞いた。


 担当の話は、まだ一度も聞いていない。


 俺は馬房の扉の横に立ったまま、もう一度だけ言った。


「源さん」


 返事がない。


 講釈の途中で黙る源さんは見たことがある。


 人の値踏みを頼まれて黙るのは、初めてだ。


 戸川さんは左前脚に移って、同じように蹄の上から順に水をかけていく。


 手つきは一定の速さだ。


「坊ちゃん」


 戸川さんが手元を見たまま言った。


「その馬、脚元冷やすの嫌がらないですね」


「……はい」


「いい馬ですよ」


 それは俺に言ったのか、馬に言ったのか。


 たぶん馬に言ったんだと思う。


 源さんはまだ黙っている。


 耳だけが戸川さんの手の動きを追いかけている。


 戸川さんが立ち上がる。


 ホースの口を親指で押さえて、余った水を切った。


 しぶきが通路の砂に細く落ちる。


 それから膝についた砂を払って、馬房の扉を閉める。


 全部の動作が同じ速さだ。


「失礼します」


 それだけ言って、戸川さんは厩舎の奥へ歩いていった。


 長靴の音が遠ざかる。


 その後ろ姿を源さんは首を伸ばして見送った。


 馬房の窓から出した首が、通路の角まで向いている。


「……いい腕だな」


 源さんが言った。


 それだけだ。


 講釈も、解説も、予想もない。


 通路の向こうから、声がした。


 梶先生の声だ。


「どうだ、戸川」


「脚元は問題ないです。それと」


 戸川さんの声が、少しだけ間を置いた。


「この子、私の顔を見るとじっとするんです」


「ほう」


「水をかけてる間、ずっと耳をこっちに向けて。馬房に戻してからも、窓から首を出して見てました」


「人懐っこいのか」


「そうじゃないと思います」


 戸川さんはきっぱり言った。


「見られてる、っていうか。品定めされてる感じです。変な子」


 事務所は狭い。


 古い机がひとつと、壁いっぱいの予定表。出走表の切り抜きが画鋲で留めてある。


 窓から馬房の並びが見える。


 梶先生が湯飲みを二つ机に置いた。


「いいか坊主。ついでに聞いとけ」


 湯気が立っている。


 梶先生は自分の湯飲みを持って椅子に座った。


「大きな牧場はな、勝つ見込みのある馬をみんな大手の厩舎にまとめて預ける。勝てる厩舎に馬が集まる。馬が集まるから勝てる。そういう回り方だ」


 湯飲みを一口すすった。


「うちみたいな小さな厩舎には、小さな牧場の馬しか来ない。たまに来ても勝てない。勝てないから馬が来ない」


 父さんは黙って頷いた。


「空いた馬房はそのままだ。埋まらん」


 梶先生は窓の外の馬房を見た。


「この馬が勝てばな、うちにも少しは馬が来る」


 父さんはまた頷いた。それだけだ。


 俺は湯飲みを持ったまま窓の外を見た。


 向こうの厩舎の並びに、源さんの馬房がある。


 梶先生が湯飲みを机に置いた。


 音がやけに大きく聞こえた。


「坊主」


「はい」


「ゲート試験は6月だ」


「ゲート試験」


「ゲートの中に入れてな、じっとしてられるか。合図でまっすぐ出られるか。それを見る試験だ。勝ち負けを見るんじゃない。速さは二の次だ。入って、待って、出る。それだけだ」


「それだけ」


「そうだ。だがな」


 梶先生は湯飲みをもう一度持った。


「この3つができん馬が、山ほどいる」


 湯気の向こうで目が細くなる。


「入れねえ馬。待てねえ馬。まっすぐ出ねえ馬。調教で時計を出しても、ここで落ちる馬を俺は何頭も見てきた」


 父さんが小さく頷いた。


 梶先生はそれきり、湯飲みをすすった。


 事務所に、時計の音だけが残った。


 帰り際、源さんの馬房の前に寄った。


 源さんが馬房の窓から顔を出した。


 鼻先に砂が少しついている。


「6月のゲート試験、また来ます」


 言ってから気づいた。


 6月。ゲート試験。


 学校がある。


 北海道から美浦まで、飛行機でも半日だ。


 平日に一人で来るのは無理だ。父さんも牧場を空けられない。


「……来られないかもしれないです」


「は?」


 源さんの耳が両方こっちを向いた。


「6月、学校があるんで」


「ああ、そうか」


 源さんは鼻を鳴らした。


 軽い音だった。


「兄ちゃんがいなくても受かるって」


「はい」


「ゲートなんざ、入って待って出るだけだろ」


「はい」


「40年、俺はゲートの前で何百頭も見てきた。出遅れる馬はな、だいたい気性だ。俺の気性は自分が一番分かってる。入れろって言われりゃ入る。待てって言われりゃ待つ。出ろって言われりゃ出る」


「はい」


「だから兄ちゃんは来なくていい。なあに、心配すんな」


 ブルル、と鼻を鳴らした。


 いつもの調子だ。


 講釈も戻ってきた。


「兄ちゃん」


「はい」


「なんだよ、その顔。心配そうな顔すんな。俺は大丈夫だ」


「はい」


「6月、兄ちゃんがいなくても受かる。これは予言じゃねえ。確定だ」


 源さんの尻尾が扉を1回叩いた。


 バタン。


 自信満々の音だ。


 その自信、40年分の外れ馬券と同じ匂いがする。

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