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馬の声が聞こえるようになったと思ったら実は馬は全員元人間だった。  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第2章「売れ残りの馬券おやじ」

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第12話 ゲートの礼儀




「落ちました」


 戸川さんの声だった。


 6月の水曜の夜。台所のテーブルの上で、父さんのスマホがスピーカーになっている。


「ゲート試験です。カミノイッテ、今日の試験は落ちました」


 戸川さんの声が続く。


 俺は椅子の背もたれに寄りかかった。


 テレビは点いていない。


 冷蔵庫のモーターの音だけが、低く響いている。


「原因は出遅れです。ゲートには素直に入りました。中でもじっとしていました。扉が開いてから、一拍半、出るのが遅れました。暴れてはいません」


 戸川さんの声は淡々としている。


 一拍半。


「あの、戸川さん」


 父さんより先に口が出た。


「源……カミノイッテ、今どうしてますか」


「馬房にいます。……ちょっと待ってくださいね。先生が、見せてやれって」


 電話が切れて、すぐにビデオ通話の呼び出し音が鳴った。


 画面に梶先生の顔が出る。


「ほら」


 梶先生がカメラを横に向ける。


 源さんの馬房が映った。


 源さんは馬房の窓から首を出している。


 こっちを見て、口を大きく開けて、何か言っている。


 ブルル、ヒヒン、ブルルルル。


 鼻を鳴らす音と、喉を鳴らす音だけが聞こえる。


 言葉にならない。


 画面の中で、源さんが首を伸ばす。


 耳が左右に動く。


 尻尾が扉を叩く。


 バタン、バタン。


 講釈を垂れているときのリズムだ。


 でも俺には、鳴き声しか分からない。


 字幕なしの洋画だ。


 唇の動きと、耳の動きと、尻尾の音だけで、意味を探そうとする。


 でも無理だ。


 牧場では、馬はいつも隣にいた。


 馬房の中だろうと、運動場だろうと、声はすぐそばで聞こえた。


 離れても、同じ建物の中なら聞こえた。


 だから、こんなふうに画面越しに聞こえないなんて、考えたこともなかった。


 画面の端に、戸川さんが映った。


 源さんの前に立って、静かに見ている。


 源さんは彼女には何も言わない。


 耳を少し動かしただけだ。


「再試験は来週の水曜です」


 戸川さんが画面の端で言った。


「今度はゲート練習を挟んでから行きます。先生が」


 画面の向こうで梶先生がうなずく。


 父さんが俺を見た。


 一拍。


「金曜、美浦に行きたいです」


 父さんは何も言わなかった。


 母さんが味噌汁の鍋の火を止めた。


「学校は」


 短く聞いた。


「金曜だけ休みます」


 母さんは少しだけ眉を寄せた。


 それからため息をひとつついて、味噌汁のお椀をテーブルに置いた。


 母さんが父さんを見た。


「……父さん」


「……飛行機、取っとけ」


 父さんは短くそう言った。


 牧場を空けられないはずの人が、言った。


 母さんは「はいはい」と言って、ポケットからスマホを取り出した。


 冷蔵庫のモーターの音が、また低く響いた。


◇


 金曜の朝。美浦、梶厩舎の洗い場。調教帰りだ。


「いいか、兄ちゃん。ゲートってのはな、狭えんだよ」


 源さんは洗い場の柱につながれたまま言った。


 洗い場のコンクリートに、朝の光が白く反射している。


 ブラシを持った戸川さんが、少し離れたところで水を流していた。


「兄ちゃんが見てるよりずっと狭え。肩が壁に当たる。足も壁に当たる。息を吸うと、隣の馬の鼻息が聞こえる。出遅れたくねえって思ってる奴らの息だ」


「はい」


「前を見ても、鉄の柵だ。外が見えねえ。後ろを振り向けねえ。誰が扉を開けようとしてるかも分からねえ。俺は40年、ゲートは外から見てきた。中の気持ちは知らなかった」


 源さんの耳が、通路の奥を一度だけ向いた。


「中に入ったら、考えちまった。扉が開いたら、どこに走り出すのか。どのタイミングで蹴り出すのか。スタートしてから、隣の馬にぶつかるかもしれねえとか。そういうことを、考えちまった」


「それが一拍半」


「そうだ」


「考えてるうちに、扉が開いたんですね」


「ああ。こう、考えてるとよ」


 源さんの右前脚が、ゆっくりと地面を3回叩いた。


 とん、とん、とん。


 考えるときの癖だ。


 いつもなら、俺に講釈を垂れる前のリズム。


 でも今日は、そのリズムが遅い。


「考えてるうちに、扉が開いちまった」


「……そうでしたか」


「出遅れたくねえって思ってたのに、考えてたら、遅れた」


「はい」


 ブルル、という低い音が洗い場に響いた。


 少し離れたところで、戸川さんのブラシが止まっていた。


 一拍。


 それから何事もなかったように、また動き出した。


「源さん」


「おう」


「さっきから聞いてると、ゲートが狭いとか、隣の馬が気になるとか、後ろの係員がいつ扉を開けるか分からないとか」


「ああ」


「それ、全部先方の都合ですよね」


「は?」


 源さんの耳が、左側の馬房を向いた。


 俺もそっちを見る。


 洗い場のすぐ横の馬房の窓から、大きな顔が出ていた。


 黒い馬体。


 額に大きなまだらの白斑。


 目の周りが真っ黒だ。


 源さんの兄貴、ブチカマシだ。


 放牧から、月の頭に戻っていたらしい。


 梶先生いわく、返し馬でもパドックでも暴れる。ゲートだけは一度も出遅れたことがない。


「……おう、うるせえな」


 低い声がした。


 ブチカマシの声は、源さんより短い。


 一拍ごとに言葉が来る。


 ブチカマシの目が、源さんを通り越して俺に止まった。


「……でかくなったな、坊主」


「はい」


「こいつ、毎晩うるせえんだよ」


「……はい」


 ブチカマシの目が、源さんに戻った。


「落ちたんだってな」


「うるせえな、お前には関係ねえだろ」


「関係ある」


 ブチカマシの耳が、左右に一度だけ動いた。


「こいつが落ちたら、うちの牧場の馬は全部落ちたことになる」


「おい、どういう理屈だよ」


「リングに上がる前に負けたみたいで、ムカつく」


 ブチカマシの鼻が鳴った。


 源さんより少し低い音だ。


「だから1回だけ教えてやる」


「いらねえよ」


「聞け」


 ブチカマシの目が、俺を一瞬だけ見た。


 それから源さんに戻る。


「ゲートに入ったらな、一礼しろ」


「は?」


「リングに入るときと同じだ。レフェリーと相手に一礼する。俺はいつもそうしてきた」


「ここはリングじゃねえよ」


「一緒だ。入ったら一礼。考えるのは入る前に済ませろ」


「……お前、ボクサーだったんだろ」


「そうだ」


「なんでそんな話になるんだよ」


「お前、出遅れたくねえって思ってたんだろ」


「……ああ」


「だったら、思ってることを、入る前に決めておけ。『出遅れたくない』『隣にぶつかりたくない』ってな。中で考えんな」


「そんな簡単に言うなよ」


「簡単だ」


 ブチカマシの耳が、少し内側に倒れた。


「中では何も考えない。リングに上がったら、相手の顔だけ見る。それ以外は考えない。ゲートも同じだ」


「……」


「考えたきゃ、今のうちに考えろ。ゲートの中じゃねえ。今のうちに全部決めろ」


 源さんは何も言わなかった。


 代わりに、右前脚で地面を3回叩いた。


 とん、とん、とん。


 考えるときの癖だ。


「……年下に説教される筋合いはねえ」


 源さんが低く言った。


「は?」


 ブチカマシの耳が、源さんのほうを向いた。


「源さん」


 俺は小声で言った。


「中身はブチさんのほうが年上かもしれないですよ」


 源さんは何も言わなかった。


 右前脚がもう一度、地面を叩いた。


 とん、とん、とん。


 3回目で止まった。


 それから小さく鼻を鳴らした。


「……考えねえ」


 源さんがぽつりと言った。


「次は考えねえ」


「おう」


 ブチカマシが短く答えた。


 ゲート練習は、コースの端だった。


 俺は梶先生の案内で、柵の外。父さんと並んで、梶先生と戸川さんの後ろに立った。


 厩舎のほうから、ヘルメットを両手で持った若い男の人が走ってくる。


 細身で、短く刈った茶色っぽい髪。


 厩舎の青いジャンパーの袖が少し短い。


 走りながら、ずっと頭を下げている。


「……すみません。遅れました」


 その人は、梶先生の前で立ち止まって、もう一度深く頭を下げた。


 顔を上げると、目が泳いでいる。


「相沢だ」


 梶先生が短く言った。


「乗って6年目だ。余りもん同士だ」


「……はい」


 相沢騎手はまた小さく頭を下げた。


 余りもん。


 相沢騎手と、源さん。


 余りもん同士。


 俺は源さんを見た。


 戸川さんに引かれた源さんは、じっと相沢騎手を見ていた。


 耳が左右に一度だけ動いた。


 それだけだった。


「……ヘタそうだな」


 源さんがぼそっと言った。


 小さく鼻を鳴らす。


 ブルル。


 相沢騎手はヘルメットを両手で持ったまま、源さんの前で小さく頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 声が小さかった。


 でもちゃんと聞こえた。


 相沢騎手は戸川さんに脚を持ち上げてもらって、慎重に跨った。


 細い体が、源さんの背中に収まる。


 鐙の位置を調整して、手綱を握る。


 それからまた、小さく頭を下げた。


「やってみます」


 その声も、小さかった。


 ゲートまでは50メートルほどある。


 ここからだと、源さんの声は届かない。


 1本目。


 源さんはゲートの前に立った。


 係員がゲートの手前で肩に手を置いて、「おーし、いいぞ」と声をかける。


 源さんは一度だけ耳を動かして、それからゲートの中に自分で入った。


 じっとしている。


 鼻先が、扉の向こうの空気を探るように動いた。


 扉が開く。


 隣のゲートの馬も一斉に飛び出す。


 源さんは、一拍遅れて出た。


 ほんの一拍。


 でも確かに遅れている。


 少し走って、相沢騎手が源さんを柵のそばまで戻してきた。


「どうだ」


 梶先生が聞く。


「ちょっと……落ち着きすぎてるかもしれません」


 相沢騎手がヘルメットを脱ぎながら答えた。


 額に汗が浮いている。


「兄ちゃん」


 柵のそばなら、源さんの声は届く。


「乗り役がヘタなんだよ」


「今のは源さんの出遅れです」


 小声で返した。


 馬上の相沢騎手が、小さく肩をすくめた。


 聞こえたのか、聞こえなかったのか。


 2本目。


 ゲートの手前で、源さんが首を一度深く下げた。


 一礼だ。


 それから自分でゲートに入った。


 中で、じっと待っている。


 ゲートの扉が開く。


 ほかの馬が一斉に飛び出す。


 源さんは、その中で誰よりも早く出た。


 まっすぐ。


 隣の馬との距離も、前後の馬との距離も、きれいに保っている。


 速度も一定だ。


 最後まで余計な動きはしなかった。


 少し先で、相沢騎手が手綱を緩める。


 源さんはそのまま、ゆっくりと歩き出した。


 相沢騎手がヘルメットを押さえながら、こちらに戻ってくる。


「……あれなら、試験は受かりますね」


 戸川さんが言った。


「おう」


 梶先生が短く頷いた。


「どうだ、坊主」


「……はい」


「どうだ、兄ちゃん」


 源さんの声がした。


 俺は柵のそばに寄った。


「源さん。今、礼しましたね」


「……うるせえな」


 源さんは小さく鼻を鳴らした。


 ブルル。


 俺は戸川さんを見た。


 戸川さんは柵をつかんだまま、じっと源さんを見ていた。


 それから小さく呟いた。


「……今、頭、下げましたよね」


「え?」


 俺は思わず聞き返した。


「ゲートの手前で。お辞儀みたいに」


「はい」


「それで、中でもじっとして。扉が開いたら、誰よりも早く出た」


「はい」


「……不思議な馬」


 戸川さんはそう言って、また源さんを見た。


 相沢騎手が源さんの手綱を引いて、柵のそばで止まる。


 ヘルメットを押さえながら、困った顔で俺を見た。


「あの、今の、僕、何もしてないです」


「はい」


「……乗ってただけです」


「はい」


「……僕、ヘタなんですけど」


「兄ちゃん」


 源さんが、相沢騎手の後ろから俺を見た。


「今、ゲートの手前でな」


「はい」


「頭を下げたら、考えることが終わった」


「……はい」


「だから、何も考えねえで出られた」


 源さんはそれだけ言って、小さく鼻を鳴らした。


 ブルル。


 それ以上、何も言わなかった。


 相沢騎手が困った顔のまま、源さんの手綱を引いて厩舎のほうへ歩き出した。


 戸川さんがその少し後ろをついていく。


 土曜の昼の便で、俺と父さんは北海道に帰った。


◇


 翌週の水曜の夜。


 台所のテーブルで、また父さんのスマホが鳴った。


「受かりました」


 戸川さんの声だった。


 スピーカーの向こうで、梶先生の声が重なる。


「デビューは8月、札幌だ。坊主、夏休みだろ」


 父さんが俺を見た。


 俺は椅子の背もたれに寄りかかったまま、短く答えた。


「はい」


 スピーカーの奥で、馬が1頭鳴いた。


 ブルル、ヒヒン、ブルルルル。


 テーブルの上のスマホが、プツンと音を立てて切れた。


 台所に、また冷蔵庫のモーターの音だけが残った。


 父さんは湯飲みを手に取って、一口だけ飲んだ。


 それから小さく頷いた。


「……そうか」


 母さんは流しの前で、布巾を絞っていた。


 水の音が止まる。


「札幌ね」


 それだけ言って、また布巾を動かした。


 俺は椅子の背もたれに寄りかかったまま、天井を見た。


 さっきの鳴き声は、言葉になっていなかった。


 きっと自慢話だ。


 「確定だ」と言っていた馬だ。


 1回落ちたことは、たぶん話に入っていない。

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