第13話 札幌、夏、34倍
8月第2週、日曜。
札幌競馬場、第5レース。
パドックの馬主エリアは、柵のすぐ際まで行ける。
父さんの隣に立つと、馬がすぐ目の前を通る。
蹄の音まで聞こえる距離だ。
「おお……」
思わず声が漏れた。
パドックの周回コースには、馬が何頭も歩いている。
どの馬も毛ヅヤがいい。
筋肉の付き方が違う。
うちの牧場の放牧地で見る馬とは、体の張りが段違いだ。
電光掲示板がゆっくりと数字を切り替えている。
馬体重とオッズ。
父さんが無言で掲示板を見上げた。
俺も同じ方向を見る。
9番。カミノイッテ。
単勝34.5倍。
馬体重468キロ。
「34.5倍」
口に出して確認した。
9番人気だ。
まあ、そうなる。
新馬戦で、小さな牧場の自家生産馬。
騎手は6年目で減量なし。
調教師は馬房が半分空いている。
材料だけで言えば、人気になる要素がない。
営業で言うなら、初回見積もりの時点で競合他社に全部持っていかれてる案件だ。
「兄ちゃん」
声がした。
見ると、戸川さんに引かれた源さんがちょうど柵の前を通りかかるところだった。
源さんは歩きながら、首を上げて電光掲示板を見ている。
「34倍!?」
源さんの声がパドックのざわめきの上を滑ってきた。
「俺なら買うね」
栗毛の首が掲示板の数字を追いかけるように動く。
「兄ちゃん、見ろよ。34倍だぞ。9番人気だ」
「はい。見てます」
「40年、競馬見てきてよ。新馬戦で9番人気ってのはな、買い時なんだよ。人気がねえってことは、みんな見えてねえってことだ。ここから来る馬は化ける」
「自分のオッズで盛り上がらないでください」
「何言ってんだ。俺は俺の馬券を買えねえんだから、せめて頭の中で買うんだよ」
源さんの尻尾がふわふわと揺れている。
機嫌がいい。
戸川さんに引かれているのに、よくしゃべる。
戸川さんが手綱を短く持ち直した。
「どうしました?」
俺にではなく、源さんに声をかけている。
源さんは答えない。
ただ、掲示板を一度だけ振り返って小さく鼻を鳴らした。
ブルル。
「34倍。あの数字が、走ったあとにいくつになってるか見物だな」
「走る前から勝った気でいるの、やめてもらえますか」
「いいんだよ。人気薄の馬ってのは、期待されてねえ分気が楽だ。負けても誰も文句言わねえ。勝ったら全部儲けだ」
「儲けるのは馬主です」
「細けえことはいいんだよ」
源さんは戸川さんに引かれてまた歩き出した。
栗毛の馬体が夏の日差しの下をゆっくり進んでいく。
468キロ。
数字だけ見れば、新馬戦に出る馬としては悪くない。
いや、むしろ立派な方だ。
牧場にいた頃より、肩のあたりの肉付きが良くなっている。
「兄ちゃん」
戸川さんが小さく首をかしげた。
「……今日は、いつもより機嫌がいいですね」
その声はたぶん俺に言ったんだと思う。
「そうですね」
俺は短く答えた。
「元気です」
「ええ。引いてても、いつもより前に行きたがります」
戸川さんが手綱を少しだけ締める。
源さんはそれでも首を上下に振りながら歩いている。
源さんの声は弾んでいる。
パドックの観客が柵越しに馬を指さしている。
「9番、けっこう良く見えるな」
「でも新馬だろ。あの厩舎だし」
「騎手がなあ」
そんな声が少しずつ聞こえる。
源さんの耳がその声のほうへ動いた。
「聞こえたか、兄ちゃん。『けっこう良く見える』だってよ」
「そのあとに『あの厩舎だし』『騎手がなあ』って言われてました」
「細けえことはいいんだよ。最後に勝ちゃあ、みんな黙る」
源さんは胸を張るようにして歩き出した。
戸川さんがその背中を静かに見ている。
次の周で源さんが柵の前に来た。
俺は柵に手をかけて、少しだけ身を乗り出す。
「源さん」
「おう」
「入ったら一礼です」
源さんは歩きながら、耳を一度だけ後ろに倒した。
「分かってる」
「ブチさんに言われた通りに」
「分かってるって。考えるのは入る前に済ませる」
「はい」
「あとな」
「はい」
「34倍だぞ」
「もういいです」
「いや、聞けよ。さっき掲示板を見たがまだ34倍だった。動いてねえんだ。パドックに出てから動かねえってのはな」
「人気がないってことです」
「違う。誰も気づいてねえってことだ」
「同じです」
源さんは小さく鼻を鳴らして、また歩き出した。
戸川さんがこちらを振り返る。
俺は柵から手を離して、馬の背中に向かって声を出した。
「がんばれ」
戸川さんは小さく頷いて、前を向いた。
係員の合図で周回の馬が止まった。
騎手たちがパドックの奥から出てくる。
白いズボンに、色とりどりの勝負服。
ゼッケンの番号が遠目にも分かる。
9番の勝負服は白地に青い縦縞。
地味だ。
でも、うちの牧場の勝負服だ。
父さんが昔に決めた色で、変えたことがない。
騎手たちがそれぞれの馬の前に歩いていく。
相沢騎手はいちばん最後に出てきた。
歩き方が少し硬い。
手に鞭を持って、その鞭を握りすぎている。
指の関節が白い。
「相沢さん」
戸川さんが小さく声をかけた。
相沢騎手は戸川さんの前で立ち止まる。
顔がこわばっている。
笑おうとして、失敗した顔だ。
「……お願いします」
相沢騎手は戸川さんに短く頭を下げた。
それから源さんの前に回る。
源さんはじっと相沢騎手を見ている。
耳は動かない。
尻尾も動かない。
パドックのざわめきが少し遠くなった気がした。
相沢騎手が源さんの顔の前に立つ。
小さく頭を下げる。
「……よろしくお願いします」
声が震えている。
顔を上げた相沢騎手の額に、汗が浮いている。
8月の札幌だ。
暑いのは当たり前だ。
でも、この汗は暑さだけじゃない。
戸川さんが相沢騎手の膝を持ち上げる。
相沢騎手の足が鐙にかかる。
体がふわりと持ち上がる。
鞍の上に、収まる。
細い体だ。
源さんの背中に、相沢騎手の体が乗る。
鐙の長さを相沢騎手が素早く調整する。
手綱を握る。
指がまだ白い。
源さんが乗られる直前に小さく鼻を鳴らした。
ブルル。
「頼むぜ、乗り役」
源さんはそれだけ言った。
相沢騎手には鼻息にしか聞こえない。
でも、相沢騎手は一瞬だけ動きを止めた。
手綱を握ったまま、源さんの首の付け根を見る。
それから、小さく息を吐いた。
「……やってみます」
震える声だった。
でも、さっきよりは少しだけ落ち着いた声だった。
戸川さんが源さんの横腹を軽く叩く。
「行ってらっしゃい」
源さんはゆっくりと歩き出した。
相沢騎手を乗せたままパドックの周回コースを、本馬場へ向かって歩いていく。
白地に青い縦縞の背中が、遠ざかる。
栗毛の尻尾がふわふわと揺れている。
「兄ちゃん」
源さんの声が遠くから聞こえた。
「見てろよ」
振り返らずに、源さんは言った。
俺は柵に手をかけたまま、その背中を見送った。
父さんは隣で黙っている。
腕を組んで、じっと見ている。
表情はいつも通り、読めない。
でも、腕の組み方が、いつもより少しだけ強い。
「父さん」
俺は小さく声をかけた。
父さんは俺を見ない。
「……見とけ」
それだけ言った。
俺は前を向いた。
スタンド前の柵際に移った。
ここからだと本馬場の芝が一望できる。
風がまっすぐに吹いてくる。
夏の札幌の風は思ったより乾いている。
父さんは黙って腕を組んだまま、馬場のほうを見ている。
俺も同じ方向を見た。
返し馬の馬たちがばらばらに芝の上を駆けていく。
どの馬も脚が長い。
蹄の音がスタンドのざわめきの下から這うように聞こえてくる。
その中に、白地に青い縦縞の勝負服が見えた。
9番。
源さんだ。
相沢騎手が体を小さくして、手綱を短く持っている。
源さんの栗毛の馬体が青い芝の上を滑るように走っていく。
「兄ちゃん」
源さんの声が聞こえた。
まだ届く距離だ。
柵のすぐ向こうを駆けている。
「見てろよ。差しだ」
栗毛の首がこちらを向いた。
一瞬だけ。
「40年、競馬を見てきた俺が言うんだ。新馬戦の勝ち方はな、前に行く馬を最後に捕まえることだ」
スピードが上がる。
蹄の音がどんどん近づいて遠ざかる。
「最初は我慢だ。前に行かせて、直線で差す」
声が少しずつ小さくなる。
「兄ちゃん、あとでな、俺の解説を」
そこで言葉が切れた。
風が声をさらっていく。
源さんの耳がこちらを向いたまま、馬体がどんどん遠ざかっていく。
白地に青い縦縞の背中が、馬群の向こうに沈んでいく。
もう声は聞こえない。
馬の声はそばにいる時しか聞こえない。
離れれば、ただの馬の鳴き声になる。
遠くの芝を駆ける源さんは、今はもう、栗毛の競走馬にしか見えない。
「……差し、ねえ」
俺は柵に手をかけたまま、小さく呟いた。
根拠はたぶんない。
40年分の外れ馬券の亡霊の講釈だ。
でも、あの馬がそう言うならたぶんそうなんだろう。
ここからゴールまで、源さんの声は届かない。
俺は黙って馬場を見続けた。
父さんは相変わらず何も言わない。
ただ、腕を組んだままじっと馬場の一点を見ている。
風がもう一度吹いて、芝の匂いがした。
ゲートまではまだ少し時間がある。
スタンド前の柵際から、直線に置かれたゲートを見る。
枠入りが始まった。
馬が1頭ずつゲートへ吸い込まれていく。
俺は黙って9番のゼッケンを探した。
白地に青い縦縞。
源さんだ。
ゲートの手前で、栗毛の首が一度深く下がる。
一礼。
それから自分でゲートの中へ入っていく。
ゲートの中の源さんは尻尾を一度だけ振って止まった。
――――――――
ゲートの中は思ったより暗い。
前の扉の隙間から、光が細く入ってくる。
その向こうにスタンドのざわめきが遠く聞こえる。
乗り役の気配が背中の上で小さくなった。
手綱を持つ指が首の付け根に触れるか触れないかの距離で止まっている。
いつもなら、ここで首を1回撫でる。
今日は撫でなかった。
別にいい。
撫でられたから走るわけでもねえ。
走ったから撫でられるわけでもねえ。
ただの癖だ。
目の端に、大型ビジョンの数字がぼんやり見える。
9番。
35倍。
上がってやがる。
さっきまで34倍だった。
どっちでもいい。
35倍。
40年、競馬を見てきた俺が言うんだ。
新馬戦の9番人気、35倍ってのは買い時なんだよ。
誰も見えてねえ。
ここから来る馬は化ける。
右前脚が地面を叩く。
とん、とん、とん。
やめろ。
考えるな。
入る前に決めたはずだ。
一礼したら、考えることは終わりだ。
何も考えねえ。
ただ、前を見て、扉が開いたら出る。
それだけだ。
それだけのはずだ。
とん、とん、とん。
もう1回、脚が鳴った。
頭の中で、35倍の数字がちらつく。
俺なら買うね。
いや、買えねえんだった。
俺は走る方だ。
走って、勝って、あの数字をひっくり返す。
それでいい。
それだけでいい。
前の扉が音を立てて開いた。
光が一気に広がる。
隣の馬が飛び出す。
地面が動く。
俺の体はまだ動かなかった。
一拍。
たった一拍だ。
でも、その一拍で、隣の馬の尻がふたつ分前へ出た。
2馬身。
俺はそれからようやく地面を蹴った。
――――――――
ゲートが開く。
馬が一斉に飛び出す。
9番の白地に青い縦縞が、最後方からゆっくりと出てくる。
《ゲート開きました。おっと9番カミノイッテ、出遅れました》
実況の声がスタンドに響く。
俺は柵に手をかけたまま小さく言った。
「……出遅れです」
隣で父さんが腕を組んだまま動かない。
表情は読めない。
ただ、視線だけは馬場の9番を追っている。
《各馬、最初のコーナーへ向かいます。カミノイッテは最後方から》
声が遠い。
馬群のいちばん後ろで、栗毛の馬体がひとつだけ小さく見える。
「源さん」
口の中で呟いた。
聞こえるはずがない。
それでも、言わずにいられなかった。
「一礼したのに出遅れですよ」
父さんは黙っている。
俺もそれ以上は何も言わなかった。
――――――――
やっちまった。
扉が開いた瞬間、また体が止まった。
一拍。
隣の馬が2頭、3頭と前に出る。
最後方。
……いや、差しだ。
最初から差しのつもりだった。
俺は差し馬だ。
出遅れたんじゃねえ。
位置取りだ。
最初から後ろにいただけだ。
前を行く馬の尻を数える。
1頭、2頭、3頭。
これでいい。
これが俺のレースだ。
40年、競馬を見てきた俺が言うんだ。
最後方から行く馬はな、最初から負けを認めてるわけじゃねえ。
勝負は直線だ。
まだ何も始まっちゃいねえ。
――――――――
《各馬、向正面に入りました。先頭は2番。内から3番、外から7番》
白地に青い縦縞はいちばん後ろだ。
《カミノイッテ、依然として最後方》
俺は柵に手をかけたまま動かなかった。
「最後方です」
小さく言った。
父さんは腕を組んだまま動かない。
《1000メートルの通過は63秒台。ややゆっくりした流れです》
実況の声がスタンドに届く。
63秒台。
札幌は小回りだ。
直線が短い。
後ろから行く馬には苦しい数字だ。
営業で言うなら、決裁まであと少ししか時間がないのに、まだ資料をめくっている状態だ。
「厳しいですね」
また小さく言った。
父さんは何も言わない。
ただ、腕の組み方がさっきより少しだけ強くなった気がした。
馬群の後ろで、栗毛の馬体が内ラチ沿いを走っている。
相沢騎手は外に出そうとしない。
手綱を短く持ったまま、内側でじっと我慢している。
《カミノイッテ、内ラチ沿いを回っています。まだ動きません》
動かない。
動けないのか、動かないのか。
どっちだ。
俺には分からない。
分かるのは白地に青い縦縞がまだ最後方にいるということだけだ。
馬群は向正面を過ぎていく。
蹄の音が低く重なって、スタンドのざわめきの下を流れていく。
《さあ、そろそろ3コーナーに差し掛かります》
俺は柵を握る手に少しだけ力を入れた。
父さんは相変わらず腕を組んだままだ。
――――――――
コーナーが近づいてくる。
地面の傾きが蹄の裏から伝わってくる。
右回りだ。
札幌は右回り。
俺は知ってる。
40年、競馬を見てきたんだ。
右回りのコーナーで外にふくれる馬は、3馬身は損をする。
内を回れる馬が勝つ。
分かってる。
分かってるけど、体が覚えてるかは別だ。
「右」
口の中で唱えた。
牧場で兄ちゃんに言われた言葉が、耳の奥に残っている。
右の前脚を前に出せ。
手前を替えるんだ。
右前脚がひとりでに前に出る。
地面を掴む感覚が変わる。
右だ。
今、俺は右手前で走っている。
体の内側から、ぐっと前に進む力が湧いてくる。
外にふくれない。
ラチ沿いの空気を肩で切って、そのままコーナーに入っていく。
「おお」
背中の乗り役が小さく息を飲んだのが分かった。
内が空いてる。
乗り役が内で待っていた。
こいつ、分かってやがる。
俺が内に行くのを待ってたんだ。
前の馬の尻が近づく。
1馬身、半馬身。
差が詰まっていく。
地面がまた平らになる。
4コーナーを回って、直線だ。
まだ先頭は見えねえ。
でも、前の馬の背中はすぐそこだ。
――――――――
《4コーナーを回って直線です。先頭は2番。カミノイッテは内から上がってきます》
実況の声がスタンドに跳ね返る。
白地に青い縦縞が内ラチ沿いを走ってくる。
前の馬の背中が少しずつ近づいている。
《先頭まで4馬身》
俺は柵を握ったまま動かなかった。
「4馬身」
小さく言った。
父さんは腕を組んだまま動かない。
《カミノイッテ、内から伸びてきました。3馬身》
馬群の後ろから、栗毛の馬体がすっと前に出る。
相沢騎手は鞭を振らない。
手綱を短く持ったまま、体を小さくしている。
《2馬身。先頭まで2馬身》
スタンドがどよめき始めた。
「9番だ」「カミノイッテ」「内から来た」
声が後ろから聞こえる。
俺は振り返らなかった。
ただ、柵を握る手に少しだけ力が入った。
父さんが初めて一歩前に出た。
腕を組んだまま、柵のすぐ際まで。
《先頭まで2馬身。残り200》
実況の声がスタンドのざわめきの上を滑っていく。
源さんの耳はもうこちらには向いていない。
前だけを見ている。
――――――――
差せ。
差せ。
差せ。
40年分だ。
外れ馬券の山も。
競馬場の帰り道も。
テレビの前の晩も。
全部ここに置いてきた。
差せ。
前の馬の尻がもうそこだ。
――――――――
《残り100メートルです。先頭は2番。カミノイッテ、内から来ます。半馬身》
スタンドの歓声がどんと膨らんだ。
白地に青い縦縞が内ラチ沿いを伸びてくる。
栗毛の肩が前の馬の腹に並びかけた。
《カミノイッテ並んだ!並んだ!ここから先頭争いです》
俺は柵を握ったまま動かなかった。
呼吸は普通だ。
頭の真ん中だけがやけに静かだった。
前の馬の首と、源さんの首が重なる。
どちらが前か、ここからでは分からない。
《カミノイッテ!カミノイッテわずかに出た!》
実況の声が裏返る。
源さんの前脚がもう一度だけ地面を強く蹴った。
芝の切れ目が見える。
ゴールだ。
《差し切った!カミノイッテ!》
栗毛の馬体が前の馬よりクビ差前に出てゴール板を駆け抜けた。
スタンドがどよめく。
後ろの観客が柵に殺到する。
「9番来たぞ」「内から」「すげえ脚だ」
声が重なる。
俺は叫ばなかった。
柵を握ったまま、小さく言った。
「差したな、源さん」
父さんは隣で何も言わない。
腕を組んだまま、じっと馬場の先を見ている。
白地に青い縦縞の背中が、向こうでゆっくりと止まっていく。
相沢騎手が源さんの首を軽く叩いている。
ヘルメットの向こうの顔は見えない。
でも、肩が上下に動いている。
息が荒い。
馬場の風がさっきより少し強く吹いた。
電光掲示板に数字が浮かぶ。
1着の欄に「9」。
勝ちタイム、1分51秒4。
良馬場。
俺はその数字を黙って見上げた。
35倍。
最後方。
内ラチ沿い。
差し切り。
父さんがゆっくりと一つ息を吐いた。
それから小さく頷いた。
検量室の前に回った。
馬が1頭、こちらへ歩いてくる。
栗毛の馬体。
白地に青い縦縞の勝負服が、鞍の上で揺れている。
相沢騎手は体を小さくして、手綱を緩く持っている。
その手がまだ少し震えている。
源さんの息は荒い。
首の下で、大きな音を立てて息を吸って吐いている。
汗が首筋を伝っている。
蹄の音が砂の上でゆっくり止まる。
それでも源さんは首を止めない。
首をぐいと伸ばして、俺のほうを見ている。
俺のところへ来る。
「見たか、兄ちゃん」
源さんの声は息の切れが混ざっている。
「差しだ」
俺は父さんの後ろから、源さんの顔を見た。
鼻の穴が大きく開いている。
「……出遅れでしたけどね」
源さんの耳が片方だけ後ろに倒れた。
「うるせえな。あれは位置取りだ」
「2馬身は出遅れです」
「細けえことはいいんだよ」
源さんは息を吐きながら、それでも満足そうに尻尾を一度振った。
父さんが源さんの手綱を取った。
父さんの手と、相沢騎手の手が同じ手綱の上にある。
父さんは黙っている。
相沢騎手も黙っている。
その間を源さんの息遣いだけが埋めている。
「久世さん」
梶先生が小走りに来た。
キャップを脱いで、禿頭を拭きながら。
「何年ぶりだ」
父さんは源さんの手綱を握ったまま、梶先生を見た。
「8年」
梶先生はキャップをかぶり直して、それからもう一度脱いだ。
どっちつかずの手が宙で止まっている。
「8年か。8年」
梶先生は自分の声を繰り返した。
「久世さんの馬が1着になるのは、8年ぶりか」
「そうだ」
「8年」
梶先生は今度はキャップを膝で叩いた。
パン、パン。
埃が舞う。
「いや、8年だぞ坊主。8年」
梶先生は俺のほうを向いた。
「この厩舎で新馬を勝つの、俺は何年ぶりか」
「……何年ですか」
「分からん」
梶先生は笑った。
声を出して笑った。
「分からんくらい久しぶりだ」
相沢騎手はまだ何も言わない。
鞍の上で手綱を握ったまま、動かない。
汗だ。
8月の札幌の汗だ。
でも、さっきパドックで見た汗とは色が違う。
「……」
相沢騎手が何か言いかけて、飲み込んだ。
相沢騎手は鞍の上で、手綱を握り直した。
梶先生も隣にいる。
相沢騎手は父さんのほうを向いて、鞍の上から深く頭を下げた。
「……すみません、出遅れて」
声が小さい。
でも聞こえた。
父さんは何も言わない。
梶先生も何も言わない。
その間を源さんの息遣いだけが埋めている。
源さんが首を動かした。
相沢騎手のほうへ、ぐいと向ける。
「お前じゃねえ、俺だ」
源さんの声は低い。
ブルル、と鼻を鳴らしただけに見える。
人間にはそう聞こえる。
俺には聞こえた。
相沢騎手が顔を上げる。
源さんの首を見る。
困った顔だ。
「……え?」
相沢騎手は小さく声を出した。
源さんはもう何も言わない。
ただ相沢騎手の顔をじっと見ている。
耳が左右に一度だけ動いた。
俺は何も訳さなかった。
訳したところで伝わらない。
伝わったところで、どうなるものでもない。
父さんは手綱を握ったまま動かない。
梶先生がキャップのつばを直した。
「まあ、勝ったからいい」
梶先生はそれだけ言った。
相沢騎手はまだ源さんの首を見ている。
「口取り、お願いします」
係員が来て、俺たちを手招きした。
梶先生が先に歩き出す。
父さんがそのあとに続く。
俺も続いた。
戸川さんは源さんの横に立って、手綱を握った。
その瞬間、源さんが黙った。
さっきまで息の切れの合間に講釈を垂れていた馬が、ぴたりと静かになる。
耳も動かさない。
尻尾も振らない。
戸川さんは下を向いている。
泣きそうな顔だ。
口を結んで、それをこらえている。
源さんは戸川さんの顔を見ない。
前だけを向いている。
俺はそれに気づいた。
理由は分からない。
分からないけど、聞かない。
聞いたところで、どうなるものでもない。
相沢騎手は鞍の上でまだ手綱を握っている。
指の関節が白い。
さっきから白いままだ。
父さんは梶先生の隣に立った。
腕を組んでいる。
梶先生はキャップを脱いで、小脇に抱えている。
俺は父さんの後ろに立った。
馬主の同伴者だ。
それ以上のことは何もない。
カメラマンがカメラを構える。
「はーい、いきますよ」
声が響く。
源さんは前を向いたままだ。
栗毛の首がまっすぐに伸びている。
額の小さな星が夏の光を受けて白く見える。
戸川さんが源さんの横で手綱を握り直した。
手が少しだけ震えている。
それでも源さんは何も言わない。
いつもなら、このくらいの間にもう一言二言ある馬だ。
「40年、競馬を見てきた俺が言うんだ」
その前置きが今はない。
ただ黙って、前を向いている。
「はい、チーズ」
シャッターが切られる。
カシャッ。
音がひとつ、落ちる。
口取りが終わった。
相沢騎手が鞍を外して検量に向かう。
源さんは鞍を外されて、少しだけ首を振った。
汗が飛ぶ。
戸川さんが手綱を持ち直して、厩舎へ引いていこうとする。
その手前で、梶先生のスマホが鳴った。
梶先生はキャップのつばを直して、ポケットから出す。
画面を一度見て、少しだけ眉を寄せた。
「もしもし」
梶先生は声を落とした。
周りのざわめきの中でも、その声だけははっきり聞こえた。
「ああ。……ああ、そうか」
二言三言。
短い。
それから梶先生は父さんのほうを一度だけ見た。
「……分かった。ありがとう」
電話を切る。
キャップを脱いで禿頭を拭く。
いつもの動作だ。
でも今日は拭き終わってからキャップをかぶらない。
小脇に抱えたままだ。
「久世さん」
梶先生は父さんを呼んだ。
父さんは黙って梶先生を見る。
梶先生は少しだけ声を落とした。
「……鷹司のとこの馬」
「先月の函館の新馬を6馬身で勝ってたろ」
父さんは何も言わない。
梶先生は続ける。
「札幌2歳Sは使わずに、秋は東京スポーツ杯2歳Sに行くそうだ」
梶先生はキャップを膝で叩いた。
パン、パン。
それからようやくかぶり直す。
父さんは黙っている。
腕を組んだまま動かない。
俺も何も言わなかった。
東京スポーツ杯2歳S。
11月の東京。
芝1800。
同じ2歳。
同じ距離。
違うのは向こうが6馬身で勝った馬だということだけだ。
営業で言うなら同じ時期に同じ案件を、すでに決裁まで持っていった競合がいる。
俺は柵の横で黙っていた。
源さんは戸川さんに引かれたまま、動かなかった。
首が少しだけ遠くを向いている。
スタンドの向こう。
競馬場の外。
もっと遠いところだ。
耳が片方だけ後ろに倒れている。
尻尾は動かない。
戸川さんが手綱を短く持ち直した。
「行きますよ」
戸川さんは静かに言った。
源さんは動かない。
遠くを見たままだ。
「源さん」
俺は小声で呼んだ。
返事がない。
一拍。
源さんの口がゆっくり開いた。
「そいつの名前」
低い声だった。
いつもの講釈の調子じゃない。
鼻を鳴らす音もない。
「教えろ」




