第14話 【札幌5R】主取りの馬が勝ったんだが
【札幌5R】主取りの馬が新馬勝ちしたんだが【カミノイッテ】
1:名無しの馬券オヤジ 札幌5R 2歳新馬 芝1800 良 1着 カミノイッテ 9番人気(単勝35倍) 1分51秒4 クビ差 出遅れて最後方からの差し切り
2:名無しの馬券オヤジ 父がアレで単勝35倍は妥当だろ しかも出遅れて最後方
3:名無しの馬券オヤジ >>2 重賞1勝で引退した栗毛 産駒が走った試しがない
4:名無しの馬券オヤジ 母父もマイナーどころ 母系も地味 久世牧場の自家生産でロマン枠だ
5:名無しの馬券オヤジ 久世って毎年1頭だけ自分の名義で走らせるおっさんだろ 8年ぶりだか9年ぶりだかの1勝らしいぞ
6:名無しの馬券オヤジ 出遅れ勝ちはフロック 次は通用しない
7:名無しの馬券オヤジ >>6 フロックでも勝ちは勝ちだぞ
8:名無しの馬券オヤジ >>7 新馬の出遅れ差し切りは次走で消せる これ鉄則
9:名無しの馬券オヤジ 美浦の梶厩舎だろ 預託馬減ってる爺さんのところ 乗り役は相沢だっけ 6年目で減量なしのやつ
10:名無しの馬券オヤジ 血統的には1800は長いと思うんだがな
11:名無しの馬券オヤジ パドックで見たが脚長くて胴詰まってる マイラー体型だよ
12:名無しの馬券オヤジ とりあえず次走まで静観 35倍で拾えた奴はおめでとう
13:名無しの馬券オヤジ 上がり最速だったのか
14:名無しの馬券オヤジ 上がり3F(最後の600mのタイム)34秒8 札幌の新馬なら上等だろ
15:名無しの馬券オヤジ 新馬でこの上がりは評価できる
16:名無しの馬券オヤジ 内ラチ沿いで手前を替えてたぞ
17:名無しの馬券オヤジ >>16 よく見てたな
18:名無しの馬券オヤジ >>16 あれできる馬は賢い
19:名無しの馬券オヤジ 懐疑派は黙ったか
20:名無しの馬券オヤジ 次走で消せるって言った奴出てこい
21:名無しの馬券オヤジ 主取りってマジ? あのカミノイッテ売れ残ったのか
22:名無しの馬券オヤジ >>21 去年のサマーセールで売れ残って主取り 上場されたが誰も手を挙げず そのまま生産者の名義で競走馬に
23:名無しの馬券オヤジ >>22 サマーセールで誰も手を挙げなかった件
24:名無しの馬券オヤジ 買わなかった奴ら息してる?
25:名無しの馬券オヤジ 俺は馬主の付き添いで現地にいた 確かに見た 脚長くて綺麗な馬だった 父の名前見てやめた
26:名無しの馬券オヤジ >>25 正直者で草
27:名無しの馬券オヤジ 生産者が自分の名義で走らせて8年ぶりの勝利 これもうロマンだろ
28:名無しの馬券オヤジ 全員同じ名前なの怖い 俺も名無しの馬券オヤジだけど
29:名無しの馬券オヤジ 単勝35倍で勝ったのにスレの伸びが遅いな
30:名無しの馬券オヤジ >>29 穴馬スレはこんなもんだろ 勝った直後は盛り上がるが翌日には落ちてる
31:名無しの馬券オヤジ >>30 翌日どころか当日の夜だぞ
32:名無しの馬券オヤジ でも内ラチ沿いの差しは良かった あれで2着ならただのフロックだった
33:名無しの馬券オヤジ >>32 クビ差だけどな
34:名無しの馬券オヤジ 同期の鷹司の馬、キングスレガリア。函館の新馬を6馬身だぞ。格が違う
35:名無しの馬券オヤジ >>34 空気読め
36:名無しの馬券オヤジ 鷹司のは次、東京スポーツ杯2歳Sらしいな
37:名無しの馬券オヤジ 東スポ杯で当たるなら見もの
同じ夜。
鷹司ファームの母屋、代表の書斎。
鷹司玲司は机のモニターで、同じレースを3度目から見返していた。
明かりはモニターの光だけだった。
銀縁眼鏡の奥で、目がゆっくりと動く。
札幌5R。
ゲートが開く。
9番の馬が出遅れる。
玲司は再生速度を落とさない。
そのまま見る。
最後方の馬が内ラチ沿いで手前を替える。
右前脚がひとりでに前へ出る。
玲司の指が机の上で止まった。
映像が止まる。
そのまま巻き戻す。
もう一度、3コーナー。
今度は速度をさらに落とす。
負けた馬の脚さばきまで追う。
2着馬が外へふくらむ。
内の馬はふくらまない。
ラチ沿いを肩で切るように回る。
直線。
馬群が開ける。
内から栗毛の馬が伸びてくる。
クビ差。
玲司は映像を止めた。
「……手前を替えている」
玲司は小さく呟いた。
声は静かだった。
後ろでドアが開く。
足音は小さい。
「父様」
蒼真が立っていた。
パジャマの上にカーディガンを羽織っている。
玲司は振り返らない。
「起きていたのかね」
「トイレです。明かりが見えたので」
蒼真はモニターを覗き込む。
止まった映像。
栗毛の馬が内ラチ沿いで前へ出ようとしている。
「ああ、このレースですか」
蒼真は少しだけ笑った。
「たまたまです、父様」
玲司は答えない。
マウスを動かす。
映像がまた少し戻る。
出遅れの場面。
ゲートが開いて、栗毛の馬だけが一拍遅れる。
「出遅れて、最後方から、内だけで来ましたね」
蒼真の声はまだ眠そうだ。
「相手が弱い。直線も詰まっていましたし」
玲司は画面を見たまま口を開いた。
「主取りか」
蒼真が首をかしげる。
「主取りです。去年のサマーセールで」
玲司は眼鏡の位置を直した。
指先が銀縁に触れて、そのまま止まる。
「……買い手の目がなかったか」
一拍。
「私の目がなかったか」
一拍おいて、玲司は小さく笑った。
「……まあ、ほどほどの牧場の、ほどほどの1勝だ」
玲司は画面の馬を見た。
栗毛の馬体が内ラチの白い板のすぐ横で静止している。
蒼真は何も言わない。
ただ、画面の馬をじっと見ていた。
玲司はマウスから手を離した。
「キングスレガリアと当たるなら」
独り言のような声だった。
「ちょうどいい物差しだ」
蒼真は父の横顔をちらりと見た。
眠そうな顔のまま、少しだけ口元がゆるむ。
「6馬身ですから」
蒼真の声には、まだ幼い自慢が混じっていた。
「函館の新馬です。相手も弱くはなかったですよ」
玲司は答えない。
画面の中の栗毛の馬を、もう一度だけ見た。
キングスレガリアは違う。
鷹司ファームの自家生産馬。
牡2歳。
鹿毛。
すらりと長い首。
四肢の先だけが黒い。
額には細い流星。
函館の新馬を6馬身差で勝った。
セリには出していない。
最初から鷹司の自家所有で走らせると決めていた。
玲司が決めた。
「主取りの馬が、どこまで来るか」
玲司は静かに言った。
「見ておく価値はある」
蒼真は小さくあくびを噛み殺した。
「でも父様、向こうは35倍ですよ」
「そうだな」
「こっちは1倍台です」
「知っている」
玲司はようやくモニターから目を離した。
机の上のマウスを定位置に戻す。
「だから面白い」
蒼真は首をかしげた。
玲司は椅子の背に手を置いたまま、部屋の隅に目をやる。
暗い窓ガラスに、自分の顔とモニターの残像が薄く映っている。
「買い手の目がなかった馬が、どこまで食い下がるか」
玲司は眼鏡を外し、布で拭いた。
蒼真は黙って父を見ていた。
玲司はモニターを消した。
書斎が暗くなる。
窓ガラスに映っていた自分の顔も消える。
「蒼真」
玲司は背を向けたまま言った。
「久世牧場の倅と、君は同じクラスだったね」
蒼真は少しだけ首をかしげた。
「はい。久世ハル君です。同じクラスですよ」
「そうか」
玲司は眼鏡をかけ直した。
銀縁が暗い部屋の中で一度だけ光る。
「あの子は、馬が分かる子だ」
「分かるんですか」
「分かるんだろう」
玲司は椅子の背に手を置いた。
「何年か前に、うちの場長から聞いた。生産者の懇親会のあとだった」
蒼真は黙って聞いている。
「噂だよ。確かなことではない」
玲司は窓の外へ目をやった。
暗いガラスに、自分の輪郭がぼんやりと戻っている。
「サマーセールの下見で、その本人に会った」
「会ったんですか」
「声をかけた」
玲司は眼鏡のつるを一度だけ指先で押し上げた。
「君が噂の、馬が分かる子かねと」
「それで」
「あの栗毛の横に立っていた」
玲司は言った。
「彼はこう返した」
一拍。
「分かんないです。僕、子供なんで」
蒼真は小さく笑った。
「彼らしいですね」
「ああ」
玲司は静かに頷いた。
「あの馬は、その子の隣にいた」
モニターは暗いままだった。
電源のランプだけが、机の隅で小さく青く点っている。
◇
お盆明けに、梶先生から電話があった。
「次は東京だ。東スポ杯」
父さんは「……そうか」とだけ言った。
8月の終わり。
2学期が始まって最初の週の朝。
教室の戸を開けると、俺の机の前に誰かが立っていた。
鷹司蒼真だ。
白いカッターシャツの袖口までボタンを留めている。
髪は寝癖ひとつない。
俺の席の前に仁王立ちしている。
朝のホームルーム前だ。
教室にはまだ半分くらいしか人がいない。
それでも蒼真は周りを見ない。
俺を見ている。
俺は戸を閉めた。
鞄を肩から下ろす。
自分の席へ歩く。
蒼真の横を通る。
「久世君」
蒼真が声を出した。
教室のざわめきが少しだけ止まる。
蒼真は背筋を伸ばしたまま俺を見ている。
俺は足を止めた。
「東京スポーツ杯で会おう」
蒼真は言った。
声は教室の前のほうまで通る。
何人かが振り返る。
蒼真は構わない。
胸を張っている。
「11月の東京。芝1800」
蒼真は一歩だけ前に出た。
「キングスレガリアの名を覚えておき給え」
教室がしんと静かになった。
俺は鞄を持ったままだ。
蒼真の顔を見ている。
白い顔だ。
目は据わっている。
この男は本気で言っている。
俺は鞄を持ち直した。
「……出るの決まってるんだ」
俺はそれだけ言った。
蒼真の眉が上がった。
「馬鹿かね!?」
蒼真は両手を広げた。
「もっと驚き給え!」
声が裏返りかけた。
教室の後ろで誰かが吹き出した。
「鷹司、また久世にケンカ売ってる」
蒼真はその音を無視した。
俺は自分の席へ向かって歩き出した。
鞄を机の横にかける。
椅子を引く。
座る。
蒼真がまだ立っている。
俺の机の前に。
俺は椅子の背に手を置いた。
朝のホームルームまであと5分ある。
営業なら、要件だけ言って帰る時間だ。
鷹司の息子はまだ帰らない。
その日の夕方。
牧場の仕事が一段落してから、俺は台所の電話の前に立った。
母さんは帳簿を閉じて、台所のテーブルで茶を飲んでいる。
受話器を取る。
美浦の梶厩舎の番号は、母さんの手帳の見返しに書いてある。
指で押す。
コールが3回。
4回。
5回。
「はい、梶厩舎です」
女の声だった。
「戸川さんですか」
「……はい。どちら様ですか」
「久世です。カミノイッテの。久世ハルです」
一拍。
「坊ちゃん」
戸川さんの声が少しだけ低くなる。
「どうしました。何かありましたか」
「いえ。馬の様子を聞きたくて」
「元気ですよ。今朝も坂路を1本。時計は出してません」
「そうですか」
「脚元も問題ないです。飼い食いも落ちてません」
「そうですか」
戸川さんは数字で答える人だ。
俺は受話器を持ち替えた。
「戸川さん」
「はい」
「ちょっとお願いがあるんですけど」
「何でしょう」
「カミノイッテのところに、電話を持って行ってもらえませんか」
沈黙。
2秒。
3秒。
「……馬房に、ですか」
「はい」
「電話を」
「はい」
戸川さんの息が受話器に当たる音がした。
「坊ちゃん」
「はい」
「それ、何かの儀式ですか」
「儀式です」
「……分かりました」
戸川さんはそれ以上聞かなかった。
仕事の人は余計なことを聞かない。
俺は待った。
受話器の向こうで足音がする。
厩舎の土間を歩く音。
外に出る音。
扉を開ける音。
馬房の前で止まる音。
「今、馬房の前にいます」
「ありがとうございます」
「開けますよ」
「お願いします」
ガラガラ、と戸が動く。
藁を踏む音。
馬が顔を上げる気配。
鼻息。
ブルル。
俺は耳を澄ました。
受話器の向こうで、息を吸って吐く音だけが聞こえる。
ザワザワ。
藁が鳴る。
「……坊ちゃん」
戸川さんの声。
「聞こえますか」
「いえ」
「そうですか」
「カミノイッテはこっち見てますよ」
「そうですか」
「耳、こっちに向けてます」
「そうですか」
受話器の向こうで、もう一度鼻を鳴らす音。
それだけだ。
俺には聞こえない。
そばにいれば聞こえる。
電話の線を通ったら届かない。
営業で言えば、決裁権のない窓口に要件を伝えている状態だ。
何も動かない。
それでも、向こうに聞こえればいい。
「戸川さん」
「はい」
「ひとつ伝えてもらえますか」
「馬に、ですか」
「はい」
戸川さんは何も言わなかった。
言い直さなかった。
「名前、キングスレガリアだって」
「……はい」
「11月の東京スポーツ杯に出るそうです」
「聞きました」
「それを、伝えてもらえますか」
一拍。
戸川さんの息が少しだけ遠くなる。
受話器を胸のあたりに下げた音がした。
それからまた戻ってくる。
「伝えておきます」
戸川さんは静かに言った。
「坊ちゃん」
「はい」
「それ、意味あるんですか」
「あります」
「……そうですか」
戸川さんはそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、失礼します」
「お願いします」
電話が切れた。
ツーツー。
俺は受話器を置いた。
母さんが茶を飲んでいる。
俺を見ない。
「誰」
「戸川さん」
「なんて」
「元気だって」
「それだけ」
「それだけです」
母さんは茶碗を置いた。
「帳簿、見る?」
「見ます」
俺はテーブルの前に座った。
母さんは帳簿を開いた。
台所の電灯が一つ、天井で光っている。
受話器はまだ少し温かい。
夜の9時を過ぎて、台所の電話がもう一度鳴った。
俺は立ち上がった。
母さんは帳簿から顔を上げない。
「出る」
「はいはい」
受話器を取る。
「もしもし」
「坊ちゃん」
戸川さんだった。
「さっきはどうも」
「いえ」
戸川さんの息が受話器に当たる。
一拍。
「あの、さっきの件なんですけど」
「はい」
「伝えました」
「ありがとうございます」
「名前だけじゃなくて、11月の東京ってところも」
「はい」
「ちゃんと伝えました」
「すみません、手間をかけました」
「いえ」
戸川さんの声が少しだけ止まる。
受話器の向こうで何か言いかけて、飲み込む気配。
「坊ちゃん」
「はい」
「ひとつだけ、報告というか」
「何でしょう」
「伝えたあとです」
「はい」
「この子、右の前脚で地面を3回叩きまして」
俺は黙った。
「それから」
戸川さんの声が一拍止まる。
「この子、馬房の奥の壁のほうに顔を向けまして」
俺は黙って聞いていた。
「馬房の入口は南向きなんですけど」
「はい」
「わざわざ奥の壁の西の角に顔を向けて、動かなくなりました」
受話器の向こうで、戸川さんが息を吐く音がした。
「それから、一度だけ鳴きました」
「鳴きましたか」
「ええ」
戸川さんの声が少しだけ低くなる。
「いつもの文句みたいな鳴き方じゃなくて、低く短く1回だけ」
俺は台所の窓の外を見た。
「それだけです」
戸川さんは言った。
「意味、分かりますか」
俺は受話器を持ち直した。
「分かりません」
「そうですか」
戸川さんはそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、失礼します」
「ありがとうございました」
電話が切れた。
ツーツー。
俺は受話器を置いた。
母さんが茶を飲んでいる。
「なんて」
俺は振り返らなかった。
「元気だって」
「それだけ」
「それだけです」
母さんは茶碗を置いた。
台所の電灯が一つ、天井で光っている。
俺は窓の外を見た。
西だ。
東京のほうだ。




