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馬の声が聞こえるようになったと思ったら実は馬は全員元人間だった。  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第2章「売れ残りの馬券おやじ」

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第15話 画面越しの耳




 声は、画面を通らない。


 6月のゲート試験のとき、ビデオ通話で知ったことだ。


 9月の最初の日曜の夜、8時を過ぎた頃だった。


 部屋のドアがノックもなく開く。


 母さんが帳簿を抱えて立っている。


 風呂上がりで、髪がまだ少し濡れている。


「ハル」


「はい」


 母さんは部屋に上がってくる。


 畳の上に座って、帳簿を膝に置いた。


 パラパラとページをめくる音がする。


 俺は机の前に座ったまま振り返った。


「何」


「今月の支出」


「見せてください」


 母さんは帳簿を俺のほうに回す。


 指で一行をなぞった。


「で、いくら使ったと思う」


「……見ます」


 俺は数字を追った。


 種付け料、飼料代、獣医、ワクチン、蹄鉄、運搬費。


 細かい数字が並んでいる。


 母さんは数字を隠さない人だ。


「で」


 母さんは帳簿を閉じた。


「美浦に行く話」


 俺は背筋を伸ばした。


「はい」


「毎週行くって言った?」


「言いました」


 母さんは膝の上で帳簿を叩いた。


 トン。


「で、いくら?」


 俺は黙った。


 母さんは帳簿を開いて、別のページを指で押さえた。


「1回行くと、飛行機の往復が8万円」


「父さんと2人で」


「そう。2人で8万円」


 母さんは指を動かす。


「宿とレンタカーで12万円」


「合わせて20万円」


「そう」


 母さんは顔を上げない。


「毎週行ったら月に4回」


「はい」


「20万円×4回で80万円」


 俺は黙った。


 80万円。


 1年続ければ、1000万円近い。


 営業で言うならまだ何も成約してない案件に、こっちの担当者が毎週飛行機で通うようなものだ。


 決裁権は母さんにある。


 父さんじゃない。


 母さんは帳簿を膝の上で開いたまま、俺を見た。


「月に1回」


 声は平坦だった。


「それ以上は、次に勝ってから」


 俺は何も言わなかった。


 数字を思い浮かべる。


 新馬戦の賞金は、もう行き先が決まっている。


 梶厩舎に払う毎月の預託料。


 去年からの借り。


 母さんの帳簿には、そのへんの数字が全部並んでいる。


 営業で言うなら先方から回収した売掛金が、そのまま別の支払いに回るだけの案件だ。


 手元に残る現金はない。


「次に勝ったら」


 俺は繰り返した。


「そう」


 母さんは帳簿を閉じた。


「勝ったら、また考える」


「分かりました」


 俺は素直に言った。


 これ以上、食い下がっても決裁は下りない。


 母さんは数字で話す人だ。


 80万円は、今の久世牧場には重い。


「じゃあ、ひとつ提案があります」


「なに」


「戸川さんに、毎日短い動画を送ってもらいます」


 母さんが顔を上げた。


「動画」


「はい。調教の様子とか、馬房の様子とか。スマホで撮ってもらって送ってもらいます」


 母さんは帳簿を膝の上でトントンと叩いた。


「動画なら、タダね」


「タダです」


「そう」


 母さんは立ち上がった。


 帳簿を小脇に抱える。


「じゃあ、それで」


 部屋の戸に手をかけた。


 振り返らない。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


 戸が閉まる。


 パタン。


 部屋が静かになった。


 俺は机の前に座ったまま、窓の外を見た。


 9月の夜だ。


 虫の声が遠くで鳴いている。


◇


 2日後の夜。


 母さんのお下がりのスマホが震えた。


 布団の上で画面を開く。


 戸川さんからのメッセージ。


 動画が1件届いている。


 20秒。


 サムネイルは馬房の窓だ。


 俺は再生ボタンを押した。


 画面が揺れる。


 戸川さんの足音。


 土間を歩く音。


 馬房の前で止まる。


「カミノイッテ」


 戸川さんの声。


 ガラガラ、と戸が開く。


 藁を踏む音。


 画面がゆっくりと持ち上がる。


 馬房の窓から栗毛の首が伸びている。


 源さんだ。


 カメラを見ている。


 耳がこちらを向いている。


 口が開く。


 ブルル。


 低い鼻息。


 それだけだ。


 尻尾が一度だけ揺れる。


 画面が少し近づく。


 源さんの額の星が夕日で白く光っている。


「今日はここまでです」


 戸川さんの声で動画が終わる。


 20秒。


 俺は画面を閉じた。


 声は、聞こえなかった。


 聞こえるのは鼻息と藁の音と戸川さんの声だけ。


 源さんが何を言ったのかは分からない。


 いや、何も言っていないのかもしれない。


 動画では、声は届かない。


 それでも、耳の向きだけは分かる。


 こっちを見ている。


 それだけで、今は十分だ。


◇


 それから5日、動画は毎日届いた。


 どれも20秒から30秒。


 夜、布団に入る前に、音を消して見る。


 布団の上で膝を立てる。


 スマホを両手で持つ。


 動画を1本目から順に再生する。


 土間の足音。


 馬房の戸が開く。


 源さんが窓から首を伸ばす。


 どの日も同じ流れだ。


 違うのは耳の向きと尻尾の動きだけ。


 5日目。


 耳がカメラを向いたあと、飼い葉桶のほうへ一度だけ動く。


 尻尾は動かない。


 俺はスマホを止めて、枕元のノートを開いた。


 小さい頃から使っている馬の観察記録だ。


 鉛筆を持つ。


 日付。


 天気。


 馬房の様子。


 源さんの耳の向き。


 尻尾の回数。


 カメラに顔を向けるまでの秒数。


 それから右前脚。


 動画の中では一度も映っていない。


 叩いていない。


 考え込むと、源さんはいつもやる。


 とんとんとん。


 あの音が動画の中で鳴っていないのは、たぶんいいことだ。


 俺はノートに書く。


『右前脚の癖、今週はなし』


 それからもう一度5日目の動画を再生する。


 最後の場面。


 源さんが飼い葉桶のほうへ顔を向ける。


 そのまま動画が終わる。


 俺はそこで止めた。


 耳の向きが、それまでと違う。


 カメラじゃない。


 桶だ。


 飯の時間か。


 それとも、ただの気分か。


 分からない。


 分からないことを、ノートに書く。


『5日目、耳が桶の方向へ。意味は不明』


 ここまで書いて、手が止まった。


 昔の仕事を思い出す。


 商談のあといつも議事録を書いていた。


 相手の沈黙の長さ。


 相槌の回数。


 資料をめくる手の速さ。


 本音は言わない。


 でも、手元と目の動きは残る。


 会議が終わってから、それを全部ノートに落とす。


 あの作業に似ている。


 議事録を取ってる気分だ。


◇


 3日後の動画は、夕方の飼い付けの時間だった。


 21秒。


 サムネイルは馬房の中。


 戸川さんの手が映っている。


 飼い葉桶を抱えている。


 馬房の戸が開く音はない。


 もう開いている。


 画面が少し揺れて桶が下りる。


 源さんが桶の前に立っている。


 首を下げる。


 鼻先が桶の縁に触れる。


 その寸前で、源さんが一度だけ鼻を鳴らした。


 ブルル。


 首を横に振る。


 右に、左に、一度ずつ。


 それからゆっくりと桶に顔を入れる。


 食べ始める。


 咀嚼の音がスピーカーから聞こえる。


 低い。


「今日は食べてます」


 戸川さんの声。


 動画が終わる。


 俺はスマホを膝の上に置いた。


 枕元のノートを開く。


 昨日と一昨日の動画も探す。


 飼い付けが映っていたのは3本。


 全部同じだ。


 桶の前に立つ。


 鼻を鳴らす。


 首を横に振る。


 それから食べる。


 3本とも。


 首を振る回数は、どの日も一度ずつ。


 牧場にいた頃の源さんは、飼い葉を前にして首を振ったことがない。


 牧場では桶を置くと同時に顔を突っ込んでいた。


 俺が横に立っていても、構わず食べていた。


「うまいか」


 声をかけても、食べながら鼻を鳴らすだけだった。


 今は違う。


 桶の前に立って、まず首を振る。


 それから食べる。


 俺は鉛筆を持つ。


 日付を書く。


『飼い付けの日は3本とも首を横に振ってから食べる』


『牧場ではなかった動作』


 それから少し考えて、もう一行足す。


『飼い葉の中身が変わったか』


 書き終えて、手を止める。


 梶厩舎の飼い葉は牧場と違う。


 配合も、量も、回数も違う。


 プロの厩舎の飼い葉だ。


 牧場のものより上等なのは間違いない。


 でも、上等かどうかと、源さんが気に入るかどうかは別だ。


 あの馬は前世で52年、飯を食ってきた男だ。


 舌が肥えている。


 営業で言うなら先方の担当が変わって、今までのやり方が急に通らなくなった状態だ。


 理由は向こうにある。


 こっちには分からない。


 分からないまま、首を振っている。


 俺はもう一度、動画を再生した。


 画面を止める。


 止めた画面の中で、源さんの鼻の穴がわずかに開いている。


「源さん」


 俺は小声で言った。


「子供、いました?」


 画面の中の源さんは動かない。


 鼻息の音も聞こえない。


 音を消しているからだ。


 分かっている。


 それでも口が動く。


「家族の話になると、いつも逸らしてましたね」


 源さんは何も言わない。


 ただ、画面の中で耳をこちらに向けている。


 返事がないのは分かっている。


 飼い葉のほうなら、確かめられる。


 時計を見ると、夜の8時を回ったところだった。


 俺は部屋を出て、台所の電話の前に立った。


 受話器を取る。


 番号を押す。


 コールが2回で出た。


「はい、梶厩舎です」


 戸川さんの声だ。


「坊ちゃんですか」


「はい。夜にすみません」


「いえ。まだ馬房にいますから」


 戸川さんの声は落ち着いている。


 後ろで厩舎の音がかすかに聞こえる。


 藁を掃く音だろう。


「あの、ひとつ聞きたいことがあって」


「何でしょう」


「先週、飼い葉の配合変えました?」


 受話器の向こうで音が止まった。


 2秒。


 3秒。


「……なんで分かったんですか」


 戸川さんの声が半音低くなった。


「動画で見ました。カミノイッテが食べる前に首を振るようになったので」


「首を振る」


「はい。桶の前で鼻を鳴らしてから、右に左に一度ずつ」


 戸川さんは黙った。


 受話器の向こうで息を吐く音がする。


「……秋に入ってから、燕麦をいつもと別の産地のものに替えました」


「やっぱりですか」


「はい。仕入れの都合で、先週から」


 戸川さんは数字を言うときと違う、少し低い声で続ける。


「うちの厩舎の配合は変えていません。替えたのは燕麦の産地だけで、量も配合比も同じです」


「でも、カミノイッテは気づいてます」


「気づいてるんですか」


「食べる前の動作が変わりました。牧場にいた頃はあんな仕草はなかったです」


 戸川さんはまた黙った。


 3秒。


 4秒。


「坊ちゃん」


「はい」


「本気で言ってますか」


「本気です」


「……分かりました」


 戸川さんは小さく息を吸った。


「先生に話して、明日の朝から半分だけ前の燕麦に戻してみます」


「半分だけですか」


「いきなり全部戻すと、今度はそっちで嫌がるかもしれません。馬は繊細ですから」


「そうですね。お願いします」


「ええ。やってみます」


 戸川さんの声が少しだけ柔らかくなった。


「もしそれで食べる前の首振りが止まったら、間違いなく燕麦です」


「はい。また動画で確認します」


「動画、明日も撮ります」


「ありがとうございます」


「いえ」


 戸川さんはそこで一度だけ間を置いた。


「坊ちゃんが言うと、本当にそうなんじゃないかって気になります」


「根拠は薄いですけどね」


「でも、数字で出るなら分かります」


 戸川さんはそう言って、小さく笑った気配がした。


「じゃあ、失礼します」


「お願いします」


 電話が切れた。


 ツーツー。


 俺は受話器を置いた。


◇


 翌日の夜、動画は少し長かった。


 35秒。


 サムネイルは馬房の中。


 戸川さんの手が映っている。


 飼い葉桶を抱えている。


 桶の中身がいつもと違う。


 色が少し濃い。


 戸川さんの声。


「今日から半分戻しました」


 画面が揺れて桶が下りる。


 源さんが桶の前に立つ。


 鼻先が桶の縁に近づく。


 止まらない。


 鼻を鳴らさない。


 首を振らない。


 そのまま桶に顔を入れる。


 食べ始める。


 咀嚼の音。


 低い。


「食べてます」


 戸川さんの声。


 動画が終わる。


 俺はスマホを膝の上に置いた。


 枕元のノートを開く。


 鉛筆を持つ。


 日付を書く。


『燕麦半分戻し』


『鼻鳴らしなし』


『首振りなし』


『桶にすぐ顔を入れた』


 電話が鳴ったのは、動画から30分ほど経った頃だった。


 スマホの画面が光る。


 戸川さんからだ。


 俺は布団の上で体を起こした。


 画面を押す。


「もしもし」


「坊ちゃん」


 戸川さんの声は少しだけ硬い。


「夜分にすみません」


「いえ。どうしました」


 戸川さんの息が受話器に当たる。


 一拍。


「今朝と、夕方と」


「はい」


「両方とも、首を振りませんでした」


 俺は黙った。


「桶の前に立って、そのまま食べました。鼻も鳴らしませんでした」


「そうですか」


「食べる量も、いつも通りです。飼い食いも落ちてません」


「はい」


「明日も、このままいきます」


「お願いします」


 戸川さんはそこで一度止まった。


 受話器の向こうで藁を掃く音がする。


 まだ厩舎にいるらしい。


「坊ちゃん」


「はい」


「ひとつ、聞いてもいいですか」


「何でしょう」


 戸川さんの息が少しだけ近くなる。


 受話器を口元に近づけた音だ。


「坊ちゃん、本当に見てるだけですか」


 俺は部屋の窓の外を見た。


 暗い。


 西の空は見えない。


「見てるだけです」


 俺は静かに言った。


「動画を見て、ノートに書いてるだけです」


 戸川さんは黙った。


 3秒。


 4秒。


「……そうですか」


 戸川さんの声は少しだけ低い。


「失礼しました」


「いえ」


「じゃあ、失礼します」


「お願いします」


 電話が切れた。


 ツーツー。


 俺は立ち上がって、机の前に座った。


 ノートを開く。


 今日のページの最後に一行足す。


『戸川さんに聞かれた。見てるだけかと』


『見てるだけと答えた』


 それから少し考えて、もう一行。


『嘘は言っていない』


◇


 9月の最後の土曜。


 月に1回の、最初の1回だ。


 朝いちばんの飛行機で来た。


 新千歳から羽田まで1時間半。


 そこからレンタカーで美浦まで2時間。


 父さんは運転中、一度も喋らなかった。


 助手席で俺も黙っていた。


 美浦トレセンのゲートを通る。


 厩舎地区の砂利道を歩く。


 昼前の空気が冷たい。


 馬の匂いがする。


 乾いた藁と、汗と、飼い葉の匂い。


 梶厩舎の前に着いた。


 入口の戸が開いている。


 通路の奥から、蹄の音が近づいてくる。


 コツ、コツ、コツ。


 戸川さんだ。


 栗毛の牝馬を引いている。


 白いソックスが4本。


 目が細くて眠そうな顔。


 俺は足を止めた。


 あの馬は、知っている。


 戸川さんが俺に気づいて、小さく会釈した。


「おはようございます、坊ちゃん」


「おはようございます」


「ミスオフィスです。放牧から昨日帰ってきました」


 戸川さんは手綱を短く持ち直した。


 馬が、俺の前で止まった。


 栗毛の首がこちらを向く。


 細い目が、ゆっくりと瞬きする。


「ハルくん、ですよね」


 声がした。


 丁寧な女の声だった。


 疲れているのにそれを隠すような、事務的な口調。


「私です、ウメの」


 馬の声だ。


 父さんには聞こえない。


 戸川さんにも聞こえない。


 俺にだけ、聞こえる。


 俺がまだ小さい頃、うちの牧場で生まれた馬だ。


 4年前の深夜だった。


 栗毛だった。


 脚が4本とも白かった。


 あの仔馬が、今、目の前に立っている。


「今は乗り込みが始まったところですね」


 ミスオフィスは細い目のまま言う。


「そうですか」


 俺は短く答えた。


 戸川さんが手綱を持ち直す。


「ミスオフィス、朝は坂路ですか」


 俺が聞くと、戸川さんが代わりに答えた。


「今朝は角馬場です。軽く流しました」


「そうですか」


「明日から15-15を始めます」


「ハルくん」


 ミスオフィスがまた声を出す。


「正直、体が重いですね」


 敬語のまま、少しだけ疲れが混ざっている。


「牧場にいた頃は、こんなに乗られなかったので」


「そうですか」


 俺はうなずくだけにした。


 ここで何かを言えば、戸川さんが変な顔をする。


 父さんも隣にいる。


 俺は子供だ。


 馬の声が分かる子供なんて、どこにもいない。


「ハルくん」


 ミスオフィスが少しだけ声を落とす。


 耳が片方だけ後ろに倒れた。


「来月、レースなんです」


 俺は黙って聞いた。


「……正直、走りたくないんですけど」

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