第16話 残業はしません
「業務範囲を確認させてください」
ミスオフィスは細い目のままだった。
声は丁寧で、抑揚が少ない。
俺は黙って立っていた。
「競走馬として出走するのは業務ですね。それは理解しています」
「でも全力で走るというのは契約書に明記されていないんです」
戸川さんは手綱を引いて、ミスオフィスの首筋を軽く叩いた。
「どうしたの、急に鳴いて」
ミスオフィスは耳を伏せた。
「すみません。独り言です」
いや、独り言にしては長い。
営業で言うなら契約書の解釈を巡るクレームだ。
しかも相手は4歳の牝馬である。
「ミスオフィス、入るよ」
戸川さんが馬房の戸を開ける。
ミスオフィスは細い目で俺を一瞥してから、のそのそと中へ入った。
「ハルくん、検討よろしくお願いしますね」
「……はい」
俺は小さく答えた。
「坊ちゃん、先生のところへどうぞ。お父さん、事務所です」
「ああ」
父さんは短く言って歩き出す。
俺も後につく。
振り返ると、ミスオフィスは馬房の奥で干し草を一口含んでいた。
梶先生は事務所の机に競馬新聞を広げていた。
父さんが先生の向かいに座る。
俺は先生に断って、厩舎の通路へ出た。
ミスオフィスの馬房は、源さんの隣だった。
隣の馬房から、栗毛の首がするりと出てくる。
「おう、兄ちゃん」
源さんだ。
「来たのか」
源さんの声は相変わらず低い。
馬房の窓から首を伸ばして、耳をこっちに向けている。
「久しぶりですね」
俺は源さんの鼻先に手を伸ばす。
湿った感触が指に当たる。
「麦が変わったんだよ。まずくてな」
源さんは鼻を小さく鳴らした。
「香りで分かるんだ、あれは別物だ。腹は減るから食うけどよ」
「知ってます。動画で見ました」
「動画?」
「毎日送ってもらってるんです。戸川さんに撮ってもらって」
源さんはしばらく黙った。
首をこくんと一度だけ上下させる。
「見てたのか。兄ちゃんは暇だな」
「暇じゃないです。議事録つけてます」
隣の馬房から、ミスオフィスが細い目でこっちを見ていた。
「お話し中すみません」
ミスオフィスの声は通路に低く通った。
「補足ですが、私、4歳で2勝クラスです」
俺は振り返った。
ミスオフィスは続ける。
「最近は成績が落ちていまして。次も負けたら放牧に出されたまま、戻れないかもしれません」
尻尾が一度だけ、ゆっくりと揺れた。
「まだ、ですけど」
源さんは俺とミスオフィスを交互に見て、それから口を閉じた。
聞き役に回るらしい。
馬房の前は今、俺と二頭だけだ。
俺はミスオフィスの馬房の戸に手をかけた。
「続き、聞かせてください」
声を落として言う。
ミスオフィスは細い目をゆっくり瞬かせた。
「私、会社の経理でした」
声は相変わらず丁寧で、抑揚が少ない。
「月末は終電でした」
ミスオフィスは淡々と言う。
「決算期は会社に泊まりました」
「泊まってたんですか」
「はい。会議室に段ボールを敷いて寝てました」
源さんが鼻を鳴らした。
低い音だった。
「最後は、決算の夜に倒れました」
ミスオフィスはそこで一度、言葉を切った。
「パソコンの前で、そのままだったそうです」
「……そうですか」
「それで、全力を出すとまた倒れる気がするんです」
ミスオフィスは言った。
「走るのが怖いというより、全力の先が怖いんです」
俺は馬房の木の枠に背中を預けた。
分かる。
それは分かる。
俺も倒れた側の人間だ。
朝のオフィスの床で、そのままだった。
だから、この馬の言っていることは体で分かる。
隣で、源さんが鼻を鳴らした。
「あのな、姉ちゃん」
源さんが馬房の枠に首を擦りつける。
「走るのが仕事だろ」
声は太い。
「そこは迷うところじゃねえ」
ミスオフィスは干し草を噛んだまま動かない。
「俺はな、競馬歴40年だ」
源さんは鼻息を一つ鳴らす。
「走る馬ってのはな、直線で変わるんだ」
ミスオフィスの耳が片方だけ動いた。
「逃げ馬は前半で使い切る。先行馬は我慢比べだ。で、追い込み馬はな」
源さんは首を上げた。
「最後の直線、残り200でギアが変わるんだよ。あれはもう別の生き物だ」
ミスオフィスは目を細くしたまま黙っている。
源さんの声が速くなる。
「府中の直線は長え。525メートルだ。あれだけ長いと逃げ馬は地獄だ。差し馬は天国だ。俺はな、あの直線の坂の手前で脚を溜める馬が好きでな」
誰も聞いていない。
「で、ダービーだ」
源さんは咳払いを一つした。
「ダービーはな、一度でいいから出たかった。あのパドックの雰囲気ってのはな、他じゃ味わえねえんだよ。人で埋まってな、空気が違う。俺は毎年テレビで見てたがな、あそこに自分の馬が立つってのは」
「源さん」
俺は小声で言った。
聞こえないふりをされる。
「会議が長いです」
ミスオフィスが静かに言った。
声は抑揚がない。
干し草を一口噛んでから続ける。
「結論を先に言っていただけますか。それとも今日は決まらない案件ですか」
源さんが黙った。
鼻先が止まる。
尻尾も止まる。
「……わりい」
源さんは首を下げた。
長い講釈が経理の一言で決裁ごと差し戻された。
俺はミスオフィスの馬房の戸に手をかけたまま、少し考えた。
営業で言うなら、そこは要望だ。
要望には必ず落としどころがある。
俺は口を開いた。
「ミスオフィス」
「はい」
ミスオフィスは干し草を噛むのを止めた。
細い目がこちらを向く。
「全部じゃなくていいです」
ミスオフィスは黙っている。
「最後の200mだけ」
俺は声を落として言った。
細い目がわずかに開いた。
眠そうだった目が、少しだけ大きくなる。
それきり、何も言わない。
隣で、源さんが首を上げた。
「……兄ちゃん」
声は小さかった。
「それ、追い込みじゃねえか」
夕方の飼い付けが終わると、厩舎の通路から人がいなくなる。
俺は父さんに「もう一回だけ馬を見てくる」と言った。
源さんの馬房の前を通る。
栗毛の首が奥で横になっている。
寝たふりだ。
耳だけこちらを向いている。
ミスオフィスの馬房の前に立つ。
細い目がこちらを見ていた。
「ハルくん」
声は丁寧で、抑揚が少ない。
「昼間の話の続きですね」
「はい」
「最後の200mだけ、でしたか」
「はい」
「確認ですが、その200mは全力ですか」
「はい」
ミスオフィスは干し草を噛まない。
耳が片方だけ後ろに倒れた。
「それ、業務範囲外です」
来た。
「その200mを走ったあと、私はどうなるんですか」
「倒れた場合の責任は誰が持つんですか」
俺は黙った。
「会社では、倒れたあとのことを誰も決めてくれませんでした。だから私は倒れるまで働きました」
「倒れる前に止めてくれる人がいなかったんです」
俺はもう一度だけ口を開いた。
「1回だけ、本気で走ってみませんか」
ミスオフィスは顔を上げない。
「ハルくん」
「はい」
「その1回で倒れるんです」
声は抑揚がなかった。
「私はもう、倒れたあとを知っています。だから1回も試せないんです」
ミスオフィスは耳を伏せた。
俺は少しだけ迷ってから、口を開いた。
「俺も、倒れたほうなので」
ミスオフィスの細い目がわずかに開いた。
「……倒れたほう」
「はい」
俺は声を落として言った。
「食品卸の法人営業でした。34歳でした」
「ある朝、オフィスの床で倒れてそのままです」
俺は一度だけ息を吸った。
「誰も止めてくれませんでした」
「……それは、私と同じですね」
「ハルくんは、倒れない自信があるんですか」
俺は少し考えた。
「ありません」
「では、なぜ私に走れと言えるんですか」
「走れとは言っていません」
俺は言った。
「倒れない走り方を、一緒に考えたいです」
ミスオフィスは黙った。
長い沈黙だった。
ミスオフィスはゆっくりと首を上げた。
「……では、こちらの条件を出します」
声は抑揚がなかった。
首を一度だけ上げる。
「条項を読み上げます」
「第1条」
ミスオフィスは間を置いた。
「残り200mまでは流して走ります」
「はい」
「第2条」
ミスオフィスは続ける。
「勝った場合、ニンジンを3本支給してください」
ミスオフィスは淡々と言う。
「勝った場合のみで構いません。経費としては認められますか」
営業で言うなら成功報酬だ。
「認められます。3本で」
「はい。3本で」
「第3条」
ミスオフィスは首を少しだけ下げた。
「走った翌日は休みにしてください」
「分かりました。梶先生と戸川さんに話します」
「お願いします」
「第1条だけ、修正をお願いします」
俺は言った。
「残り400mからは、位置だけ上げてください。全力は200mから」
ミスオフィスは干し草に顔を戻しかけて、止めた。
「残り400mから位置を上げる。何割で上げますか」
「6割で」
「6割。では残り199mでは」
「10割です」
「分かりました。残り400mから200mまで6割。200mを切ったら10割。その間の数値は私の裁量で構いませんね」
「構いません」
「では、第1条はそのように修正して記録します」
「はい」
「では、契約成立ということで」
ミスオフィスは淡々と言った。
それでも、細い目がほんの少しだけ開いていた。
隣の馬房で、藁を踏む音がした。
源さんの寝返りだ。
まだ寝たふりを続けている。
「……追い込みの教科書だな」
声は小さかった。
◇
10月の連休の中日。
東京競馬場、第9レース。
2勝クラス、芝1600m。
パドックは人で埋まっていた。
馬主さんの計らいで、父さんと俺は生産者として馬主エリアに入れてもらった。
視線の先、パドックの入口から栗毛の馬が姿を現した。
ミスオフィスだ。
白いソックスが4本、ゆっくりとパドックを周回する。
「ハルくん」
声が聞こえた。
馬の声だ。
俺の前を通過する一瞬だけ、ミスオフィスが細い目をこちらに向けた。
「本日は定時で上がります」
声は抑揚がない。
「第1条、確認済みです」
俺は頷いた。
「坊主」
梶先生が柵越しに顔を寄せた。
声を落とす。
「相沢には伝えてあるぞ」
「はい」
「最後方で待て、残り400から動けと」
先生はキャップのつばを指でなぞる。
「燕麦の件があるからな」
先生は小さく笑った。
「坊主の言うことは聞いとけと、戸川が言うんでな」
「止まれ」
係員の声がかかる。
騎手控室の前に騎手たちが並び、一礼してから、それぞれの馬へ散っていく。
細身で、短く刈った髪が茶色っぽいのが一人。
相沢さんだ。
「……やってみます」
声は小さい。
自信なさそうな言い方だ。
「乗馬」
戸川さんが相沢さんの左膝を抱えて持ち上げる。
相沢さんの体がふわりと鞍の上に乗った。
ミスオフィスの耳が片方だけ後ろに倒れた。
《各馬そろってスタートしました。外から好発進、内の各馬もまずまず。先頭は逃げて3番。1馬身差で7番、外から5番が続いています》
《ミスオフィスは最後方。14番手です。馬群からは3馬身ほど離れています》
向こう正面。
馬群が縦に伸びて、前との差がはっきりする。
ミスオフィスは最後方のまま。
「何やってんだ、8番人気」
後ろのほうから野次が飛んだ。
3コーナー。
《前半800m、46秒8。平均よりやや速めの流れです。ミスオフィスは依然として最後方。ここまで上がっていく気配はありません》
野次がもう一度飛ぶ。
「もう終わってるだろ」
終わってない。
あの馬は数字で走る馬だ。
今はまだ、数字の途中だ。
4コーナーを回る。
直線の入口で、残りはおよそ500m。
第1条の400mまで、あと100m。
《各馬4コーナーを回って直線へ。先頭は依然3番。2番手に7番。ミスオフィスは最後方から、ここからどういう脚を使うか》
隣で父さんが、腕を組んだまま一歩だけ前へ出た。
《残り400を切りました!》
ミスオフィスはまだ内にいた。
馬群は直線で横に広がっている。
前は壁だ。
進路は、ない。
相沢さんが外へ手綱を動かす。
馬体が右へ出る。
内ラチから離れて、外目の進路へ。
《ミスオフィス、外へ持ち出しました!》
まだ追っていない。
手は動いていない。
ただ位置だけが上がる。
10番手まで来た。
前との差は3馬身半。
《ミスオフィスはまだ追いません!》
栗毛の背中が外から並んでいく。
一完歩ごとに前へ出る。
――――――――
残り400mの標識を過ぎました。
社内規定をもう一度だけ確認します。
後方待機。
位置は6割。
ここまでは、計画どおりですね。
残りは、あと300m。
計算は合っています。
私の担当業務は、ここからです。
定時まで、あと200m。
……そうですね。
経理として、最後の仕訳をひとつだけ。
借方、全力。
貸方、残り200m。
それでは、定時です。
――――――――
《大外からミスオフィス!》
相沢さんが初めて手を動かした。
栗毛の首がぐっと沈んだ。
一完歩で、前が1頭分近づく。
二完歩で、さらに半馬身。
三完歩目で、1頭かわした。
残り200m。
ミスオフィスの脚が初めて全部の力を芝に返す。
蹴るたびに、芝が跳ねる。
白いソックスが4本とも伸び切る。
残り100m。
前は2頭。
坂の上で、外から並びかける。
《ミスオフィスだ! ミスオフィスが来た!》
俺の隣で、父さんがもう一歩前へ出た。
残り50m。
先頭に並ぶ。
内の馬が粘る。
外のミスオフィスがもう一度だけ伸びる。
《大外ミスオフィス! ミスオフィスだ!》
ゴールの瞬間、栗毛の鼻先が内の馬より半馬身だけ前に出た。
それで、終わった。
スタンドがどっと揺れた。
「……8番人気、来たじゃねえか」
後ろのほうで、さっきの声が裏返った。
俺は双眼鏡を下ろした。
「……定時だ」
それだけ言った。
これで3勝クラスだ。
馬主さんに呼ばれて、父さんと俺も検量室の前まで降りた。
検量室の前は、人と馬の熱気で満ちていた。
ミスオフィスは汗で光る首を小さく上下させながら、細い目で俺を見た。
「ニンジン、3本ですよね」
声は息のせいで少し掠れている。
「3本です」
俺は小声で答えた。
「……言われたとおりにしたら、来ました」
相沢さんが鞍から下りて、梶先生に小さく言った。
「第3条もお忘れなく」
ミスオフィスが念を押すように言った。
細い目は、もういつもの眠そうな顔に戻っている。
「明日は休みです。伝えてあります」
「よろしい。では契約履行ということで」
ミスオフィスは一度だけ耳を後ろに倒した。
「私、放牧先で一緒だった子がいたんです」
ミスオフィスの声がほんの少しだけ低くなった。
「その子、勝ったあと急に話さなくなって」
俺は黙って聞いていた。
俺は何も返さなかった。
戸川さんが手綱を引いて、ミスオフィスを連れて行こうとする。
その前に、細い目がもう一度こちらを向いた。
「ハルくん」
「はい」
「今週の坂路で、すごい子を見ました。鷹司さんの鹿毛」
俺はうなずいた。
ミスオフィスは首を少しだけ下げる。
「……あの子、私たちと話すとき、人間の騎手みたいな言葉を使うんです」




