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馬の声が聞こえるようになったと思ったら実は馬は全員元人間だった。  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第2章「売れ残りの馬券おやじ」

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第17話 王様は丁寧にしゃべる




 11月、東京スポーツ杯2歳Sの前日。


 土曜の朝、美浦トレセンの梶厩舎。


 俺は金曜の夜の便で、父さんと来た。


 関東の馬は、レースの当日の朝に競馬場へ運ばれる。


 だから源さんはまだ美浦にいる。


 そして朝から、落ち着きがない。


 洗い場で戸川さんにブラシをかけられながら、源さんは首を振った。


「明日は府中だぞ、兄ちゃん」


「聞いてます」


「府中っつや、あれだ。俺が一番通った競馬場だ」


「そうでしょうね」


「昭和の頃からだ。まだ客席が今より木ぃくさくてよ」


「木くさい客席は知りません」


 返事は口の中で転がすだけにしている。


 戸川さんには、子供の独り言にしか聞こえないはずだ。


 源さんは右前脚で地面を3回叩いた。


 考え込むときの癖だ。


「……明日、俺は府中の坂を下りる側なんだな」


「そういうことになります」


「今まで見てた側だったのによ」


「立場が変わるのは人生の常です」


「人生じゃねえ、馬生だ」


 源さんが鼻息を荒くした。


「重賞だぞ、兄ちゃん。重賞」


「聞いてます」


「俺の青春が詰まった府中で、重賞だ」


「青春は詰め込まないでください」


「昔な、俺は府中の指定席でな」


「またその話ですか」


「年間指定席っつうのをな、取ろうとしたことがあってだな」


「取らなかったんでしょうね」


「取れなかったんだよ」


「でしょうね」


 戸川さんがバケツの水を替えながら、少し困った顔をした。


「今日は落ち着きがないですね、この子」


「すみません」


 俺が代わりに頭を下げたとき、通路の向こうから蹄の音がした。


 蹄の音は、ゆっくりだった。


 源さんは気づかない。


「でな、兄ちゃん。府中のパドックってのは広くてよ」


「聞いてます」


「あれを見ると馬券を買うほうも気合が入るってもんだ」


「入るんでしょうね」


「俺もな、パドックで見栄えのする馬を何度も見てきたが」


「はい」


「あの中にはな、歩き方だけで分かる馬がいるんだ」


「いるでしょうね」


 通路の向こうから馬が来る。


 すらりと長い首が見えた。


 首が先に来て、体が後からついてくる形だ。


「歩き方だけで分かる馬ってのはな」


 源さんの声がそこで止まった。


 鼻息も止まった。


 耳が両方とも前に立っている。


「……源さん」


 返事がない。


 洗い場の前を、鹿毛の馬が通る。


 四肢の先だけが黒い。


 4本とも蹄のすぐ上まで黒くて、そこから上は鹿の毛色だ。


 靴を履いているみたいだ。


 額に細い流星が1本ある。


 白い線は鼻の先まで届かず、半分で消えている。


 よその厩舎の厩務員が手綱を持っている。


 戸川さん以外の前で源さんが黙るのを、俺は初めて見た。


 鹿毛の馬は洗い場の前で足を止めた。


 厩務員が手綱を引いても、動かない。


 黒い目が源さんではなく俺を見ている。


「……君、聞こえているね」


 俺は顔を上げた。


 目が合った。


 鹿毛の馬はまばたきをしない。


「返事はいい。人間の前ではしゃべれないだろう」


 声は静かだった。


「君のことは知っている。カミノイッテのところの子だね」


 俺は何も言わない。


 言えない。


「君が聞こえていると、今ので分かった」


 鹿毛の馬は首をわずかに傾けた。


「まばたきが遅れた。それだけだ」


 営業で言うなら、顔に出た。


 俺は表情を作り直した。


「坊ちゃん」


 戸川さんが俺の肩に手を置いた。


「この子、動かないですね」


「……そうですね」


 俺はそれだけ言った。


 鹿毛の馬の目が、洗い場の中の源さんへ移った。


 頭から首、肩、胴、脚。


 値札を見るみたいな、順番のある目だった。


 鹿毛の馬の目が、源さんの脚の先で止まった。


「脚は細いね」


 声は静かだった。


「細い脚で、よくあそこまで走った」


 源さんの耳が、片方だけ後ろに倒れた。


 鹿毛の馬は構わず続けた。


「胴は詰まっているが、心臓が大きい。2400mなら怖い」


 評価が終わると、鹿毛の馬はゆっくりと首を戻した。


 値札を見終わったあとの目だった。


 源さんの鼻息が戻ってきた。


「なんだあの気取った野郎」


 声を潜めているつもりらしい。


 俺は黙って前を見ていた。


 源さんより梶先生に近い言い方をする。


 鹿毛の馬はまだ動かない。


 厩務員が手綱を持ったまま、困った顔で戸川さんを見ている。


 そのとき、俺の後ろを相沢さんが通った。


 朝の追い切りに乗ったあとで、ヘルメットを小脇に抱えている。


「戸川さん、お疲れさまです」


 小さい声で頭を下げて、そのまま通路を歩いていく。


 背中を丸めている。


 鹿毛の馬の目が、相沢さんの背中を追った。


「あの騎手」


 声は静かだった。


「手綱を引くとき左手が先に動くね」


 俺は相沢さんの背中を見た。


「直線で外に膨らむ癖があるはずだ」


 鹿毛の馬は言い切った。


 俺は何も言えなかった。


 相沢さんの騎乗を、俺は何度も見ている。


 ミスオフィスのレースもそうだ。


 外に膨らんだことは一度もない。


 そもそも左手が先に動くなんて、見たことがない。


「君には分からないだろうね」


 鹿毛の馬は俺を見た。


「乗り手の癖は、走っている馬にしか分からない」


 俺は口を開きかけて、やめた。


 戸川さんが隣にいる。


「あの騎手はまだ若い」


 鹿毛の馬は続けた。


「矯正は可能だ。今のうちに直したほうがいい」


 あの馬は、いつ相沢さんの騎乗を見たんだ。


 情報の出所が分からない。


 営業で言うなら、これは未確認情報だ。


 決裁はできない。


 持ち帰って検討、だ。


 鹿毛の馬が、もう一度だけ源さんを見た。


「カミノイッテ」


 源さんの耳がびくりと動いた。


「明日、内を空けておくよ。入っておいで」


 鹿毛の馬は、首をゆっくりと戻した。


 厩務員が手綱を軽く引く。


 今度は素直に歩き出した。


 蹄の音が、通路の奥へ遠ざかっていく。


「……キングスレガリア」


 戸川さんが、小さくつぶやいた。


「鷹司ファームの期待馬です。函館では6馬身差でした」


 俺は黙ってうなずいた。


 名前からして格が違う。


「なあ兄ちゃん」


 源さんの声が低い。


「明日、あの野郎の内ぃ入ってやる」


 鼻息が荒い。


 完全に乗せられている。


 鹿毛の馬の蹄の音は、もう聞こえない。


 洗い場の水がぽたり、と落ちた。


 源さんが右前脚で、地面を3回叩いた。


「明日、府中で会おうぜ。キングスレガリア」


 俺は黙って、洗い場の蛇口をひねった。


 冷たい水が、手のひらを流れていった。


 外れているなら、わざわざ言いに来ない。


 言いに来たのは、向こうに使い道があるからだ。


 夕方の飼い付けのあと、俺は源さんの馬房の前に立った。


 通路には誰もいない。


「源さん」


 栗毛の首が奥からこちらを向く。


「なんだ兄ちゃん」


「明日の件です」


「明日の件はもう決まった」


 源さんは首を戻す。


「内を空けてやるって言われたんだ。行くに決まってる」


「行かないでください」


 源さんの耳が片方だけ動いた。


「なんでだ」


「キングスレガリアが内を空けると言ったのは、たぶん罠です」


「罠」


「あの馬は相沢さんの癖まで見抜いてました。こっちの情報を持っています」


「だからなんだ」


「だから、誘いに乗って内に入ると何かされます」


 源さんは鼻を鳴らした。


「誘われて行かねえ奴は男じゃねえ」


「馬でしょう」


「馬生じゃねえか」


 源さんは右前脚で地面を3回叩く。


 講釈の前触れだ。


「いいか兄ちゃん。俺はな、府中の内ぃ入って勝つ馬を腐るほど見てきた」


「見てきたんでしょうね」


「あのな、内を通るっつうのはな、それだけで1頭分得なんだよ。向こうが空けてくれるっつってんだ。断る理由がどこにあんだ」


「あります」


「言ってみろ」


「相沢さんに左手の癖があると、あの馬が言いました」


 源さんの鼻息が少し止まった。


「左手?」


「はい。手綱を引くとき左手が先に動くから、直線で外に膨らむと」


「ふうん」


 源さんは干し草をひと口噛んだ。


「それで?」


「それで、ではありません」


「相沢の癖がどうした」


 俺は答えられなかった。


 癖と内の誘いが、どうつながるのか。


 俺にもまだ分からない。


「……なあ兄ちゃん」


「はい」


「明日、俺が内ぃ入って、それで負けたら」


「負けます」


「即答すんな」


「でも負けます」


「だろうな」


 源さんは鼻を鳴らした。


「それでも行く」


「行かないでください」


「行く」


 源さんは右前脚で地面を3回叩いた。


 もう講釈はない。


 これで終わりだ。


 俺は馬房の扉に手をかけた。


「源さん」


「なんだ」


「府中の内は、そんなにいいですか」


「いいに決まってる」


 源さんは干し草を噛んだ。


「俺が一番通った競馬場の、一番いい場所だ」


「そうですか」


 俺は扉を閉めた。


 明日、あの馬は内を空けると言った。


 空けると言った馬が、本当に空けるわけがない。


 営業で言うなら、これは口約束だ。


 決裁は下りていない。


 夜9時を過ぎてから、宿の部屋で戸川さんに電話をかけた。


「相沢さん、どこにいますか」


「もう府中ですよ。調整ルームに入ってます」


 声はいつもどおり丁寧だった。


「騎手は前の晩の9時までにあそこに入ります。中では携帯が使えません」


 俺は電話を持ったまま頷いた。


 前の晩から、騎手は外と切り離される。


 知らなかった。


「伝言を、お願いできませんか」


「伝言ですか」


「明日のレースで、左手が先に動かないように気をつけてほしいと」


 戸川さんは首を傾げた。


「左手、ですか」


「はい」


「坊ちゃんが、相沢さんの騎乗のどこを見てそう思ったんですか」


 俺は黙った。


 馬から聞いたとは言えない。


 ビデオで見たと言っても、あの癖は映像に映っていない。


「……なんとなくです」


 自分で言って、自分で苦しくなった。


 営業では絶対に使わない言葉だ。


「なんとなく、ですか」


 戸川さんの声は、まだ丁寧だった。


「燕麦のときは、動画がありました」


「今回は、なんとなく、ですよね」


「前の晩に乗り方を変えさせて、相沢さんを迷わせたくありません」


 断られた。


 意地悪じゃない。


 レースの前に、騎手を迷わせたくないだけだ。


 正論で殴られた感触が、胸のあたりに残った。


◇


 日曜。東京競馬場。


 東京スポーツ杯2歳S。


 源さんは朝のうちに馬運車で美浦から運ばれてきた。


 10頭立て。


 キングスレガリアは1枠1番、単勝1.4倍。


 源さんは8枠9番、6番人気。


 いちばん内と、外から2番目だ。


 パドックの柵の前で、俺は周回を見ていた。


 源さんは相沢さんを背に、ゆっくりと輪の中を歩いている。


 耳が両方とも前に立っていた。


 キングスレガリアは先頭近くを歩いている。


 首の角度が、他の馬よりわずかに高い。


 俺のほうは見ない。


 見なくても、こっちの位置は分かっている。


 各馬、本馬場へ向かう。


 その列が俺の前を通り過ぎる。


 源さんの栗毛が近づいてくる。


 相沢さんは前だけを見ている。


 源さんの耳が、俺のほうへ片方だけ向いた。


「兄ちゃん、内、行くぞ」


 声は低かった。


「……行かないでください」


 源さんは返事をしなかった。


 そのまま歩いていく。


 俺の前を通り過ぎるとき、右前脚が地面を一度だけ強く踏んだ。


 キングスレガリアが通る。


 鹿毛の首は微動だにしない。


 黒い目はまっすぐ前を向いている。


 こっちは見ない。


 それでも、あの馬は全部分かっている。


 父さんがスタンドへ向かう背中を見せた。


 俺はその後ろを歩いた。


「見とけ」


 父さんはそれだけ言った。


 スタンドの最前列。


 双眼鏡を構える。


 芝の上に、小さく馬体が並んでいく。


 ゲートの係員が動く。


 1頭ずつ、箱の中へ消えていく。


 源さんの栗毛も、ゆっくりとゲートに収まった。


《各馬、ゲートに入りました》


 俺は双眼鏡を握り直した。


 1番のゲートの中で、鹿毛の首だけが動かない。


 9番の栗毛の耳が、内へ倒れた。

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